1.滅びを預言する預言者
・イザヤは預言者として立たされた。預言者は悔い改めを人々に求めるが、人々は目の前に悲惨や破局を見ない限り、悔い改めない。必然的に預言者の職務は滅びの預言となる。
-イザヤ6:9-10「主は言われた『行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために』」。
・それでは何故預言者が立たされるのか。破壊の焼け跡の中から、切り株の中から、新しい芽が出る希望を告げるためだ。希望の前には破壊がある。イザヤは主がエルサレムを棄てられる日が来ることを預言する。
-イザヤ3:1「見よ、主なる万軍の神は、支えとなり、頼みとなる者を、また、パンによる支え、水による支えをもエルサレムとユダから取り去られる」。
・滅びの予告としてユダの人々にシリヤ・エフライム軍の侵略が与えられる(前734年)。反アッシリア連合に同調しないエルサレムを両国は攻めた。連合軍は武力に勝り、ユダは撃たれ、多くの指導者は連れ去られた。
-?歴代誌28:5-8「主はアハズをアラムの王の手に渡された。アラム軍は彼を打ち、多くの者を捕虜にしてダマスコに連れ去った。アハズはイスラエル王の手にも渡され・・・イスラエル王ペカは、ユダで一日のうちに十二万人を打ち殺した・・・エフライムの勇者ジクリは、王子マアセヤ、侍従長アズリカムと王の代行エルカナを殺した。イスラエルの人々はその兄弟の国から婦女子二十万人を捕虜とし、大量の戦利品を奪って、サマリアに運び去った」。
・イザヤ3章の預言の背景にはこのシリヤ・エフライム軍への敗戦があると思われる。指導者は殺され、捕虜となり、国は無政府状態に放置された。
-イザヤ3:2-5「勇士と戦士、裁きを行う者と預言者、占い師と長老、五十人の長と尊敬される者、参議、魔術師、呪術師などを取り去られる。私は若者を支配者にした。気ままな者が国を治めるようになる。民は隣人どうしで虐げ合う。若者は長老に、卑しい者は尊い者に無礼を働く」。
・救いは悔い改めの後にしか来ない。救いのために徹底的に破壊される。
-イザヤ3:8-10「エルサレムはよろめき、ユダは倒れた。彼らは舌と行いをもって主に敵対し、その栄光のまなざしに逆らった。彼らの表情が既に証言している。ソドムのような彼らの罪を表して、隠さない。災いだ、彼らは悪の報いを受ける。しかし言え、主に従う人は幸い、と。彼らは自分の行いの実を食べることができる」。
2.滅亡を見据える預言者
・試練が与えられた。しかし、ユダ王アハズはそれを主からの戒めと受け取らず、救いを外国の軍隊であるアッシリアに求める。イザヤは「主に依り頼め」と力説するが、アハズは聞かずにアッシリアの援軍を求めた。
−?列王記16:7-9「アハズはアッシリアの王ティグラト・ピレセルに使者を遣わして言わせた『私はあなたの僕、あなたの子です。どうか上って来て、私に立ち向かうアラムの王とイスラエルの王の手から、私を救い出して下さい』・・アッシリアの王はその願いを聞き入れた。アッシリアの王はダマスコに攻め上ってこれを占領し、その住民を捕虜としてキルに移し、レツィンを殺した」。
・国は破滅に向かって歩み始める。その原因は国に正義がないためだ。主は貧しい者のために行為される。教会もそうだ。教会が「地の塩」、「見張り塔」の役割を忘れて自己目的化した時に、仲間割れや分派で揺らされる。
-イザヤ3:13-15「主は争うために構え、民を裁くために立たれる。主は裁きに臨まれる、民の長老、支配者らに対して。『お前たちは私のぶどう畑を食い尽くし、貧しい者から奪って家を満たした。何故、お前たちは私の民を打ち砕き、貧しい者の顔を臼でひきつぶしたのか』と主なる万軍の神は言われる」。
・イザヤは美しく装い、男の気を惹くためにしなをつくる上流階級の女性たちが、やがて砕かれる日を預言する。
-イザヤ3:16-24「主は言われる。シオンの娘らは高慢で、首を伸ばして歩く。流し目を使い、気取って小股で歩き、足首の飾りを鳴らしている。主はシオンの娘らの頭をかさぶたで覆い、彼女らの額をあらわにされるであろう。その日には、主は飾られた美しさを奪われる。・・・芳香は悪臭となり、帯は縄に変わり、編んだ髪はそり落とされ、晴れ着は粗布に変わり、美しさは恥に変わる」。
・戦争で男たちは死に、女たちだけが残される。彼女たちを守り、子を生んでくれる男たちはいない。今でも同じ出来事がイラクやアフガンで起きている。何故悲惨は繰り返されるのか。主の言葉に耳を傾けないからだ。
-イザヤ3:25-4:1「シオンの男らは剣に倒れ、勇士は戦いに倒れる。シオンの城門は嘆き悲しみ、奪い尽くされて、彼女は地に座る。その日には、七人の女が一人の男をとらえて言う『自分のパンを食べ、自分の着物を着ますから、どうか、あなたの名を名乗ることを許し、私たちの恥を取り去ってください』と」。
・救いは悲惨の後に来る。それを信じる者はどのような困難にあっても希望を失わない。哀歌はエルサレム滅亡時にエレミヤが歌った詩と言われる。
-哀歌3:28-33「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。