1.アブラハムのゲラル滞在
・アブラハムは草地を求めてゲラルに移動するが、新しい地でサラを妹と偽り、王アビメレクに差し出す。
―創世記20:1-2「アブラハムはそこからネゲブの地に移って、カデシとシュルの間に住んだ。彼がゲラルにとどまっていた時、アブラハムは妻サラのことを、『これはわたしの妹です』と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人をつかわしてサラを召し入れた。」
・これはエジプトでアブラハムが行ったのと同じ行為であった。
―創世記12:11-13「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。エジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、あなたを生かしておくでしょう。どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう」。
・創世記18-19章ではサラは90歳で月のものも止まっていた。20章ではサラは若い女性として描かれている。恐らくは、後代の記者(エロヒスト)が創世記12章の物語を神学的に解説するために挿入した物語であろう。
2.アビメレクとアブラハム
・アビメレクは若く魅力的なサラを自分の後宮に入れるが、それは死に価する罪であるとの幻を受け、アブラハムを追及する。アブラハムはペリシテ人を信頼できなかったので、偽ったと答える。
―創世記20:11-13「この所には神を恐れるということが、まったくないので、私の妻のゆえに人々が私を殺すと思ったからです。また彼女はほんとうに私の妹なのです。私の父の娘ですが、母の娘ではありません。そして、私の妻になったのです。神が私に父の家を離れて、行き巡らせた時、私は彼女に、あなたは私たちの行くさきざきで私を兄であると言ってください。これはあなたが私に施す恵みであると言いました」
・信仰の父と言われたアブラハムが、神を信じることが出来ず、また自己の不信を神の責任にしている。
―アブラハムは自分が殺されることを恐れた、神はどのような時にも守ると信じきることが出来なかった。
―妻サラを妹と偽ったのに、偽っていないと強弁した(実際に異母姉妹であっても偽りは偽りである)
―神の召しに答えて旅立ったはずなのに、強制されて放浪していると偽った。
・それに対して、異邦人のアビメレクの方が神を恐れる人であることを記者は明らかにする。
―創世記20:14-16「アビメレクは羊、牛および男女の奴隷を取ってアブラハムに与え、その妻サラを彼に返した。そしてアビメレクは言った、『わたしの地はあなたの前にあります。あなたの好きな所に住みなさい』」
3.この物語は私たちに何を教えるのか
・信仰の偉人アブラハムでさえ、試練の中ではその場しのぎの小細工を施し、その結果、人を欺き、傷つけ、裏切り、しかもそれを神の名によって正当化している。正に人間は人間であり、義人はいないのである。
―詩篇14:1-3「愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。主は天から人の子らを見おろして、賢い者、神をたずね求める者が/あるかないかを見られた。彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもない。」
・イエスの時においても、姦淫を犯した女を裁けるものは一人もいなかった。
―ヨハネ8:7-9「イエスは身を起して彼らに言われた、『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』。・・・これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。」
・人が自分は正しいと認める時、そこに罪が発生する。現代の一部の教会は第一テモテ3章を牧師の条件として求めるがそのような人は誰もいないことを認めなければならない。
―第一テモテ3:2-5「監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。」
・神は私たちが信じようと信じまいと存在されるのであり、神は私たちが恐れようが恐れまいが御心を為される。その時、人間に出来るのは自分が罪人であることを認め、神の前に跪くことのみである。