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1.ペトロ、信仰を言い表す
篠崎キリスト教会にお集まりの皆様、おはようございます。今週も「聖書教育」に沿って、マタイによる福音書16章13~38節から聴いていきたいと思います。
先週は、マタイの記す「天の国」=神の国は、宝であり、高価な真珠であり、正しい人々が入ることが赦される。ですから神の国を一番に求める歩み・信仰生活を送りましょう。そうするとその歩み・信仰生活そのものが宝を見つけたような喜びの時を体験することになるでしょう。という素晴らしいメッセージでした。
本日は、ペトロの信仰告白とそれを聞いたイエスの教会建設宣言(この岩の上に)、そして、イエス自身の「死と復活」の予告について聖書から聴いていきます。
・マタイ16:16 「シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。」(メシアはギリシア語クリストスです。)「生ける」は、ビオスではなくゾーエー。
ペトロの答えは、自分の目の前におられるイエスに対して、弟子たちを代表してメシア・キリストと認めた、最初のキリストに対する信仰告白でした。しかし、ペトロはイエスをキリストと信仰告白しましたが、その後イエスを「そんな人はしらない」(マタイ26:69~74)と言い、イエスの十字架の際には逃げてそこにいませんでした。
・一コリ12:3b 「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(主はギリシア語クリオスです。)と記されています。
私たちのバプテスマは三位一体の神から授かる恵みですが、その際の「信仰告白」も聖霊の助け、導きが無ければ、イエス・キリストを(救い)主と告白できないと記されています。それを
・マタイ16:17 「すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。』」
わたしの天の父、マタイ10:20では父の霊であると語っています。
ペトロは弟子達の代表として、そして私達の代表として、人類で初めてイエスを「キリスト・生きて働く神の子」と聖霊の助け、導きによって信仰告白したのでした。
2.この岩の上に(イエスの教会建設宣言)
このペトロの信仰告白をお聞きになったイエスが、
16:18 「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」
信仰告白したペテロという岩(ギリシア語ペトラ)の上に、私の教会を建てる、と教会建設宣言をされました。
「岩」は、創世記49:34では牧者、申命記32:4では主(神)と記されています。本来は強固な岩、揺るがない岩=神の上に教会を建て上げる。ということです。
「教会」は、当時イエスと弟子たちはアラム語で話していたと思われます。アラム語の集会・会衆がギリシア語に訳された際にエクレーシア(教会)となったと考えられます。人を霊的に造り上げる場所を意味します。
ユダヤ人を対象とした会堂や社会は、スナゴーゲーです。「教会」という言葉は福音書の中ではマタイ16章と18章にあるだけです。
「陰府の力も対抗できない」の直訳は、ハデス(見えない死者の世界)の門(入り口)ではない。です。
イエスの建て上げる教会は、天の国・神の国の門が開かれている場所であり、陰府の力に勝つと共にその罪の力に勝つとイエスは、約束してくださっているのです。
3.イエス、死と復活を予告する
・16:20 「それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。」
14章で五千人に、前章15章で四千人に食べ物を与えました。女と子供を別にして男が四千人も集まったのは、イエスがメシアであると知った人々がパンや魚をイエスに捧げて病や汚れを癒して貰おうと集まったからではないかと考えられます。
・16:21 「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」
招詞にルカによる福音書22章31,32節を選びました。
ルカ 22:31、32 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
イエスは、シモン・ペトロが教会の土台の岩になることを期待し、ペトロの信仰がなくならないように祈りました。しかし、ペトロはイエスをキリストと信仰告白したその舌で、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(16:22)と諫め始めます。直訳では「あなたに憐れみがあります様に」という意味です。
聖霊の助け、導きによって、神の事を告白したペトロも師の死には人間の思いに囚われてしまいます。信仰告白しバプテスマを授けられた私たちも罪を犯します。神の事を思わず、人間の事を思います。ですから、私達は主の日に礼拝を捧げ、祈り、神の事を思う日が必要なのです。イエスは、ペトロだけでなく、私達にも「わたしはあなたたちのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言ってくださっています。
もう一度マタイ16:21に戻ります
「イエスは、エルサレムに行って、多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活する、と弟子たちに打ち明け始められた。」
多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活すると言われています。多くの苦しみを受けとは十字架を指していると思われますが、「死者と復活」が同じ節にあるのは58節ありますが、「十字架と復活」が同じ節にあるのはマタイ20:19とマルコ16:6とルカ24:7の3か所だけです。十字架スタウロー
「イエスはわたしたちの為に十字架にかかりました。」「わたしたちはイエスの十字架の贖いによって救われました。」は、正しくありません。イエスの十字架によって贖われたのはバラバ1人だけですから。イエスの死、そして復活がわたしたちにとっての贖いであり、福音なのです。それでは、十字架の意味とは?何なのでしょうか?そのヒントは、以下のマルコとヨハネによる福音書にありました。
・マルコ15:34 「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味のアラム語です。
・マルコ15:37-39 「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」
百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言ったのは、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたのを見たからというよりは、イエスの神に対する従順な信仰を見て、そして十字架上で死なれたイエスに究極の「共におられる神」を見たからではないのでしょうか。
イエスは「共におられる神」を疑似体験でも追体験でも無く、原体験として現在進行形で究極の形「十字架上」で見える形で示された。
・ヨハネ19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
旧約の「共におられる神」が究極の見える形で、異邦人の百人隊長にも理解できる形で、イエスによって、「成し遂げられた」のです。
喜びや祝福の時だけでなく、悲しみや苦難・不条理の中にあっても「共におられる神」。
・申命記21:23 「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」
「木にかけられた死体は、神に呪われたもの」。神に呪われたものとも「共におられる神」。神に呪われた者と同じ死体になる神。
イエス・キリストの十字架は、どんな時にも「共におられる神」を体現したもの。究極の「共におられる神」の姿です。
西南学院大学名誉教授で聖書学者の青野太潮氏は、「どう読むか、新約聖書」の中で、「神は常に人間とともにいて、その苦難を共にしてくださっている」「大震災や大洪水などの天災に、天の父は、あの大津波においても、被災者たちと一緒に流されておられたのだ、という捉え方がそこからは可能になるのです。大貫隆さんも、『真理は「ガラクタ」の中に』(教文館、2015年、179頁)において、異なった箇所からからではありますが、「思い切って言えば、神は彼らと一緒に流されたのです」と語っています。」
生まれつき目が見えない人と共に目の見えない神、耳の聞こえない人と共に耳の聞こえない神、身体の不自由な人と共に身体が不自由な神、不治の病の人と共に不治の病の神、病気や怪我で身体の一部または全部を失う人と共に身体の一部や全部を失う神、貧しい人々と共に貧しい神、迫害される人々と共に迫害される神、地震で家を潰され家も家族も失った人々と共に家も家族も失った神、津波で家も家族も流された人々と共に家も家族も流された神、火事で家も家族も失った人々と共に火事で全てを失った神、阪神淡路大震災で窒息・圧死された人々と共に窒息・圧死される神、東日本大震災で津波に流された人々と共に流される神、新型コロナウィルス感染者と共に感染される神、能登半島地震の被害者と共に地震の被害を受けられる神、
戦争で犠牲になった一般市民と共に犠牲となる神、アパルトヘイト(人種隔離・差別・抑圧)で抑圧されている人々と共に抑圧される神、ジェノサイド(集団殺害・大量虐殺)の被害者と共に虐殺される神、原子力爆弾による被害者と共に被爆される神、福島第一原発事故の被害者と共に被曝される神。神そして十字架上のイエスは人間の悪に対して永遠の忍耐を続けられ、人間の悪は人間が正すべきであると、人間の正義に期待し続け、自然の猛威にはそれを赦されている。聖書の中からこれらの事を聴くことが出来ます。
・ガラ2:19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
「継続して今もなお十字架につけられたままの姿をもって、私たちとともに苦難のなかでにいてくださる、つまり苦難のなかで私たちに同伴してくださっているキリスト」を示しています。今も苦難の中にいる人々と共にイエスは十字架につけられ続けて苦難を共にしておられるのです。
これは、信仰者の一人称の福音と言えるのかも知れません。