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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2026年5月31日「信仰の闘いを闘い抜いて」( テモテ6章11~21)

投稿日:2026年5月31日 更新日:

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【招詞】

「神は、わたしたちを強めることがおできになる方、

すなわち、わたしの福音とイエス・キリストの宣教によって、

永遠の昔から隠されていた神の奥義を今や明らかにされた方である。

この知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストを通して、

永遠に栄光がありますように。アーメン。」

(ローマ16:25–27)

 

第一部 ――神の人として、何を避け、何を追い求めるか

 

「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。」(1テモテ6:11)

 

――この「神の人よ」という呼びかけから、パウロの深い愛情と責任の響きが伝わってきます。

彼は若い弟子テモテに向かって、まるで父が息子に諭すように語ります。

「あなたは世の人ではない。神に属する者として、どう生きるかを学びなさい」と。

 

直前の節でパウロは、金銭欲や虚栄に囚われた人々への警告を記しています。

彼らは「信心を利得の手段」とみなし、信仰を私的な利益のために利用していたのです。

パウロはそこに、信仰者が陥りやすい誘惑を見抜いていました。

信仰が目的ではなく手段に変わる――そこに、魂の危機があります。

 

だからこそ、パウロはテモテに言うのです。

「これらのことを避けなさい。」

避けるとは、逃げることではありません。

それは、方向を変えることです。

罪の流れに逆らい、神の方へ向きを変える。

それが信仰者の“避ける”という行為なのです。

 

パウロは続けて、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」と勧めます。

この六つの徳目は、信仰者の内的姿勢を表しています。

 

“正義”――それは神の御前で正しく立つこと。

人の基準ではなく、神の基準に従って生きる勇気です。

 

“信心”――形式ではなく、日々の生活の中に神を意識して歩む姿勢。

祈りが自然に息づくような、心のあり方。

 

“信仰”――見えない神を信じること。

不確かな時代の中でも、神の御手に自分の未来を委ねる力。

 

“愛”――他者を思いやり、赦す心。

それは、神の愛を受けた者だけが他者に差し出せる恵みです。

 

“忍耐”――神の時を待つこと。

祈りがすぐに聞かれなくても、神が働いておられると信じ続ける力です。

 

“柔和”――争わず、へりくだる心。

力で支配するのではなく、愛によって人に仕える姿勢です。

 

パウロはテモテに、こうした徳を「追い求めなさい」と命じます。

“追い求める”とは、受け身ではなく、能動的な言葉です。

つまり、信仰とは静かに待つだけのものではなく、日々、意志をもって神の方向へ進んでいくものなのです。

 

人生には、避けるべきものと、追い求めるべきものが常に並び立っています。

富や快楽、承認、権力――それらは一見魅力的ですが、魂を消耗させるものでもあります。

一方で、信仰、愛、忍耐、柔和といったものは、地味で時間がかかる。

しかし、それらこそが永遠の価値を持つものです。

 

“神の人”とは、どちらを選ぶかを知っている人です。

避けることと追い求めること、その二つを正しく見分けられる人です。

信仰の戦いは、まずこの選びから始まります。

 

パウロがテモテに「神の人」と呼びかけたように、

私たちもまた、神に呼び出されています。

仕事をし、家庭を担い、社会の中で生きるその日々のただ中で、

「神の人として生きなさい」と神は語っておられるのです。

 

信仰の闘いは、どこか特別な場所で起こるわけではありません。

それは、日常の中で起こる。

人を赦すかどうか、正直に語るかどうか、感謝を忘れずにいるかどうか――

その一つひとつが、神の人としての闘いなのです。

 

パウロがテモテに望んだこと。

それは、この世の価値に飲み込まれず、神の価値を選び取ること。

避ける勇気と、追う力。

この二つを携えて歩む者こそ、信仰の闘いの真の戦士なのです。

 

第二部 ――信仰の闘いを闘い抜く ― 永遠のいのちをつかみなさい

 

「信仰の闘いを立派に闘い抜き、永遠のいのちをつかみなさい。あなたはこのために召され、多くの証人の前で立派な告白をしました。」(1テモテ6:12)

 

――この言葉は、パウロがテモテに託した信仰者としての総決算のようなものです。

“闘い抜く”という言葉の背後には、単なる努力や忍耐を超えた、霊的な戦いの現実が込められています。

 

信仰の闘い――それは、誰かに勝つための戦いではありません。

それは、自分自身の内にある不信との闘いです。

疑いや恐れ、誘惑や倦怠、虚栄や無関心――それらと向き合うとき、私たちは初めて“信仰の戦場”に立たされます。

信仰とは、心の中での静かな戦いでありながら、実は人生で最も激しい闘いなのです。

 

パウロは言います。

「信仰の闘いを立派に闘い抜け」と。

“立派に”という言葉には、「誠実に」「真実に」「最後まで」という意味があります。

つまり、勝敗ではなく、どのように闘うかが問われているのです。

信仰の闘いとは、勝者になることではなく、倒れてもなお神に向かって立ち上がること。

疑いに沈んでも、なお祈り続けること。

傷ついても、愛することをあきらめないこと。

その姿こそ、神の前における「立派な闘い」なのです。

 

パウロはこの手紙を、牢獄に近い環境で書いています。

彼の目の前には、もう勝利も自由もありません。

しかし、彼は言うのです――「私は闘い抜いた」と。

それは、環境の勝利ではなく、信仰の堅さの勝利です。

彼の信仰は、剣や鎖によっても奪えないものでした。

彼は神に呼ばれたその召しに最後まで忠実であった。

それこそが、信仰の闘いを「立派に闘い抜く」ということなのです。

 

パウロはさらに続けます。

「永遠のいのちをつかみなさい。」

この“つかむ”という動詞は、原文では“しっかり握りしめる”という強い意味を持っています。

つまり、永遠のいのちは“受け取る”だけではなく、“掴み取る”ものなのです。

神はすでに救いを与えておられます。

けれども、私たちはその救いを現実の中で握りしめ、自分の生き方で応答することが求められています。

 

永遠のいのちは、ただ“死後に与えられる報い”ではありません。

それは、今ここに生きるための力です。

信仰の闘いの中で、神の命は私たちの中で燃え続けています。

“永遠”とは、神の今が私たちの今と重なる瞬間。

その時、私たちはこの地上にいながら、すでに神の国に触れているのです。

 

パウロはテモテに、「あなたはこのために召された」と言います。

信仰の闘いは、避けられない苦難ではなく、**召命(めし)**です。

神はあなたをその闘いに招いておられる。

そして、その闘いの中でこそ、神の力と恵みを体験するようにと導かれているのです。

 

ここで注目すべきは、パウロが「多くの証人の前で立派な告白をした」と記していることです。

信仰とは、ただ個人の内面で完結するものではなく、共同体の中で証しされるものです。

テモテはかつて洗礼の時、教会の前でキリストを主と告白しました。

その告白をパウロは思い起こさせているのです。

「あなたはあの時、信仰の誓いを立てたではないか。

今もその誓いに立って、闘いを続けなさい」と。

 

信仰の闘いとは、孤独な戦いではありません。

信仰の先を歩んだ者たちが、今も私たちを見守り、祈ってくれています。

彼らの証しと祈りが、私たちを支えています。

だから私たちは、失望しても倒れません。

信仰の闘いとは、神と共に、そして信仰の仲間と共に歩む道なのです。

 

“永遠のいのちをつかむ”とは、まさにその歩みを最後まで続けること。

途中で倒れてもいい。

疑ってもいい。

しかし、神の方を向くことだけはやめないでほしい。

それが、信仰の闘いを「闘い抜く」ということなのです。

 

第三部 ――栄光に輝く王 ― 主の御前に立つ信仰

 

「万物に命を与える方、ただひとりの主権者、王の王、主の主、

唯一の不死を持ち、近づくことのできない光の中に住まわれる方、

人間のだれも見たことがなく、見ることもできない方に、

誉れと永遠の主権がありますように。アーメン。」(1テモテ6:15〜16)

 

――パウロの筆がここに至るとき、言葉はもはや教えの域を越え、賛美へと変わります。

「信仰の闘いを闘い抜け」と語っていた彼の魂は、ついに“勝利者の歌”を奏で始めるのです。

それは、闘いの果てに見上げた光――神の栄光のまぶしさでした。

 

牢獄の闇の中でも、パウロはこの光を見つめていました。

彼の信仰は、勝利の確信よりも“神の御前に立つ希望”に支えられていました。

苦難を超え、迫害を超え、孤独を超えてなお彼の目に映っていたのは、

「光の中に住まわれる方」――この方だけです。

 

神は人間の理屈を超えた存在です。

“近づくことのできない光の中に住まわれる方”とは、

人間の手では触れることも、測ることもできない聖なる存在。

けれど、その神が――遠く離れた天の王座から、私たちのただ中に降りてこられた。

それがイエス・キリストの姿でした。

 

近づけない光が、私たちの闇に近づいてくださった。

栄光の王が、貧しさと痛みのただ中に生まれられた。

だからこそ、信仰の闘いとは、“自分で光を掴みにいく”闘いではなく、

“光に照らされながら生きる”闘いなのです。

 

パウロがテモテに「信仰の闘いを闘い抜け」と語ったとき、

それは彼自身が経験した「光に導かれる生き方」の証言でもありました。

彼は自分の弱さ、罪、失敗を知っていました。

それでも神は見捨てず、恵みの光を注ぎ続けてくださった。

だから彼は言うのです――「闘い抜け。神の光は必ずあなたを照らす。」

 

信仰の闘いを生きる者は、やがてその光の中に立ちます。

すべての痛みが静まり、闘いが終わるとき、

信仰者はその栄光の御前で、ただ賛美を捧げる者とされるのです。

 

その賛美の言葉を、今、招詞として共に心に刻みましょう。

 

【招詞】

「神は、わたしたちを強めることがおできになる方、

すなわち、わたしの福音とイエス・キリストの宣教によって、

永遠の昔から隠されていた神の奥義を今や明らかにされた方である。

この知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストを通して、

永遠に栄光がありますように。アーメン。」

(ローマ16:25–27)

 

この言葉は、信仰の終着点を指し示す祈りです。

パウロは自分の人生のすべてを見つめながら、こう告白します。

「神はわたしを強める方」――

信仰の闘いの勝利者は、自分ではなく神なのです。

私たちは自分の力で信仰を保っているのではありません。

神が私たちを支え、導き、再び立たせてくださるのです。

 

この神への賛美こそ、信仰の闘いの“果ての祈り”です。

勝利とは、敵を倒すことではなく、

すべてを託して神を誉めたたえる心を持つこと。

神を仰ぎ見て、「あなたに栄光がありますように」と言えるとき、

私たちはすでに闘いの中で勝利しているのです。

 

信仰の闘いを生きるとは、この賛美を生きることです。

日々の葛藤の中で、涙の中で、

それでも「神に栄光がありますように」と告げる声――

それが、神の光の中で生きる信仰者の姿なのです。

 

第四部 ――委ねられたものを守り抜け ― 信仰の終着点としての託宣

 

「テモテよ、あなたに委ねられたものを守りなさい。

俗悪な無駄話や、偽りと見せかけの『知識』に背を向けなさい。

それを唱える者の中には、信仰から逸れてしまった者もいる。」(1テモテ6:20–21)

 

――この手紙の最後に、パウロは短く、しかし極めて重い言葉を残します。

“あなたに委ねられたものを守りなさい。”

この言葉に、彼の信仰の遺言のすべてが凝縮されています。

 

「委ねられたもの」とは何でしょうか。

それは、神から授けられた信仰の宝のことです。

テモテは若き牧会者として、神の言葉と教会、そして人々の魂を託されていました。

しかしパウロが言いたかったのは、単に「職務を全うしなさい」という意味ではありません。

それはむしろ、「あなた自身に与えられた信仰の光を守り抜け」という個人的な呼びかけです。

 

信仰とは、他者から“受け取る”だけのものではなく、

自分の内で“守り育てていく”ものです。

教えを学ぶことは始まりにすぎません。

その教えが自分のうちで命となるには、

日々の選択、祈り、沈黙、そして忍耐の時間が必要です。

神は、そうした静かな時間を通して、信仰を深めてくださるのです。

 

パウロはこの最後の節で、信仰を脅かす二つのものを挙げています。

一つは「俗悪な無駄話」。もう一つは「偽りと見せかけの知識」。

これらは今も変わらず、私たちの周りに存在します。

人を嘲る言葉、争いを生む噂、信仰を軽んじる風潮。

そして、“知識”という名のもとに神を人間の理屈で測ろうとする声。

そうした言葉の渦に巻き込まれるとき、信仰の静けさは失われてしまいます。

 

だからパウロは言うのです――「背を向けなさい」と。

それは無関心になることではなく、

心の中心を神に向け続けることを意味しています。

信仰とは、何を拒むか以上に、何を見つめるかにかかっています。

神を見つめ、神の言葉を守るとき、

私たちは世のざわめきの中でも、心の平安を保つことができるのです。

 

「委ねられたものを守る」とは、神から受けた恵みを失わないこと。

それは“命を預かる”ような重い務めですが、同時に深い喜びでもあります。

なぜなら、それを守る力もまた、神が与えてくださるからです。

 

パウロがこの手紙を終える直前に「恵みがあなたと共にあるように」と記したのは、

その確信の表れです。

信仰の闘いを支えるのは、最終的には人間の努力ではなく恵みです。

恵みによって呼ばれ、恵みによって守られ、恵みによって完成へと導かれていく。

信仰とは、まさに「恵みの円環」の中を歩む旅なのです。

 

この“守る”という言葉を、もう一度深く味わってみましょう。

それは単なる防衛ではありません。

“守る”とは、“大切に抱きしめる”という意味でもあります。

神が私たちを愛し守ってくださるように、

私たちも神から託されたもの――信仰、言葉、隣人、教会――を抱きしめるように生きる。

そこに、信仰の成熟が現れます。

 

信仰の闘いの果てにあるのは、勝利の歓声ではなく、静かな委託の瞬間です。

「主よ、あなたが委ねてくださったものを守り通しました」と言える時、

信仰の旅は一つの完成を迎えます。

パウロはテモテにそれを望んでいたのです。

闘い抜くことだけでなく、守り抜くこと。

それが、真の信仰者の生涯なのです。

 

テモテがこの手紙を読んだとき、

彼の胸にはきっと静かな炎が灯ったことでしょう。

それは派手な勝利の炎ではなく、夜通し燃え続ける油のような光。

“信仰の灯”とは、そうした小さくも確かな光です。

私たちもまた、その光を受け継ぎながら生きています。

 

パウロの「委ねられたものを守りなさい」という言葉は、

今を生きる私たちにも向けられています。

あなたの中にも、神が託された信仰の宝があります。

それをどうか手放さないでください。

見えない時代の波の中で、なお神を信じる心を守り通すなら、

その信仰は次の世代への光となり、誰かの希望を灯すでしょう。

 

――信仰の闘いを闘い抜いた者は、最後に“守る者”となります。

そしてその者を守るのは、他でもない、

「栄光の王・主イエス・キリスト」ご自身なのです。

 

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