江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2025年4月20日(マタイ28:1-10 喜びあれ)

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1.復活の朝

・篠崎キリスト教会の復活節第一主日・イースター礼拝に呼び集められた皆様、
おはようございます。そして、「喜びあれ」。
本日の説教題は、「喜びあれ」です。新共同訳の小見出しでは、「復活する」となっています。
「喜びあれ」は、
‐マタイ28:9a 「すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、」
・この9節の「おはよう」が「喜びあれ」なのです。ギリシア語の直訳は「あなた方は喜びなさい」です。
カイロー(喜ぶ)の命令・現在2人称複数形カイレテは現代語でも「こんにちは」や「さようなら」として
使われている。と私のギリシア語の辞書に書いてあります。この同じ言葉を
‐マタイ26:49 「ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。」
この後、自らの命を絶つイスカリオテのユダの聖書での最後の言葉と復活のイエスの最初の言葉を同じギリシア語の言葉でマタイは、対照的に描いています。
・聖書協会・共同訳も新改訳・新改訳改訂3版・新改訳2017もリビングバイブルも「おはよう(。)」
と訳し、口語訳は「平安あれ」、岩波訳新版が「喜びあれ」と訳されています。
・主の天使が「イエス様は復活され、ガリラヤに行かれ、そこであなた方は見るようになる。」(28:2~7)
女性たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちにイエスの復活を知らせるために
走って行った(28:8)時に、復活されたイエスが行く手に立って言われた言葉です。女性たちは近寄って、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した(28:9b)。イエス様は、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこで彼らはわたしを見ることになる。」(28:10)
・ガリラヤから一緒にいた女性たちの中のマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、安息日が終わった土曜日の夕方すぐに、イエスに油を塗るため香料を買い、翌日の日曜日の夜明けに遺体を清めるためにイエスの墓に行きます。しかし、墓の中にイエスはいませんでした。天使からイエスは復活し、ガリラヤで会えると聞き、
ガリラヤでの生き生きとしたイエスと一緒に過ごした日々、そしてイエスと共に居る時の居心地の良さ
を思い起こして、恐れながらも喜んだのでした。
・イエスは小さい者・小さくされた者、弱い者・弱くされた者、子ども、女性、病人や社会的弱者にとって居心地の良い存在の方でした。
・女性たちは、弟子たちにイエスの復活を知らせるために走っていくと、イエスが行く手に立っていて、
「喜びあれ」と言われた。女性たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏します。
これがイエスの復活後の最初の礼拝となりました。復活のイエスに最初に会ったのも復活後の最初の礼拝も女性たちによるものでした。

2. 復活する

‐マルコ16:8「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
‐ルカ24:11「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」
‐ヨハネ20:9「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」
・弟子たちは理解していなかった。信じなかった。しかし、ガリラヤでイエスに会える・見ることが出来ると聞き、
ガリラヤに向かいます。エルサレムからガリラヤに向かう途中、弟子たちも女性たち同様にガリラヤでのイエスとの日々を思い起こしていたのかもしれません。ガリラヤでイエスに会った弟子も
‐マタイ28:17「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」
・イエスの弟子でさえ信じることが難しい復活という出来事でした。

・今日の招詞に1コリント15:3-5を選びました。ご一緒にお読みしたいと思います。
「 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」
・聖書はイエスの復活を客観的に観察し、それが事実であることを論証しようとはしません。むしろ、
そんなことは信じられないという人々が、理解できない事件に出会って、変えられて行った事実を伝えます。復活を目撃した人々によって教会の中に伝承が形成され、「キリストが人間の罪の為に死んだこと、葬られたこと、三日目によみがえったこと、よみがえったキリストが弟子たちに現れた」ことの復活の伝承を、パウロは最も大事な教えとして受け、伝えると語ります。
・復活は信じることは難しい出来事です。しかし、この出来事が世界史を変えていきました。イエスが十字架にかかり、死なれた時、弟子たちは逃げて、そこにいませんでした。日曜日の朝、弟子たちは「家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました」(ヨハネ20:19)。弟子たちはイエスを処刑した人々が、自分たちも捕えるのではないかと怖れていたからです。その弟子たちが、数週間後に、神殿の広場で「あなたたちが十字架にかけて、殺したイエスは復活された。私たちがその証人だ」と宣教を始め(使徒3:15)、逮捕され、拷問を受けてもその主張を変えませんでした。弟子たちの人生を一変させる何かが起こったのです。それが「復活のイエスとの出会いだった」と聖書は語ります。復活信仰は人を新たに生まれさせる力を持っています。
・私たちは復活のメッセージの持つ豊かさを思い起こします。キリストの復活を信じる時、人生の意味は変わってきます。キリストは十字架にかかり、権力者によって殺されました。しかし、神はそのイエスを「死人の中から起こされた」、神は悪をそのままには放置されないことを、私たちは復活を通して知ります。世はまるで神などいないような現実を示しています。しかし、どのような悪があろうとも、その悪はいつか終わることを信じます。私たちは悪に屈服しません。どのような困難があっても、神が共にいて下さるから、私たちに絶望はありません。神が必ず道を開いて下さることを信じるからです。私たちが復活を信じるということは、この世界が究極的には、「神の支配される良き世界」であることを信じることです。その信仰が希望をもたらし、希望は私たちに行動をもたらします。復活信仰は人間に生きる力を与え、人を「幸せな人生」ではなく、「意味のある人生」に導いてくださるのです。
・イエス・キリストの復活は、弟子たちの復活でもあり、パウロの復活であり、私たちの復活である事を覚え
皆様と共に今日のイースター礼拝を感謝します。
アーメン。

 

祈り
真の生命の神のみ名を賛美します。
イースター礼拝を篠崎キリスト教会の兄弟姉妹と共に
集い・祝いの時を感謝します。
私たちの主イエス・キリストの復活は、過ぎ去った出来事ではなく、
私たち自身の復活、そして生きとし生けるもの
全てのものの復活である事を覚え、
主イエス・キリストの名前で祈ります。
アーメン。

祝祷 新共同訳 二コリ13:11,13
喜びましょう。完全な者になりましょう。励まし合いましょう。思いを一つにしましょう。平和を保ちましょう。
愛と平和の神が私たちと共にいてくださいます。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たち一同と共にありますように。
アーメン。

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