1.神の箱の意味するもの
・ダビデはエルサレムに王宮を築くと、キリヤテ・エレアムに仮安置されていた神の箱をエルサレムに運び入れることにした。神の箱がエルサレムにあれば、エルサレムが“主の臨在される”場所、国の中心になると考えた。
―?サムエル6:1-2「ダビデは更にイスラエルの精鋭三万をことごとく集めた。ダビデは彼に従うすべての兵士と共にバアレ・ユダから出発した。それは、ケルビムの上に座す万軍の主の御名によってその名を呼ばれる神の箱をそこから運び上げるためであった」。
・祭司のウザとアフヨが神の箱を載せた牛車を御していたが、途中で牛がよろめいたため、ウザは神の箱を支えようと手を伸ばし、箱に触れた。主はウザの行為を怒られ、その場で彼を打たれ、ウザは死んだ。
―?サムエル6:6-7「一行がナコンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえた。ウザに対して主は怒りを発し、この過失のゆえに神はその場で彼を打たれた。ウザは神の箱の傍らで死んだ」。
・何故ウザは打たれたのか。「聖なるものに手を触れるな」という掟を破ったためだが(民数記4:15)、それ以上に神を助けようとした行為に冒涜があった。神が箱の中におられ、その箱が落ちることを防ごうとした。神は人の助けを必要とされないし、人の造った家や神殿にはおられない。箱を偶像視したところに罪があった。
―?列王記8:27「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。私が建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」。
・ダビデは主を恐れて、神の箱をエルサレムに運ぶことを断念した。神の力を利用しようとした間違いに気づいた。
―?サムエル6:9-10「その日、ダビデは主を恐れ『どうして主の箱を私の元に迎えることができようか』と言って、ダビデの町自分のもとに主の箱を移すことを望まなかった。ダビデは箱をガト人オベド・エドムの家に向かわせた」。
2.神の祝福と呪い
・神の箱はオベド・エドムの家に置かれた。主はその家を祝福することによって、ダビデに御心を示された。ダビデは改めて主の箱をエルサレムに運ぶ。
―?サムエル6:12「神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられるとダビデ王に告げる者があった。王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた」。
・前にダビデは3万人の軍隊で神の箱を守ろうとした。今回、ダビデは軍服を脱ぎ、祭服を着て、神の前に踊った。神はその力を利用しようとする者には呪いを、その力を喜ぶ者には祝福を与えられることがわかったからだ。
―?サムエル6:14-15「主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた」。
・ダビデの妻ミカルはダビデの気持ちを理解せず、ダビデをなじる。ダビデはそのミカルに「選ばれた喜びを表すことこそ礼拝なのだ」と伝える。礼拝とは恵みを喜ぶことだ。
―?サムエル6:20-22「サウルの娘ミカルがダビデを迎えて言った『今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから』。・・・ダビデはミカルに言った『そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、この私を選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で・・・私は踊ったのだ。私はもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう」」。
・主は私たちなしに天地を創造された。私たちなしに主は生きられる。その主が私たちを選び、地上の業を託される。私たちは恵みをそのままに喜べばよい。しかし、人はその恵みを律法に変えて呪いとする。そこに問題がある。
―ローマ10:2-3「私は彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」。
・私たちは神の義ではなく、人の義を求める。その義に従わないものは排除しようとする。パリサイ人は律法を守らないものを排除することによって、もっとも大事な律法=人を愛することを忘れた。
―ルカ15:1-2「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」。
・神の箱はエルサレム滅亡時に奪い去られ、今はない。しかし、神の箱はもう要らない。神の子イエスが来られて、紙に書かれた臨在のしるしが不要になった。神の契約はイエスの血によって私たちの心に書かれた。
―?コリント3:3「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。