1.主をのみ愛せ
・申命記における最大の戒めは「主を愛せよ」である。この戒めは「シェマ=聞け」として、告げられる。
−申命記 6:4-5「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。
・十戒の根本である第一戒、第二戒はこの言葉の中に吸収される。
−申命記5:7-9「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。・・・あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。私は主、あなたの神。私は熱情の神である。私を否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」
・それは律法を全て要約する言葉である。イエスも律法とは「主を愛することである」と言われた。
−マタイ22:36-40「『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか』。イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
・この戒めは大事であるから、心に留め、子どもに教え、印として持ち歩けと命じられている。
−申命記6:6-9「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」。
・何故従うのか。それは神が民をエジプトから解放し、約束の地を与えてくれたからである。恵みに対する応答として、従えと命じられている。
−申命記6:21-25「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける。」
2.戒めと民
・この戒めに対して、イスラエルは忠実であり続けるかどうかが問われる。
−申命記6:10-12「あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい」。
・イスラエルはまもなく偶像を拝み始める。神は私たちに応答としての生き方を求めるが、偶像は供え物をすれば祝福を約束する。偶像は私たちが生き方を改めるように求めない故に、私たちは主を離れ、偶像を拝む。
−アモス5:21-24「私はお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。たとえ、焼き尽くす献げ物を私にささげても、穀物の献げ物をささげても、私は受け入れず、肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌を私から遠ざけよ。竪琴の音も私は聞かない。 正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」。
・外面的に律法を守っても何も変わらない。それは内面の出来事であるからだ。故に、人に災いが(イスラエルには捕囚が、私たちには苦難が)与えられる。苦難を通して、始めて、人は律法を心に刻むからだ。
−エレミヤ31:33「来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」。
・悔い改めと回心が無い限り、人は神に従うことが出来ない。悔い改める、これ為しに神は見えない。
−使徒行伝2:37-38「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに『兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか』と言った。すると、ペトロは彼らに言った『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます』」。