1.ヤコブの逃走(1-9節)
・兄エソウから祝福を騙し取ったヤコブは兄から命を狙われることになり、父の家から逃れた。
―創世記27:42-44「兄エサウはあなたを殺そうと考えて、みずから慰めています。子よ、今私の言葉に従って、すぐハランにいる私の兄ラバンのもとにのがれ、あなたの兄の怒りが解けるまで、しばらく彼の所にいなさい。」
・ヤコブは父イサクをも騙したが、父はこれを赦し、ヤコブを祝福して送り出した。
―創世記28:5「こうしてイサクはヤコブを送り出した。ヤコブはパダンアラムに向かい、アラムびとベトエルの子で、ヤコブとエサウとの母リベカの兄ラバンのもとへ行った。」
・パダンアラム(アラム人の国)はベエルシバから800キロ(徒歩で1ヶ月の旅)の所、今日のシリヤである。そのハランが祖父アブラハムの故郷、母リベカの生まれたところであった。
―創世記12:4「アブラムは主が言われたようにいで立った。・・アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。」
2.ベテルでの神との出会い(10-17節)
・ベエルシバを立ったヤコブはベテルで野宿し、そこで不思議な夢を見る(ベテルは80キロの距離)。
―創世記28:10-12「ヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。」
・はしごはらせん状の階段の意味で、神の建物(ジグラッド)の階段である。古代において、神は天上に住み、神の使いがその階段を降りてきて御業を行うと考えられていた。イエスもこの出来事を引用しておられる。
―ヨハネ1:51「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。
・イエスが神と人との間のはしご(仲保者)になられるとの意味。ヤコブがはしごを見たことは彼も神と人との仲保者になることを暗示している(ヤコブはやがて名前を変えてイスラエルになり、それが民族の名になる)。
・その地(ベテル=神の家の意)でヤコブは神と出会い、祝福を受ける。
―創世記28:15「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。
・ヤコブは兄を騙して、追われて旅に出、その旅先で神と出会った。私たちも日常から離れた時に神に出会う。
―ヤコブの日常は、親の偏愛、家督相続の争い、兄弟の不和、策略と怒りであった。この日常においては人間的な思いに満たされ神が見えなくなる。イスラエル人が神と出会うのは荒野である。
3.神とヤコブの対話(18-22節)
・神はヤコブを無条件に祝福された。それに対し、ヤコブは商人のような駆け引きで応える。
―創世記28:20-22「神が私と共にいまし、私の行くこの道で私を守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主を私の神といたしましょう。また私が柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、私は必ずあなたにささげます」。
・神の祝福に応えることの出来ないヤコブは砕かれなければならない。ハランでのヤコブ苦難はそのためだった。
―ホセア12:12「ヤコブはアラムの地に逃げていった。イスラエルは妻をめとるために人に仕えた。彼は妻をめとるために羊を飼った」。
・神が望んでおられるのは石を立てて拝むことでもなく、十分の一を捧げることでもないのに、人はそれを忘れ、ベテルはやがて父祖イスラエルが神と出会ったところとして聖地になる。人は神との出会いさえ偶像化する。
―アモス4:4「あなたがたはベテルへ行って罪を犯し、ギルガルへ行って、とがを増し加えよ。朝ごとに、あなたがたの犠牲を携えて行け、三日ごとに、あなたがたの十分の一を携えて行け。」
・20年後にヤコブはこの神との出会いを回想する。ヤコブが神の僕となる為には20年が必要であった。
―創世記31:41-42「私はこの二十年あなたの家族のひとりでありました。私はあなたのふたりの娘のために十四年、またあなたの群れのために六年、あなたに仕えましたが、あなたは十度も私の報酬を変えられました。もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクのかしこむ者が私と共におられなかったなら、あなたはきっと私を、から手で去らせたでしょう。神は私の悩みと、私の労苦とを顧みられて昨夜あなたを戒められたのです」。