1.兄弟の和解
・ユダは弟ベニヤミンを助けるために自分を奴隷にせよと嘆願し、ヨセフはそれを聞いて自分の身を明かす。
―創世記45:1-3「ヨセフはそばに立っているすべての人の前で、自分を制しきれなくなったので『人は皆ここから出てください』と呼ばわった。それゆえヨセフが兄弟たちに自分のことを明かした時、一人も彼のそばに立っている者はなかった。ヨセフは声をあげて泣いた。・・・ヨセフは兄弟たちに言った『私はヨセフです。父はまだ生きながらえていますか』。兄弟たちは答えることができなかった。彼らは驚き恐れたからである。」
・ヨセフは兄弟を責めない。神の導きで、エジプトで兄弟たちと再会することが出来たと信じる故である。
―創世記45:4-5「ヨセフは兄弟たちに言った『私に近寄ってください』。彼らが近寄ったので彼は言った『私はあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。しかし私をここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきに私をつかわされたのです。』
・「あなた方が私を売った」行為が「神が遣わされた」行為に昇華されている。和解による赦しが宣言されている。
―マタイ5:23-24「祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。」
・人間の罪の現実を超えて働く神の力をヨセフも兄弟も感じている。
―創世記45:7-8「神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、私をあなたがたよりさきにつかわされたのです。それゆえ私をここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。神は私をパロの父とし、その全家の主とし、またエジプト全国のつかさとされました。」
・ヨセフは父ヤコブにエジプトに来て、一緒に住むように勧める。
―創世記45:9-11「あなたの子ヨセフが、こう言いました。神が私をエジプト全国の主とされたから、ためらわずに私の所へ下ってきなさい。あなたはゴセンの地に住み、あなたも、あなたの子らも、孫たちも、羊も牛も、その他のものもみな、私の近くにおらせます。飢饉はなお五年つづきますから、あなたも、家族も、その他のものも、みな困らないように、私はそこで養いましょう」。
・こうしてイスラエル一族はカナンを離れ、エジプトの国に住むようになった。
―詩篇105:23-24「イスラエルはエジプトに来た。ヤコブはハムの地に寄留した。主はその民を大いに増し加え、これをそのあだよりも強くされた。」
2.神の導かれる歴史(神の摂理)
・ヤコブ一族がエジプトに来たのは、紀元前17世紀のヒクソス(ギリシャ語=異国の地の支配者)王朝の頃と思われる。やがて異邦人の王朝は追放され、新王国の時代(紀元前13世紀)に出エジプトがなされたと考えられている。70人の部族が400年の間に一つの国民と育てられていった。
―創世記46:27「エジプトへ行ったヤコブの家の者は合わせて七十人であった。」
―出エジプト記12:37「イスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに向かった。女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人であった。」
・「末を残す」(45:7、新共同訳では残りの者)という言葉は大事だ。神はイスラエル部族を養うためにヨセフを祝福された。私たちが教会に属するものにさせられたのも、囲いの外にいる人々に救いを伝えるためである。
―ヨハネ10:16「私にはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、私の声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、一人の羊飼となるであろう。」
・ヨセフ物語はキリストの十字架の予表とされている。兄弟によって捨てられたものが兄弟を養うようになる。
―イザヤ53:4-5「まことに彼は我々の病を負い、我々の悲しみを担った。しかるに、我々は思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼は我々のとがのために傷つけられ、我々の不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、我々に平安を与え、その打たれた傷によって、我々はいやされたのだ。」
・苦難はその理由がわからない時には耐えることが出来ない。しかし、その苦難が神の導きであることを知った時、苦難の意味が変わって来る。これが福音である。
―ヘブル11:3「信仰によって、私達は、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。」