1.祝禱
-ガラテヤ1:3~5「 わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。 わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。」
-ガラテヤ6:18「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。」
・おはようございます。ガラテヤ書から聴き続けています。ガラテヤ1章3~5節と6章18節をお読みしました。パウロは、ガラテヤの諸教会に向けて書いた手紙の冒頭と最後に『祝禱』をしています。
2.キリストの救いと愛の信仰
・イエスもパウロも割礼を受けていますが、パウロはなぜガラテヤの諸教会の人々に割礼を受ける事を否定したのでしょうか。それは救いの条件として割礼を受ける事をエルサレム教会のユダヤ人律法主義者が指導したからです。律法による救いか、キリストによる救いか、行いによる義か、キリストの信仰による義か、神との旧約か、キリストによる新約か、パウロはキリストによる救い、キリストの信仰による義、キリストによる新しい契約を力強く主張しました。
・律法とは『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』のモーセの5書のことです。割礼は『創世記』にある最初の律法・神とアブラハムの契約です。そして繰り返し民に命じるという意味の『申命記』に、
-申命記27:26「『この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。』民は皆、『アーメン』と言わねばならない。」とある為、パウロは、割礼を受ける人に、律法全体を行う義務があるのです(5:3)。と語るのです。そのパウロは誰よりも律法に忠実に生きようと努力し、苦悩した人でした。そして律法をすべて行う事が出来ない事を知っていました。律法を実行できない人間に代わって、キリストが十字架とその死によって救ってくださったのです。
・パウロは律法の行いによる救い(割礼)を信じ戻ってしまうなら、キリストの十字架とその死は何の役にも立たないと語り、愛の実践を伴う信仰こそ大切だと続けて語ります。
-5:14「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」
ルカによる福音書に、
-ルカ10:27「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』。」
・この神と隣人と自分を愛する事が、律法を全うする事になると語ります。
・パン種とは、パン造りは1.こね2.ねかし3.発酵4.焼きの4工程があり、発酵段階のものを取って置いて次にパンを造る際に使います。酵母(イースト)を新たに購入する必要もなく、4時間以上かかる時間を短縮することが出来ますが、パン種は保管状態によっては腐ります。エルサレム教会のユダヤ人律法主義者は、この腐ったパン種だとパウロは語りました。
・そして、先の包皮だけを切り取るのではなく、根元から切り取ってしまえばよい。割礼でなく去勢してしまえばよいとも語るのです。
・誤解があるといけないのでお話ししますが、私が割礼を受けたのは私が介護を受けることになった時の事を想定してです。ユダヤ教やイスラム教に改宗したわけでは決してありません。ユダヤ教徒と一緒に食事をする事は出来ると思いますが。
3.キリスト者の自由
・パウロは『キリストの真実』=『キリストの神への信仰』による救いについて述べてきました。神の愛による救いとも言えます。この救いの一つとして『召し』があります。この世からキリストの教会に召されることです。『教会』は、ギリシア語でエクレーシアです。エクレーシアに『呼ぶ』『召す』という言葉が含まれていて、『教会』は、『この世から召し出された者たちの群れ』という意味があり、神がこの世から私たちを召し出されて、神の教会の一員としてくださったことは、神の愛・神の恵みによる救いです。救いの目的は、私たちに自由を与える事であり、その自由は罪からの自由であり、魂の自由、良心の自由と言われるものです。キリストがこの自由を与えてくださったのです。
・私たちがこの世に生まれ、育ったのはお金や地位や名誉の為でも世界を征服する為はなく、魂の自由、良心の自由、罪からの自由を得るため以外のなにものでもありません。この自由がなければ、どんなに勉強し、努力して、財産を得ても、人間としての喜びも誇りもなく、ただ財産や地位の奴隷のような日々を送ることになります。
・しかし、神は、私たちにこの自由を与えるために、私たちをこの世から召し出して、教会に加えてくださったのです。だから私たちはこの自由を自分の欲望のまま好き勝手にする為に、使うべきではないのですが、それは完全な自由と言えないのではないか?という疑問が出てくるかもしれません。しかし、自由と放縦は違います。責任という裏付けがあるかないかという事です。放縦は無責任で何でもありですが、自由には責任が伴います。
・私たちクリスチャンの自由は、誰にも束縛されない自由ですが、そのすべてが益となるわけではないのです。教会の兄弟姉妹がそのことによってつまずいたりするのなら、喜んで自分の自由を制限する。隣人の為に、自分の自由を制限することが愛です。
-1コリ6:12 「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない。」
-1コリ10:23 「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。」
・この愛によって裏付けされた自由こそキリスト教の信仰です。信仰は私たちに自由を与える。隣人の為に喜んで自分の自由を横に置いて、隣人に仕える愛を生み出します。
・招詞にヨハネによる福音書13章34節を選びました。一緒にお読みしたいと思います。この13章の始めに
-ヨハネ13:1 「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」
・弟子たちをどのようにこの上なく愛し抜かれたかと言いますと、
-ヨハネ 13:14 「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」
・弟子たちの足を洗ったのです。クリスチャンの自由は、愛によって、その価値が輝きます。信仰によって与えられた自由は、愛を生みます。私たちの信仰は「愛によって仕える者へ」と変えられる自由と言えるのです。
祈り
真の生命の神のみ名を賛美します。
私たちの信仰の前に、神からの愛と恵みがあったことを感謝します。
イエス・キリストの真実・信仰、キリストの十字架とその死を知り、感謝し、信じました。
私たちは、神を愛し、隣人を愛し、自分を愛します。
責任ある自由を愛し、感謝します。兄弟姉妹と隣人に愛によって仕える者としてください。
その死恵みに感謝して、イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン。