江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2025年2月9日(マタイ10:16-25、蛇のように、鳩のように)宣教:上原神学生

投稿日:

https://www.youtube.com/watch?v=IYOFIt4PTY0

 

1.十二人を選び、派遣する

・篠崎キリスト教会にお集まりの皆様、おはようございます。今週も「聖書教育」に沿って、マタイによる福音書10章16~25節を中心に御言葉を聴いていきたいと思います。

・マタイによる福音書10章には人間以外の生き物が5つ登場します。ギリシア語ルコス【比喩的に】おおかみのような性質の人間を指して言います。プロバトン【比喩的に】牧者に対する従順の性格から、大牧者キリストに従う信徒を指して言います。オフィス賢い生き物。リステラ家ばと・全焼の生贄として。そして雀ストルーシオン小鳥です。

 

新共同訳聖書に狼は12節、羊はなんと703節、蛇は52節、鳩は49節、雀は4節記されています。

 

狼は、国の高官・裁判官・偽預言者に例えて記されています。

・エゼキエル22:27 「また、高官たちは都の中で獲物を引き裂く狼のようだ。彼らは不正の利を得るために、血を流し、人々を殺す。」

・ゼファニヤ3:3 「この都の中で、役人たちはほえたける獅子/裁判官たちは夕暮れの狼である。朝になる前に、食らい尽くして何も残さない。」

・マタイ7:15 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。」

 

羊は、小さく弱くされているエルサレム・ユダの民・群衆を指して、

・マタイ9:36 「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた(あわれまれた)。」

 

蛇は、

・創世記3:1a 「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。」

 

鳩は、

・レビ記1:14 「鳥を焼き尽くす献げ物として主にささげる場合には、山鳩または家鳩を献げ物とする。」

 

雀は、

・ルカ 12:6,7 「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。 それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

・イザヤ書 11:6~9には、 「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。 わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。」

この世の中は人間だけの世界ではなく、たくさんの生き物が山と海と大地の自然環境の中に生きている。人間を含む生き物も大自然も主を知る知識で満たされ、平安の中に生きるものとして神が創られた。とイザヤは記しています。コロナウィルスもあらゆる生き物も人間も全て神のみ手の中にあり、地震も津波も台風も大雨も大自然の息づかい・息吹きと言えます。人間はその創造の世界の一部として存在しているにすぎないと言えるのです。

・イエスは十二人の弟子を、イスラエルの失われた羊のところへ、「天の国は近づいた」と病人をいやし、死者を生き返らせ、皮膚病の人を清くし、悪霊を追い払うため派遣します。

イエスは弟子たちを派遣しますが、単に遣わす、送り出すのではなく、「使命を与えて遣わす、職権を委任して派遣する」と言っています。遣わす・ギリシア語 アポステローは、使命を与えて遣わす、職権を委任して派遣するという意味です。

・マタイ10:9,10 「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。」

イエスは、旅には袋は下げ下着は一枚だけ持って、履物は履いて杖はついて行きなさい。下着1枚以外は持たずに身に着けて行きなさい。と命じています。面白いですね。

 

2.迫害を予告する「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」

・マタイ10:16 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」

イエスは職権を委任して弟子たちを派遣しますが、その派遣先の町には多くの狼達の群れがいます。そこに羊を遣わすようなものだから、蛇のように賢く、賢い・ギリシア語 フィロニモス 分別のある、思慮深い、慎重な、利口なと言う意味です。派遣先でとどまるのにふさわしい人物を慎重に、思慮深く、分別しなさい、そうしないと迫害に遭うことになりますから。そして鳩のように素直になりなさい。素直・ギリシア語 アケライオス 混ぜるの否定形で混じりけのない、純真な、素直なという意味です。イエスの天の国の福音書だけを宣べ伝えなさい。と言っています。

・マタイ教会は復活のイエスの言葉を聞き続けます。イエスは言われます。

・マタイ10:17~20 「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。 また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。 実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父のである。」

霊 聖霊は慰め主、あるいは助け主、弁護者として描かれています。

・ヨハネ14:26 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」

イエスは続けて、さらに厳しい言葉を弟子たちに語ります。

・マタイ10:21、22a「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」

これはキリスト教が2,000年の間、ユダヤ教やローマ帝国からの迫害、教派間の争い、キリスト教国同士の戦争等々歴史が示した事です。しかし「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(10:22b)と約束されています。

・実際に迫害を受けた時はどうすれば良いのか。イエスは殉教ではなく、危険を避けて避難することを勧めます。「一つの町で迫害された時は、他の町へ逃げて行きなさい」(10:23a)。マタイ教会は、ユダヤ戦争の混乱を避けてシリアに逃れ、その地で福音書を完成しています。そしてイエスは「苦難はいつまでも続かない」と約束されます。「あなたがたが、イスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」(10:23b)。マタイ教会は苦難と迫害の中にさらされましたが、イエスが再臨され、「天の国はまもなく来る」との希望を持っていました。

・マタイによる福音書の中で、迫害の中にある教会へ、復活のイエスは「人々を恐れてはならない」と語られます(10:26)。「体は殺しても、魂を殺すことにできない者どもを恐れるな」と(10:28)。そして

・マタイ10:29~31「 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

とイエスは弟子たちを励まします。

・イエスは殉教を勧めていないことに注目しましょう。「一つの町で迫害された時は、他の町へ逃げて行きなさい」とイエスは語られます。宣教使命の継続には「逃げて行く」事が大事だとイエスは教えます。「徳川時代のキリシタン弾圧が残酷だった原因は、信徒に逃げることを教えなかったからです。教職者である神父は殉教の死を遂げても、信徒には逃れる道を備えるべきでした。信徒には、踏み絵を迫られたら、踏んでも生きろ!と。心の中で信仰を持ち続け、信仰の火を絶やすなと教えるべきでした」。当時のイエズス会は「殉教の勧め(マルチリヨノススメ)」を信徒に教え、その中でこのマタイ10章の言葉「体は殺しても、魂を殺すことにできない者どもを恐れるな」(10:28)、「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」(10:33)を引用しています。キリシタン時代の信徒たちは、ある意味で殉教を聖書のイエスの御言葉に基づいて強制された。と言えます(尾西康充「神の沈黙と人間の沈黙」三重大学人文論集2012年)。

・「永遠の命」は大事ですし、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方・神」を恐れるべきです。また初代教会の弟子たちが、死を持って脅かされて(おびやかされて)も信仰を捨てず、殉死して行ったことも事実でしょう。しかし多くの人々がキリスト教徒になったのは、殉教者の存在だけではなかったという歴史的事実を見る必要があります。先に述べましたように、マタイ教会は、ユダヤ戦争の混乱を避けてシリアに逃れ、その地で福音書を完成しています。逃げなければ、「マタイによる福音書」はこの世に存在しなかったのです。永遠の命は大事です。がこの世の命も大事です。神から授かった命、そして今神の憐れみによって生かされている命を大事に出来ない人間に、永遠の命を大事にすることが本当に出来るのでしょうか。私は疑問に思います。

 

 

3.イエス・キリストの再臨はいつなのか? 蛇のように、鳩のように

今週の招嗣に使徒言行録1章8節を選びました。ご一緒に読みたいと思います。

・使徒言行録1章8節 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

ルカの記す、復活のイエスの昇天の際の言葉です。聖霊が約束され、五旬祭の時に約束の聖霊が降臨されます。

・マタイ 10:23b 「はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。

マタイの記す復活のイエスの再臨の約束は、聖霊降臨によって実現したのかもしれません。ペンテコステの聖霊が再臨のイエスと言えるのかも知れないからです。

・ヨハネは14:26 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」と記しています。

続けます。

10:25a 「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。 弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。」

マタイは、弟子は師にまさるものではなく、弟子は師のようになれば、それで十分である。弟子に訪れる苦難・迫害は師が受ける苦難・迫害にまさるものではないから安心しなさい。と記し、ルカは、十分に修行を積めば、その師のようになれる。と記しています。

・ルカ6:40 「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」

・教会の教職者である神父・牧師が苦難・迫害に遭い、殉教の死を遂げ事が将来あるかもしれません。しかし、信徒には逃れる道を事前に備えることも牧師のすべきことです。信徒には、踏み絵を迫られたら、踏んでも生きろ!と。心の中で信仰を持ち続け、信仰の火を絶やすなと教えるべきです。

「蛇のように、鳩のように」。蛇のように慎重に、思慮深く、分別して苦難・迫害に立ち向かいなさい。鳩のようにイエスの天の国の福音だけを信じる混じりけのない信仰を持ちなさい。そして、イエスの言われた様に

「一つの町で迫害された時は、他の町へ逃げて行きなさい」。逃げて信仰を持ち続けることです。

・信徒が自分の救いを、私の救いを願い求めるのは、当然のことだと思います。一人ひとりの私は教会に呼び集められ、集い、私達の救いを願い求めるようになります。私達は決して独りではなく、教会は神の家族です。神の国の先取りです。わたしが、わたしたちになり共に生きることが出来れば、教会だけでなく、小さくされている方々や弱くされている人々と共に優しいコミュニティを生きることが出来ると思います。

それが平和を造り上げる一歩となります。

 

祈ります。

真の生命の神のみ名を賛美します。

インマヌエル、共におられる神を感謝します。

喜びの時ばかりでなく、悲しみや苦しみや時も共におられる神に感謝します。

わたしたちは一人一人でも、あなたが共におられることを感じ続ける事が出来ます様に

孤独を感じることなく生きる希望を頂いていることを感謝します。

共におられる神を証し続ける事が出来ます様に

共におられる神の平和のご計画を感謝して、

イエス・キリストの名前で祈ります。アーメン。

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