序:探り求める人生の問い
・おはようございます。民数記3週目です。
私たちは人生の旅路の中で、しばしば「探り求める」者として歩んでいます。それは新しい場所や可能性への期待だけでなく、時として不安や恐れと隣り合わせの冒険です。本日のメッセージは、旧約聖書の民数記13章に記されたイスラエルの民の「探り求める」旅と、コヘレトの言葉1章13節の(「天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。」という、)人生の根源的な問い。物語と御言葉を重ねて皆様と共に聖書から聴いていきたいと思います。
・約束の地を前にして、神はモーセを通して、イスラエルの民に約束の地カナンを与えると宣言されました。長く過酷な荒野の旅路を経て、ようやくその門前まで辿り着いた民にとって、それはまさに希望の象徴でした。幼い子どもから年老いた者まで、誰もがこの地に新たな人生を夢見ていました。しかしその一方で、目に見えない不安や恐れが心の片隅に潜んでいたことも確かです。未知の土地への期待と、現実の困難への不安が複雑に絡み合い、彼らの心は揺れ動いていました。
・民数記13章では、神の命に従い、モーセはイスラエルの十二部族からそれぞれ一人ずつ、計十二名の代表者を選び、約束の地カナンを偵察するよう指示します。偵察隊は40日にわたりカナンの各地を巡り歩き、土地の肥沃さ、実りの多さ、人々の暮らしや町の構造、また住民の強さや城壁の高さに至るまで綿密に調査しました。彼らが持ち帰ったぶどうの房は、二人が棒にかけて担ぐほど大きく重く、その豊かさを象徴しています。また、ザクロやいちじくも一緒に持ち帰り、まさにカナンが「乳と蜜の流れる地」であることを証明しました。
・しかし、偵察を終えた代表者たちの報告は、単なる客観的な事実の伝達だけではありませんでした。ヨシュアとカレブという二人の代表者を除き、残りの十人は「その地の住民は非常に力強く、町は高く堅固な城壁に囲まれていて、私たちは到底太刀打ちできません」と恐れや絶望を口にしました。「自分たちはその住民の前では、まるでいなごのように小さく感じた」と語る者もいました。その不安や恐れはすぐさま民全体に広がり、希望に満ちていた人々の心は一転し、不安と失望に覆われてしまいます。彼らの声は、現実の厳しさや自分たちの無力さを強調し、全体の士気を著しく低下させました。
・この物語は、私たちが人生の中で新たな挑戦や未知の世界に足を踏み入れようとするとき、たとえ明るい未来や約束が目の前にあっても、現実の壁や困難、そして自分自身の弱さを見て「やはり無理だろう」「自分にはできない」と後ろ向きになってしまいがちであることを象徴しています。私たちの内面には、希望と恐れが常に共存しており、どちらの声に耳を傾けるかによってその後の歩みが大きく変わってしまうのです。
・そして私たちもまた、神の約束の言葉を信じるのか、それとも目の前の現実や自分の限界、不安に心を奪われてしまうのか、決断を迫られています。イスラエルの民の姿は、困難に直面したときに立ち止まり、迷い悩む、現代を生きる私たち自身の姿に重なります。勇気を持って神の導きと約束に信頼し、力強く一歩を踏み出すのか、恐れにとらわれて足を止めてしまうのか、私たちも日々「探り求める」者として、人生の道を模索し続けているのです。
招詞にコヘレトの言葉1章13節を選びました。
・皆様とご一緒にお読みしたいと思います。
「天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。」 ありがとうございます。
・コヘレトは、人間の知恵や努力による探求の果てに「空しさ」があることを語っています。どれだけ知識を深め、理解を求めて世界の本質を見極めようとしても、謎や不条理はますます増え、答えは容易に得られません。「なんという空しさ、すべては空しい。空の空、いっさいは空である」(1:2)とまで断言し、探り求めること自体が人間に与えられたつらい「労苦」であると述べています。これは、神の約束の前で迷い、恐れ、時に立ち尽くす私たちの姿と重なり合います。どれだけ努力しても、自力では解決できない課題や壁が目の前に現れる時、私たちは無力さを痛感し、どうしても「空しさ」を感じてしまうのです。
二つの「探り求めるもの」、違いと共通点
・民数記のイスラエルの民の「探り求める」と、コヘレトが語る哲学的な「探り求める」。一方は約束の地カナンを偵察し、土地の現実を見極める具体的な行動であり、もう一方は世界の真理や人生の意味を知ろうとする知的・精神的な努力です。性質は違いますが、どちらも「自分の力で答えをつかみ取ろうとする」人間の姿を映し出しています。イスラエルの民がカナンの地の現実を自分たちの目で評価し、コヘレトが知恵と経験で人生を理解しようとしたように、私たちもまた「自分の目」「自分の力」で道を切り開こうとしがちです。
・しかし、両者に共通するのは「限界」と向き合う姿勢です。民の偵察は人間の力の限界や恐れ、弱さを鮮明に浮かび上がらせ、コヘレトは人間の知恵や努力の限界、そしてその先にある空しさを語ります。私たちの探求や努力も、やがて大きな壁にぶつかり、失望や無力感に変わることがあります。なぜ、私たちの力だけでは乗り越えられない壁が立ちはだかるのでしょうか。それは、私たちが「自分の力」による探求だけでは本当の答えや希望にたどり着くことができないことを教えているのです。
探り求める者が見出すもの
・ここで大切なのは、「探り求める」こと自体が否定されていない点です。むしろ、聖書は私たちに「問い、探し、求め続ける」ことを積極的に促しています。イエスもマタイの7章7節,8節で、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」と語られました。問い続け、探し続ける先に、私たちは何を見出すのでしょうか。それは「自分の限界」と「神の恵み」です。
・民数記14章に記されるように、ヨシュアとカレブの二人は、他の代表者たちが恐れや絶望にとらわれる中でも「 もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。 ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々のパン・食べ物・食い物(口語訳)餌食(共同訳・新改訳)にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」(14:8,9)と主を信じる信仰を貫きます。自分の力ではなく、主の約束と共に一歩を踏み出すとき、探り求める者の目は恐れから希望へと変わります。コヘレトもまた、あらゆる探求の果てに「すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。」(12:13)と結論付けています。どれほど知恵を尽くし、努力を重ねても、最後には「神と共にあること」こそが人生における最大の意味・価値であることが示されています。
現代の私たちの「探り求めるもの」
・私たち一人ひとりの人生の旅路には、答えの見えない問いや、思いがけない試練、予想もしなかった壁が立ちはだかります。時には自分の力や知識、経験に頼り切ってしまい、疲れや焦り、孤独を感じることもあるでしょう。しかし、ヨシュアとカレブが示すように、神の約束を信じ、主が共に歩んでくださるという確信に立つとき、私たちの目の前の現実の厳しさや不安さえも、希望へと転じていくのです。
・例えば、仕事や家庭、学びの場などで、思うように成果が出なかったり、人間関係でつまずいたりすることがあります。そんな時こそ、自分の力だけでなく、祈りをもって神の御心を尋ね、「主が私と共におられる」という約束にもう一度立ち返ることが大切です。神の御言葉は、弱さの中にあっても新しい力と勇気を与え、恐れに満ちた心を静めてくださいます。
・また、現代社会の情報や価値観は目まぐるしく変化し、私たちの判断や選択を時に揺さぶります。人は「より良い答え」や「確かな道」を求めて多くの情報に触れますが、真の平安と満たしは、神の変わらぬ真理と約束に根差すときにこそ与えられるのだと、コヘレトは語っています。知識や努力も大切ですが、人生の本当の意味は「神との関係」にこそあります。その気付きが、私たちの生き方を根本から問い直し、豊かな実を結ぶ歩みへと導くのです。
このように、「探り求める」こと自体が、神から与えられた大切なプロセスです。疑い悩む日々にも、祈りや聖書の言葉、信仰の仲間との分かち合いを通して、神が静かに語りかけ、導いてくださることに気づく瞬間があります。ヨシュアたちが「主が共におられるなら、必ずできる」と力強く信じるように、私たちも迷いや恐れを感じる時こそ、信仰によって新しい一歩を踏み出すことができるのです。
・日常のささやかな出来事の中にも、神からの語りかけや助けが隠されています。たとえば、家族や友人との温かな交流や、困難の中で与えられた小さな支え、また自分の心に浮かぶ「もう一度やってみよう」という思いさえも、神が私たちに希望を注いでくださっている証しと言えるでしょう。
・だからこそ、今週も自分自身の課題や問いを握りしめつつ、「神の約束」に信頼し、平和の道を歩んでいきましょう。立ち止まることや迷うことを恐れず、主と共に探し、求め、祈りつつ前進していくとき、必ず豊かな祝福と導きが与えられます。主が共にいてくださる希望に励まされながら、一歩一歩の歩みに感謝をもって進んでいきましょう。
・私たちは時に、目の前の現実や葛藤にとらわれ、心が沈みそうになることがあります。
しかし、そうしたときこそ、神が共に歩んでくださるという確信が、私たちの足元を照らし、再び立ち上がる力となります。神の導きは、私たちが思いもよらない方法やタイミングで訪れることがあり、その一つひとつが私たちの信仰を深め、人生を豊かにしてくれるのです。
・また、「探り求める」という営みは、決して孤独なものではありません。信仰の仲間たちと分かち合い、ともに祈ることで、互いに励まし合い、希望を見出すことができます。誰かの証し(・本日の永田乃愛さんの証し)や教会の兄弟姉妹の小さな親切が、思いがけない勇気や気付きとなり、神の愛の働きを実感させてくれるはずです。
・どんなに小さな一歩でも、それは新しい未来への種となります。神と共に歩む旅路を続ける中で、私たちは一人ひとり、神の大きなご計画の中で大切な役割を担っていることを忘れずにいたいものです。日々の暮らしの中で、希望をもって「探り求める」歩みを続けていきましょう。
探り求める信仰者のための感謝の祈り
共に歩んでくださる神と、信仰の友への感謝
・愛する真の命の神のみ名を賛美します。
今日もこうして、あなたの御前に心静かに祈ることができる恵みに感謝します。
私たちの人生には、答えの見えない問いや、迷い悩む時が幾度も訪れますが、
そのひとつひとつの中にあなたが共にいてくださることを、深く感謝します。
あなたの約束の言葉に信頼しながら、日々「探り求める」歩みを続ける私たちですが、
自分の力や知恵だけでは乗り越えられない壁にぶつかることもあります。
そんなとき、静かに寄り添い、励まし、私たちの心に希望を注いでくださる
あなたのご臨在をおぼえ、心から感謝します。
また、信仰の友を与えてくださっていることも、何よりの恵みです。祈りを分かち合い、
悩みを共にし、互いを励まし合う友・教会の兄弟姉妹の存在が、どれほど私たちの支えとなっていることでしょう。あなたが私たちを一つの家族として結び合わせ、共に祈り、喜びも悲しみも分かち合える仲間・兄弟姉妹を備えてくださったことに感謝します。
どうか、私たちがこれからもあなたに信頼し続け、どんな時にも主の御言葉に耳を傾け、
「主が共におられる」という確かな希望に生きることができますように。
そして、信仰の友・兄弟姉妹と手を取り合い、愛と平和をもって歩み続ける力を
お与えください。
すべての探り求める日々が、あなたの導きと祝福のうちにありますように。
豊かな恵みに心から感謝して、
主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン