江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2025年5月18日(ガラテヤ4:8-20、神に知られているから)宣教:中田義直常務理事

投稿日:

https://www.youtube.com/watch?v=f7v80WXFXuc

 

今日、こうして篠崎教会でご一緒に礼拝を守ることができること、心より感謝いたします。今日の聖書の個所は教会学校で取り上げる『聖書教育』誌の聖書個所と同じ個所です。今月、『聖書教育』ではパウロが記した「ガラテヤの信徒への手紙」を取り上げています。ガラテヤの手紙はパウロの初期の手紙で、そこにはパウロのイエス・キリストの福音に対する理解が鮮明に記されています。福音、それは良い知らせという意味ですが、イエス・キリストが完成させ、私たちに伝えてくださった「良い知らせ」とは何か、何が「良いこと」なのかをパウロははっきりと伝えようとしています。

はっきりと伝えようという強い思いから、この手紙の中にはきつい言葉も記されています。そこには、パウロがガラテヤ教会に伝えた「福音」を否定する教えに心を惹かれていったガラテヤ教会の状況がありました。本当に良いことは何か、それを見失うことのないようにとパウロは必死の思いでこの手紙を記したのです。

ところで、私たちが物事を理解するための一つの方法として、比較するという方法があります。その様な観点で見るとパウロの手紙は、そこに記されているパウロとパウロに反対する人々との厳しいやりとりにによって、パウロの伝えようとしている「福音」の意味がはっきりと示され、より深く理解する機会にもなっています。

ガラテヤの教会はパウロが伝道し、イエス・キリストを信じる人々が起こされてできた教会です。教会といっても、会堂があるわけではなく信者の家に集まって行われる集会、そこに集う人達によって作られた「群れ」が教会でした。そして、そこには、リダーシップを取る人やお世話をする人がいても、私たちが考えるような専任の牧師はいませんでした。

ご存じのように、パウロはその生涯に三回の伝道旅行を行いました。ガラテヤ地方への伝道も、伝道旅行の中で行われました。福音を伝え、信じる者が起こされると、信者のグループである教会を作ります。そして、その中で教会を導いたり世話をするリーダーが立てられると、パウロはその地を発って、次の伝道の地に向かいます。数か月で教会が立てられる場合もあれば、数年滞在することもあり、時には妨害にあうなどして本当に短い期間で次に移動しなければならないというケースもありました。

このように、パウロは長くても数年でその地にできた教会を離れ、次の伝道後に向かったのです。そして、パウロが去ったあとの教会では様々なトラブルが起こることがありました。例えば、パウロが去った後の教会にキリスト者と言いながらも、パウロと異なる教えを伝える者もありました。それが教会を悩ませ、時に分裂を生みました。そのような事態が起きた時、パウロは手紙を書くことによって、教会に語り掛けました。パウロの伝えた福音の意味を改めて伝え、その一方で、間違った教えを伝えている人々はどこを間違っているのかをパウロは手紙を通して示すのです。

ご存じのように、パウロはイエス・キリストの教え反対でした。そして、キリストの教会を暴力をもって迫害しました。パウロは、熱心なユダヤ教徒で律法に忠実に生きることが何よりも必要であり、律法に従うことによって神に愛される者となれると信じていました。律法を守らないものは、神の敵であり、滅ぼされるべきだと考えていました。そして、律法に忠実な者とそうでない者をはっきりと区別し、自分自身は律法に忠実で神に愛される者でありたいと願ってい、そのための努力を惜しみませんでした。しかし、イエス・キリストは神は良い者も悪い者も愛しておられるというのです。それは、パウロのそれまでの人生を否定する教えであり、到底受け入れられるものではありませんでした。しかし、ダマスコに向かう途上で復活のイエス様と出会い、パウロは自分が間違っていたことを知らされるのです。さらに、間違っていたことだけでなく、間違って神様に敵対していた「私」を神様はずっと愛していてくださったことに気づくのです。そして、これこそが神様からの良い知らせ、福音であるということをパウロは知るのです。

このパウロの語る福音をガラテヤの人々も喜んで受け入れ、信じる者が起こされ、教会ができたのです。しかし、そのガラテヤの教会にもパウロと異なる考えの人々がやってきて、大きな影響を与えました。そして、その異なる考えは、パウロにとって、受け入れることのできないものでした。なぜなら、それは、キリストの十字架の価値を低くしてしまうものだったからです。彼らは、十字架の愛だけでは救われない、律法も守らなければ駄目だというのです。パウロはそれに真っ向から対立します。私たちが救われ、神の民とされるのには、キリストの十字架の愛だけで不足するものは何もないとパウロは語ります。

なぜ、ガラテヤ教会の人々はパウロの福音よりも対立する人々の教えに心惹かれたのでしょうか。彼らはパウロと出会う前、ある特定の日を重んじることなどをしていました。何かを守る、行うというのはそれを「私は守っている」「私は守ることが出来ている」という実感を持つことができるでしょう。しかし、無条件に神に愛されているというのは実感がわきにくいのかもしれません。ここでも記されているようにパウロは体に病、また障害を持っていました。それは努力では克服することができないものでした。時に、そのようなことからパウロの信仰を疑問視したり、神に愛されていない証拠だという心無い言葉にさらされることもあったようです。だから、パウロはそのようなことを気にせず、自分を迎え入れてくれたガラテヤの人々との交わりを喜び、深い幸福を感じていたのでしょう。そこにもまた、行いや人の弱さを超えた愛情がありました。だからこそ、パウロは人の行いのできる、できないや、弱さを超えて注がれる神様の愛から離れてほしくないと願ったことでしょう。

ガラテヤの信徒への手紙の4章9節にパウロは「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」と記しています。ここでパウロは私たちにとって大切なことは「神に知られている」ことであり、そのことを忘れてはならないというのです。パウロは神を知ろうと熱心に学びました。そして、神の示された立法の通りに生きようと誰よりも熱心に取り組みました。しかし、自分の力では、神様のことを正しく知ることができない、自分の努力では律法の通りに生きることができないことを心の中で感じていたのです。しかし、そのようなパウロに復活のイエス様は、イエス様の方から出会ってくださいました。神様との関係でパウロは自分が主語になっていたことに気付きました。しかし、イエス様との出会いを通して、主語が神様に代わりました。私が神様のことを十分に理解できなくても、神様は私を知っていてくださる。私の力では、律法を守り神にふさわしくなることはできないけれども、そのふさわしくなれない私を神様は受け入れ、愛していてくださっている。

神に知られている、その恵みの豊かさを決しておろそかにしてはならないとパウロはガラテヤの教会の人々に語り掛けているのです。

祈り

主よ、今日、ともに主の日の礼拝を守れましたことを感謝いたします。

私たちは、イエス様の愛を知り、その愛を信じるものとなりました。しかし、時として自分の進行の弱さから不安になり、形あるものを求めてしまいます。そして、目に見えること、形ああることで一喜一憂し、あなたの無条件の愛から離れ、人を裁き、時には自分を裁いてしまいます。

主よ、私たちにみ言葉をください、そして、聖霊を注いでください。私ではなく、神様を主語として考えることができますように、神様が私を知っていてくださる、その恵みから離れることの内容にお導きください。

この祈りと願い、永遠の命の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

 

◆◆キリストがあなたがたの内に形づくられるまで

4:8 ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。4:9 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。4:10 あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。

4:11 あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。

4:12 わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。4:13 知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。4:14 そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。4:15 あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。4:16 すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。4:17 あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。4:18 わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。4:19 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。4:20 できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。

 

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