はじめに 避けどころ、砦
・皆さん、おはようございます。ヨシュア記3週目です。
・わたしたちは日々の暮らしの中で、思いがけない過ちや、予期しない出来事に直面することがあります。それは時として、自分自身や他者の人生に大きな影響を与えるものとなることがあります。旧約聖書のヨシュア記20章1~9節には、そのような過ちや災いに直面した人々のために、主ご自身が「逃れの町」を備えられた物語が記されています。今日はこの「逃れの町」に込められた神の深い配慮と、私たちへのメッセージについて共に考えてまいりましょう。
逃れの町の背景と設立の意図
・ヨシュア記20章は、イスラエルの民が約束の地カナンに入り、領土を分配した後の出来事です。主はヨシュアに語りかけ、「モーセを通して告げておいた逃れの町を定め、 意図してでなく、過って人を殺した者がそこに逃げ込めるようにしなさい。」(20:2,3)、と命じられました。
・逃れの町とは、故意ではなく過失によって人を殺してしまった者が、復讐の血を求める者から逃れ、安全に避難できる場所です。これは出エジプト記21章13節や民数記35章9~34節:特に11節、申命記19章1~13節にも記されていますが、ヨシュア記ではついにその町がカナンの地に具体的に設けられる場面が描かれています。ヨルダン川の東西、それぞれ三つずつ、計六つの町が選ばれました。
・意図せず過って人を殺してしまった者が、復讐者から逃れ、一時的に身の安全を保つための場所として「逃れの町」を設けるよう神が命じられています。ヨシュア記20章は、これらの律法が実際にカナンの地で実現する場面を描いています。
・この制度は、「目には目を、歯には歯を」という当時の復讐の慣習から、過失で人の命を奪ってしまった者の命を守るための神の配慮から始まりました。神は単なる「罰」や「制裁」ではなく、命の尊厳と公正な審理、思いやりを重んじられたのです。
・「目には目を、歯には歯を」という表現は、旧約聖書に記された法の一つであり、一般的には厳しい報復や復讐の象徴として知られています。しかし本来、この言葉には「過剰な仕返しを防ぐ」「公正な裁きを促す」という重要な意味が込められていました。
・この表現は、旧約聖書の複数の書・出エジプト記21章23~25節、レビ記24章19~20節、申命記19章21節に登場します。たとえば出エジプト記21章23-25節では、こう記されています。
―出エジプト21:23~25「もし、その他の損傷があるならば、命には命、 目には目、歯には歯、手には手、足には足、 やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」
・被害者側の加害者に対する罰の要求ではなく、加害者側自身の償い方について記されているのです。
・本来の意味と目的は、復讐や私刑の助長ではなく、むしろ法の下での公正さと抑制を目的としたものでした。
・個人的な恨みに基づく過剰な報復を防ぐため、「被った損害以上の罰」を禁じる制約とされました。
・刑罰の重さが犯した損害と等しいものに限定されることで、「報復の連鎖」を断ち切り、社会の秩序を保つ役割を果たしました。
・裁き(判決)は共同体や裁判官によってなされ、個人が独断で復讐することを抑えるものでした。
・この律法は、古代における正義感や法の発展過程を示しています。現代的な視点から見れば、報復の抑制と公正な手続きの重要性を説く法的・倫理的原則としても意義があります。「目には目を、歯には歯を」は、単なる仕返しではなく、過度な罰を禁じ、秩序と人道的な配慮を守る知恵として理解されるべきものです。
・神が逃れの町をイスラエル全土に設けられたのは、誤って罪を犯してしまった者が、裁きの機会を得るまで安全に過ごし、急な復讐や感情的な報復から守られるためでした。その設定場所は、誰もが容易にたどり着けるように国の中心や境界に配され、遠くからでも逃げ込めるよう道が整備されていたと言われます。これによって、復讐の連鎖や誤った断罪を防ぎ、共同体の中で慎重な審理と配慮が行われる土台が築かれました。逃れの町の制度は、裁きが公正に行われること、そして過失による罪に対しても、神の憐れみが常に人に向けられていることを象徴しています。
逃れの町 恵みと公正の象徴
・私たちはしばしば、「過ち」や「罪」を犯した者に対して、強い非難や断罪の目を向けがちです。しかし、聖書の神は、たとえ過ちを犯した者であっても、無条件に断罪せず、逃れる場所、やり直す機会を与えてくださいます。その象徴こそが「逃れの町」なのです。
逃れの町は、避難者を一時的に受け入れるだけでなく、その人が公の裁き(共同体の集会)を受けるまで、また大祭司が亡くなるまで、守り続ける場となっていました。これは、無実や過失の可能性を考慮し、冷静かつ慎重な判断を重んじる神の愛の現れです。
・「大祭司が亡くなるまで」とは、逃れの町に避難した人が、過失による殺人の罪で共同体の裁きを受けた後、町にとどまり続けなければならない期間を意味します。聖書(ヨシュア記20章、民数記35章など)によれば、その人は大祭司が現職である間は逃れの町に留まる義務がありましたが、大祭司が亡くなると、その人は罪から解放され、自由に自分の家へ帰ることが許されました。これは、当時のイスラエル社会において、大祭司の死が一つの「時代の区切り」や「全体の贖い」の象徴と考えられていたためです。
・大祭司の死が「恩赦」となった理由には、共同体全体の新しいスタートや、罪に対する神の憐れみが重ね合わされているとも解釈されます。逃れの町にいた人が、復讐の危険なしに社会に戻れるようになることで、過失による罪が共同体の枠組みの中で赦される仕組みが整えられていました。
・この制度は、過ちを犯した者に対して、一定期間の隔離と熟慮の時を与える一方で、最終的な赦しと新たな人生の出発を保証する、神の深い配慮と愛を表しています。
・現代の私たちもまた、さまざまな形で「逃れの町」を必要としています。たとえば、人間関係や仕事、家庭の中で思いがけず傷つけてしまったり、失敗や誤解に直面したとき、誰もが安全に立ち止まり、自分自身を見つめ直す「逃れの場」を求めるものです。それは具体的な場所でなくとも、心の避難所や信頼できる人との対話、あるいは祈りの中に見いだされることがあります。神が与える本当の「逃れの町」は、裁きや非難から解放され、静かに自分を受け入れ直すことができる空間であり、そこで新たな希望と歩み直す力が与えられるのです。
招詞 新約の御言葉と「逃れの町」の響き合い
・新共同訳新約聖書より、ヘブライ人への手紙6章18節の御言葉を招詞として選びました。
ご一緒にお読みしたいと思います。
―へブル6:18「それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。」ありがとうございます。
・ここで言われている「二つの不変の事柄」とは、神の約束と神の誓いです。これは、神がご自分の言葉に絶対的な真実性と信頼性をもって臨まれることを示しています。人間の側の状況や心変わりに左右されることなく、神の約束は決して変わることがありません。すなわち、神がアブラハムに語られた祝福の約束、そしてその約束を支える神ご自身の誓いこの二つが、揺るがない土台として、苦難の中にある者に確かな希望を与えるのです。
・この御言葉は、神の約束と誓いに基づく変わらぬ信頼を、逃れの町に走り込む者の姿として描いています。ヨシュア記の逃れの町が、過失を犯した者に対して命の安全とやり直す機会を保障したように、新約聖書もまた、神に避け所を求めるすべての人に、確かな希望と救いを約束しています。
・ヘブライ書では、「世を逃れて来た」という表現によって、苦難や罪、弱さを抱える人間が神のもとに身を寄せる姿が強調されています。これはヨシュア記20章の「逃れの町」と深く響き合い、神の慈しみと公正が、時代を超えて変わることなく注がれていることを示しています。
・ヨシュア記の逃れの町が、過ちを犯した者を守る公正の場であったように、新約の時代には、キリストにある赦しと慰めがすべての人に開かれています。神の約束は今も変わらず、希望は私たちの魂の錨となります。揺るぎないものです。
この希望に励まされ、信仰によって神の避け所へと向かう歩みを、新しい一日も共に始めましょう。
・加えて、「逃れの町」の制度が内包していたもう一つの側面は、共同体全体が責任を持って弱き者や過ちを犯した者を包み込み、孤立や絶望に陥らせないという信仰共同体の姿勢でもありました。神の前にすべての人は弱さを持ち、過ちから完全に無縁ではいられない存在であることを認め合うことで、裁きと同時に赦しを実践する土壌が培われていったのです。現代に生きる私たちにとっても、逃れの町の精神は、失敗や誤りに直面する他者とどう向き合い、また自分自身をどう受け入れるかという課題に通じています。
現代における「逃れの町」とは
・私たちの社会にも、過ちを犯した者、失敗した者に対して、厳しい目が向けられることがあります。しかし、神はいつも「逃れの町」を備えてくださっています。それは具体的な「場所」というより、神ご自身の憐れみと赦し、また教会という共同体を通して与えられる安息と回復の場なのです。
・イエス・キリストは「わたしが来たのは、罪人を招くためである。」(マタイ9:13,マルコ2:17)と語られました。
・人間の弱さや過ちを知り尽くした上で、すべての人に赦しと救いを差し伸べてくださるお方です。現代の私たちにとって、イエスこそが「逃れの町」であり、そこに逃れる者は新しい人生へと導かれます。
・現代社会においても、誰もが失敗や過ち、葛藤の中で道を探しながら生きています。他者からの非難や孤立に苦しむとき、私たちは神が示す「逃れの町」の精神を思い起こすことができます。それは、決して責めるのではなく、包み込み、回復と希望への扉を開く場所です。信仰の共同体は、互いの弱さと限界を認め合い、相手を裁くよりも共に歩むことを選びます。すべての人が自分らしく歩むことのできる安全な居場所を築くことが、神の願いであり、私たちの課題でもあります。新しい一日も、赦しと理解の心で歩み出すことができますように。
逃れの町に入る勇気
・逃れの町は、誰にでも開かれています。しかし、実際にその町に向かうには勇気が必要です。自分の過ちを認めること、助けを求めること、そして神のもとに身を委ねること。それは決して簡単なことではありません。しかし、神はその勇気を持って向かうすべての人を、決して見捨てず迎え入れてくださいます。
・また、教会やクリスチャンの共同体も、赦しと回復の場として「逃れの町」でありたいと願います。困難や失敗に直面した人々を閉め出すのではなく、愛と理解をもって受け入れ、共に歩むことが求められています。
・私たちが社会のなかで時に孤独や迷いを感じる時こそ、神の用意してくださった「逃れの町」の意味を心に刻みたいものです。それは、単に過去を振り返り悔やむのではなく、新たな一歩を踏み出すための内なる勇気と、周囲との関わりを通して回復や希望を見いだす場所でもあります。互いの痛みや弱さに寄り添い、裁くのではなく受け入れ合う姿勢を養うことで、私たち自身もまた誰かの「逃れの町」となれるはずです。
結び すべての人に備えられた神の逃れの町
・ヨシュア記20章の逃れの町は、神の公正と慈しみがいかに絶妙に調和しているかを教えてくれます。私たちもまた、過ちや失敗、悩みを抱えた時、「逃れの町」としての神のもとに駆け込むことができるのです。
・最後に、詩編46篇2節の言葉を思い起こします。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」神は今も変わることなく、すべての人の逃れの町となり、受け入れてくださるのです。
この恵みと希望を心に留めて、人生の歩みを続けてまいりましょう。
・私たちは日々の暮らしのなかで、自分の弱さや限界に直面したとき、どこか安心して心を預けることのできる居場所を求めています。そのような場所は、単なる物理的な空間ではなく、理解と共感に満ちた人々のつながりの中に見いだされます。誰かの助けや支えを必要とする瞬間、静かに手を差し伸べてくれる存在がいるだけで、前に進む勇気が湧いてくるものです。「逃れの町」の物語は、過ちや痛みを抱えた人が新たな歩みを始めるために必要な愛とぬくもり、そして共に生きる希望の尊さを教えてくれます。その精神を胸に、私たちは互いに寄り添い合い、誰もが安心して自分を取り戻せる場所を築いていきたいものです。
・そしてもうひとつ、ヨシュア記20章9節「彼らのもとに寄留する者のために設けられた町」の「寄留する者」とは、イスラエルに属さない外部の人々、すなわち異邦人や他国から来てイスラエルの地に住んでいた人々を指します。古代の社会では、異邦人や寄留者はしばしば権利が制限され、社会的にも弱い立場に置かれていました。
・逃れの町がイスラエルの民だけでなく、寄留者にも平等に開かれていたことを示しています。すなわち、国籍や民族にかかわらず、誰であっても過失による罪を犯した場合には、この町で身の安全が保障されたのです。
・神の正義は、イスラエルの民だけでなく、そこに住む異邦人・寄留者にも及ぶことを表しています。
・人間社会における公平性や包摂性のモデルを示しています。
・罪を犯した者に対する救済と回復の道は、民族や立場を超えて開かれているという神の憐れみ深さを伝えています。
・「寄留する者のために設けられた町」という表現は、現代社会においても、国籍や背景を問わず誰もが守られ、受け入れられるべきだという普遍的なメッセージを投げかけています。教会や信仰共同体もまた、この「逃れの町」のように、全ての人に開かれた憩いと回復の場でありたいと願われています。
・新共同訳ヨシュア記20章9節「彼らのもとに寄留する者のために設けられた町」とは、神の公正と慈しみがすべての人に及ぶことを象徴しています。民族や出自にかかわらず、誰もが神のもとで守られ、回復と赦しの機会を得られるという、聖書の根本的なメッセージがここに込められています。
・「逃れの町」とは、神様、イエス様自身であり、教会であること。「逃れの町」はどなたであっても受け入れる場所であることを覚え兄弟姉妹と共に神の豊かな慈愛を感謝します。
祈り
・お祈りします。
恵み深い真の命の神様
あなたがすべての人のために「逃れの町」を備えてくださったこと、感謝します。
・私たちが弱さや過ち、迷いの中にあるとき、あなたのもとに駆け込むことができる恵み、
その受け入れと赦しに心から感謝いたします。
・どうか私たち一人ひとりが、困難に直面した時、あなたに信頼し、勇気をもって新たな一歩を踏み出す力を与えてください。また、私たちの共同体が、苦しむ人や傷ついた人々にとっての避けどころとなれるよう、愛と理解、赦しの心で満たしてください。
・私たちが互いの痛みや弱さに寄り添い、批判するのではなく、
あなたの慈しみをもって受け入れ合う者へと変えられますように。
・どんな時もあなたが共にいてくださることを信じ、
人生の歩みの中で希望を見いだせるよう導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。