招詞
「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」(ペトロの手紙一2章23節)
起:逃れ行く王に投げつけられた呪い
・皆さん、おはようございます。本日の御言葉はサムエル記下16章5~14節です。
王ダビデは、息子アブサロムの反逆によって都を追われ、疲れ果てて逃れていました。
その道の途中、サウル家の一族シムイが現れ、石を投げ、土をまき散らしながら、「出て行け、出て行け。流血の男、悪党」と呪います。
・人生には、弱っている時に限って厳しい言葉が飛んでくることがあります。
説明する力も、反論する余裕もない時に、過去の罪や失敗を突きつけられる。
シムイの呪いは、ダビデの耳にだけでなく、彼の良心にも深く刺さったことでしょう。
・ここで少し、ダビデがこの呪いをどのように聞いたのかを理解するために、背景を思い起こしたいと思います。ダビデは完全な王ではありませんでした。彼はかつて、ウリヤの妻バト・シェバを奪い、その罪を隠すためにウリヤを戦場で死なせました。その罪は、神の前に深く問われるものでした。
そして預言者ナタンを通して告げられたように、その罪の影響はダビデ自身の内側だけで終わらず、家庭の中に、また国全体の歩みの中に現れていきました。
そのことをナタンは、ダビデに向かってこう告げました。「剣はとこしえにあなたの家から去らない」(12:10)
これは、罪の結果がダビデ個人の後悔だけで終わらず、彼の家と国の歩みに深く及んでいくことを示す言葉でした。
家庭では、子どもたちの間に痛みと対立が起こり、アムノン、タマル、アブサロムをめぐる悲劇が重なっていきます。王の家の中に赦されない怒りと復讐が積もり、やがてアブサロムは父ダビデに背き、民の心を自分へ引き寄せ、国を大きく揺るがす反乱を起こします。
つまり、ダビデが今、都を追われているのは、単なる政治的な危機ではありません。
自分の罪の根が、家庭の破れとなり、国の混乱となって現れている、そのただ中を歩いているのです。
だからこそ彼は、シムイの言葉を単なる敵意としてだけでなく、主の御前で自分自身を省みる言葉としても受け止めたのです。
私たちの生活にも、シムイのような声が聞こえることがあります。実際に人から言われた言葉かもしれません。あるいは、自分の内側で繰り返し響く声かもしれません。
「あなたは失敗した」「あなたには価値がない」「あの過去は消えない」。
その声は、私たちを神から遠ざけ、祈る力を奪い、心を閉じさせます。
しかし聖書は、そのような呪いの声の中で、なお主の声を聞く道があることを示しています。
ここで、私たちは自分自身に問いかけたいのです。今、私の心に響いている「シムイの声」は何でしょうか。
たとえば、家族から何気なく言われた一言、職場や学校で失敗を責められた記憶、
教会や人間関係の中で受けた誤解や冷たい言葉が、今も心に残ってはいないでしょうか。
また、それは誰かの声ではなく、自分で自分に向けている声かもしれません。
「なぜあの時あんなことをしたのか、あんなことを言ったのか」「自分はまた同じ失敗をするのではないか」「もう取り返しがつかない」と、夜眠る前や一人になった時に、心の中で繰り返している声はないでしょうか。
その声を、私たちはただ握りしめ続けるのではなく、主の御前に差し出しているでしょうか。
「主よ、この言葉で私は傷ついています」「この記憶から自由にしてください」と、正直に祈ることができているでしょうか。詩編の祈りのように、「主よ、わたしの言葉に耳を傾け/つぶやきを聞き分けてください。」(詩編5編2節)と、傷ついた心そのものを主に差し出すことができるでしょうか。
また、「打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。」(詩編147編3節)との御言葉があります。
この言葉は、主が私たちの傷を叱る方ではなく、癒し包んでくださる方であることを告げています。
人からの言葉で傷ついた時、私たちはその痛みを「信仰が弱いからだ」と自分で責めてしまうことがあります。しかし主は、傷ついた心を退けられません。打ち砕かれたまま、整理できないまま、涙のまま近づく者を、主は受け止め、時間をかけて包んでくださいます。
ですから、私たちの問いは、傷を隠すためでも、無理に強く見せるためでもありません。
むしろ、「この痛みを主は知っていてくださる」と信じて、傷を包んでくださる主のもとへ向かうための問いなのです。
たとえば、家に帰ってからも、日中に言われた一言が何度も頭の中で再生されることがあります。
食事をしていても、電車に乗っていても、車を運転していても、礼拝の席に座っていても、「あの言葉はどういう意味だったのか」「自分は嫌われているのではないか」と心が縛られることがあります。
そのような時こそ、私たちはその言葉を一人で抱え込むのではなく、主の前に差し出してよいのです。
承:剣で黙らせる道と、主にゆだねる道
・側近ツェルヤの子アビシャイは怒ります。
「なぜあの死んだ犬に主君、王を呪わせておかれるのですか。行かせてください。首を切り落としてやります。」(16:9)人間的には当然の反応と言えるでしょう。不当な言葉には言い返したい。屈辱を受けたら、力で相手を黙らせたい。私たちの心にも同じ衝動があります。しかしダビデは剣を許しません。
「主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから、『どうしてそんなことをするのか』と誰が言えよう。」(16:10)これはシムイの罪を正しいと認めたのではありません。
自分で復讐せず、主の裁きと憐れみに自分をゆだねたのです。
ダビデは、自分の正しさだけを握りしめませんでした。
彼は「主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」」と語ります。(16:12)呪いの中でなお、主のまなざしを信じたのです。
・ここでダビデは、自分の正しさを証明することよりも、主の憐れみに望みを置きました。
信仰とは、自分の潔白だけを握りしめることではありません。神の前に自分の罪も痛みも差し出し、「主よ、あなたがご存じです」と申し上げることです。人の評価は変わります。
昨日まで称賛していた人が、今日は非難することがあります。
しかし主のまなざしは、私たちの苦しみを見落としません。
皆さんは、傷つけられた時、まず何を握りしめるでしょうか。たとえば、家族に理解されなかった時、同僚から不公平な評価を受けた時、友人や教会の兄弟姉妹との間で誤解が生じた時、私たちはすぐに相手を責める言葉を心の中で集めてしまうことがあります。
「自分は間違っていない」と証明するために、相手の弱さや過去の言葉まで思い出して、心の中で裁き続けることはないでしょうか。それとも、その怒りをそのまま主の前に差し出し、「主よ、あなたが見ておられます。私を復讐ではなく、あなたへの信頼へ導いてください」と祈ることができるでしょうか。
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ローマの信徒への手紙12:19)との御言葉を、今日の自分への招きとして聞けるでしょうか。
さらに主イエスも、「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」(ルカによる福音書6:35)と語られました。
この御言葉は、感情としてすぐに相手を好きになりなさい、という単純な命令ではありません。
私たちの心が怒りや防衛本能でいっぱいになる時、相手を罰することで自分を守ろうとする時、主イエスはその手から復讐の剣を下ろさせようとなさいます。
敵を愛するとは、相手のしたことを正当化することではありません。悪を悪として主の前に差し出しながらも、自分の心が憎しみに支配されないよう、神の憐れみに自分を置くことです。
傷つけた相手をすぐに受け入れられなくても、まず復讐を主にゆだねる一歩、祈りの中で相手を神の御手に渡す一歩へと導かれているのです。
たとえば、家庭で自分の思いが伝わらず、つい強い口調で言い返したくなる時があります。
職場で正当に評価されなかったと感じ、相手の欠点を心の中で数え始める時があります。
教会の交わりの中でも、自分の意図が誤解され、「どうして分かってくれないのか」と怒りが積もることがあります。
その時、信仰は怒りをなかったことにするのではなく、その怒りを主の前に置き、剣を抜く前に祈る道を示します。
転:呪いを担われたキリスト
・ここに、福音へと開かれる道があります。ダビデの姿は、完全な王である主イエス・キリストを指し示しています。主イエスは、罪のないお方でありながら、人々にののしられ、あざけられ、十字架へと向かわれました。
それでも主は、ののしり返さず、正しくお裁きになる父にすべてをお任せになりました。
しかもキリストは、ただ不当な苦しみに耐えられただけではありません。
十字架の上で、私たちの罪と呪いをその身に担ってくださいました。
私たちが受けるべき裁きを、主が引き受けてくださったのです。
だから、キリストを信じる者は、もはや呪いの言葉によって自分の価値を決められる必要がありません。
人の言葉は私たちを深く傷つけます。しかし、最後に私たちを定めるのは、人の呪いではなく、十字架と復活の主の恵みです。主は、罪ある私たちを責めるためではなく、救うために来られました。
・十字架とは、呪いが祝福へと変えられる場所です。人間の罪、憎しみ、嘲り、裏切り、そのすべてが主イエスに向けられました。しかし神は、その十字架を敗北で終わらせませんでした。
復活によって、神の赦しと命が最後の言葉であることを明らかにしてくださいました。
ですから、私たちは自分に向けられた呪いの言葉を、最終的な判決として受け取らなくてよいのです。
私たちを定めるのは、人の評価ではなく、キリストにある神の恵みです。
・もし私たちが、誰かの言葉によって深く傷ついているなら、主はその痛みを軽く扱われません。
「気にするな」と簡単に片づけるのではなく、その傷を十字架のもとに持って来なさいと招いておられます。
また、もし私たち自身が誰かを呪う言葉を心に抱いているなら、主はその心も照らされます。
福音は、傷つけられた者を慰めるだけでなく、傷つける者をも悔い改めへと導く恵みです。
・私たちは今日、十字架の前で問われています。
私たちは、誰の言葉によって自分の価値を決めているでしょうか。たとえば、仕事の成果や成績、人からの評価、家族の期待、過去の失敗、あるいは誰かに言われた否定的な一言が、「自分はこういう人間だ」と決めつける声になってはいないでしょうか。
それとも、「あなたはわたしのもの」「あなたの罪はわたしが担った」と語ってくださるキリストの恵みを、最後の言葉として聞いているでしょうか。
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」(ローマの信徒への手紙8:1)という福音を、自身への言葉として受け取っているでしょうか。
また、コリントの信徒への手紙二には、「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリントの信徒への手紙二5:17)とあります。
これは、過去がなかったことになる、という意味ではありません。
私たちが犯した罪、負った傷、言われた言葉、失ったものが、魔法のように消えるということではありません。しかし福音は、それらが私たちの最終的な名前ではなくなると告げます。
神は、失敗した者をただ「失敗者」と呼ばれません。傷ついた者をただ「傷ついた人」として終わらせません。キリストに結ばれた者は、神の前で新しく造られた者として受け入れられます。
ですから、私たちは人の評価や過去の言葉ではなく、キリストにある新しい命によって自分を受け取り直すことができるのです。
また、私たちは時に、一つの失敗で自分全体を決めつけてしまいます。
仕事でミスをした時、「自分は役に立たない」と思い込みます。
子育てや介護、家族との関係でうまくいかない時、「自分はだめな人間だ」と感じます。信仰生活で祈れない日が続くと、「自分は神に喜ばれていないのではないか」と不安になります。
しかしキリストにある新しい命は、そのような決めつけから私たちを解放します。
主は、失敗した一場面ではなく、十字架で贖われた一人の人として私たちを見てくださいます。
結:呪いに代えて祝福を待ち望む
・ダビデ一行は疲れ果ててヨルダンに着き、そこで息をつきました。呪いはすぐに消えません。
石も土も飛んできます。それでも、主にゆだねる者には、息をつく場所が備えられます。
私たちもまた、傷つけた人をすぐに赦せない弱さを抱えます。
けれども、復讐を自分の手に握りしめず、主の前に差し出すことはできます。
「呪ってはなりません」とは、痛みをなかったことにする命令ではありません。
十字架の主に痛みを預け、悪に悪を返す連鎖から解き放たれる招きです。
キリストに結ばれた者は、呪いの言葉に支配されず、祝福を祈る者へと少しずつ造り変えられていきます。
・今日、私たちの心にもシムイの声が響くかもしれません。
過去を責める声、自分を価値のない者と告げる声、誰かへの怒りを燃やし続ける声です。
しかし、そのただ中で主は語られます。
「わたしがあなたの罪を担った。あなたはわたしの恵みの中に生きなさい。」この主にゆだねるとき、
呪いは最後の言葉ではなくなります。最後の言葉は、キリストの十字架から響く赦しと祝福です。
そして、教会はこの福音を共に聞く群れです。私たちは互いに完全ではありません。
時に傷つけ、時に傷つけられます。だからこそ、私たちは十字架の主のもとに集められます。
主に赦された者として、互いに赦しを学び、祝福を祈る言葉を取り戻していきます。
シムイの呪いの声が響く世界のただ中で、教会はキリストの祝福の言葉を証しする共同体として立てられています。
今週、私たちはどの言葉を選んで歩むでしょうか。
たとえば、教会で、執事会で、信徒会で、家庭で感情的になりそうな時、職場で不満を言いたくなる時、誰かのうわさ話に加わりそうになる時、あるいは心の中で相手を責め続けたくなる時、私たちはどの言葉を選ぶでしょうか。
呪いを呪いで返す言葉でしょうか。沈黙の中で怒りを育てる言葉でしょうか。
それとも、短くても主よ、あの人を祝福してください」「私の心を守ってください」と祈る言葉でしょうか。
主イエスは「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイによる福音書5:44)と語られました。
この御言葉に支えられて、十字架の主に痛みを預け、祝福を祈る道へ、主は今日、私たちを招いておられます。
使徒パウロも、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマの信徒への手紙12:21)と勧めています。この御言葉は、悪を見ないふりにすることでも、不正を放置することでもありません。
悪に傷つけられた私たちの心が、その悪と同じ形に変えられてしまわないように守る言葉です。
悪に悪で返す時、一見勝ったように見えても、実は私たちの心は相手の悪に支配されています。
しかし、善をもって悪に勝つとは、キリストの愛と真実にとどまり、祈り、必要ならば正しく距離を取ることです。ダビデもシムイを力で黙らせはしませんでしたが、立ち止まって言い争ったのでもありません。
主にゆだねながら、なお歩むべき道を進み、傷つける言葉との間に必要な距離を置いたのです。
距離を取ることは、憎しみではなく、主の前で心を守り、信仰を失わないための知恵でもあります。
そして、その距離の中で、心を憎しみに明け渡さず、主の裁きと憐れみに相手を渡していくのです。
祝福を祈ることは、弱さのしるしではありません。
悪に飲み込まれず、キリストの善にとどまる信仰の戦いなのです。
具体的には、相手にすぐ返事を送る前に一度祈ることかもしれません。
感情的なメールやメッセージを書いたなら、送信する前に一晩置くことかもしれません。
うわさ話に加わらず、その人のために短く祈ることかもしれません。
顔を合わせるのが難しい相手について、まず「主よ、私の心を憎しみから守ってください」これらは小さな一歩ですが、十字架の主に痛みを預け、呪いを最後の言葉にしないための信仰の歩みです。
たとえ今、シムイの声が耳に残っていても、恐れないでください。あなたの人生の最後の言葉を語るのは、あなたを責める人ではありません。あなた自身の後悔でもありません。最後の言葉を語るのは、十字架であなたの罪と呪いを担い、復活によって祝福を告げられた主イエス・キリストです。
だから私たちは、呪いを握って終わるのではなく、祝福を受け取って立ち上がります。
呪いの声よりも大きく、十字架の主は今日も語られます。
だから、もう呪いの声をあなたの最後の言葉にしてはいけません。
あなたを責める声よりも深く、あなたの後悔よりも近く、十字架の主はあなたの名を呼んでおられます。
「わたしがあなたの罪を担った。わたしがあなたの傷を負った。あなたは捨てられていない。
あなたは赦されている。あなたはわたしの愛する者。さあ、祝福を受け取り、祝福を携えて、もう一度歩き出しなさい。」
祈り
それでは祈りましょう。憐れみ深い父なる神さま。今日、私たちはシムイの呪いを受けながらも、剣を抜かず、あなたに身をゆだねたダビデの姿を見ました。そして、その姿の彼方に、ののしられてもののしり返さず、
十字架に向かわれた主イエス・キリストを仰ぎました。主よ、私たちの心にも、なお消えない言葉があります。人から受けた冷たい言葉、誤解された痛み、過去の失敗を責める声、
自分で自分を裁き続ける声があります。どうか、その一つひとつを、
私たちが一人で抱え込むことのないようにしてください。涙のまま、整理できないまま、
あなたの御前に差し出す勇気をお与えください。十字架の主よ、あなたは私たちの罪だけでなく、
私たちの傷をも負ってくださいました。私たちが受けるべき裁きを担い、呪いを祝福へ、絶望を希望へ、
死を命へと変えてくださいました。どうか、私たちの人生の最後の言葉を、人の呪いにも、
自分の後悔にも渡さないでください。あなたの赦しを、あなたの愛を、
あなたの「あなたはわたしのもの」という御声を、私たちの心の一番深いところに響かせてください。
復讐を握りしめる手を開かせてください。怒りに支配される心を、あなたの平和で守ってください。
必要な時には正しく距離を取りながらも、憎しみに自分を明け渡すことがないよう導いてください。
そして私たちを、呪いを返す者ではなく、祝福を祈る者へと造り変えてください。
家庭で、職場で、学校で、教会で、私たちの口から出る言葉が、人を傷つける言葉ではなく、
キリストの恵みを運ぶ言葉となりますように。シムイの声がなお響くこの世界で、
十字架と復活の主の祝福を証しする教会として、私たちを立たせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。