1.8月15日と9月11日
・日本では8月15日は敗戦記念日です。1945年8月の敗戦を契機に日本は平和になりましたが、世界は平和にはなりませんでした。1945年以降も多くの戦争が起こり、大勢の人が死んでいきました。そして2001年9月11日に新たな戦争が始まりました。ニューヨークの国際貿易センタービルがテロリストによる自爆テロで破壊され、3000人以上の人が死に、アメリカは報復としてアフガニスタンを空爆し、イラクに侵攻しました。その結果、さらに何万人もの人々が殺されました。何故戦争はなくならないのか、何故平和が来ないのか、私たちは知りたい。それを私たちに教えるのは創世記50章です。
・創世記50章はヨセフ物語の最終章です。ヨセフはヤコブの11番目の子として生まれましたが、父ヤコブはヨセフを偏愛しました。その結果、ヨセフは父の寵愛を受けて兄たちを見下し、兄たちはヨセフを憎み、エジプトに奴隷として売り飛ばしました。ヨセフが17歳の時でした。エジプトへ売られたヨセフは、多くの試練を与えられます。詩篇105は歌います。「主はこの地に飢饉を呼び、パンの備えをことごとく絶やされたが、あらかじめ一人の人を遣わしておかれた。奴隷として売られたヨセフ。主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された。主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現する時まで」(詩編105:16-19)。「御言葉が実現する時まで」、ヨセフは「首に鉄の枷をはめられ」、「火で練り清められ」ます。
・ヨセフは最初、宮廷執事長の家に仕えますが、やがて無実の罪で投獄され、苦しめられます。しかし、獄中で王の給仕役と知り合い、その知遇を得て、エジプト王の前に出る機会を与えられます。王が夢を見て飢饉が来ると恐れを見た時、ヨセフは穀物を備蓄して飢饉に備えるように王に進言し、これが容れられて、ヨセフは国の司に取り立てられました。ヨセフ30歳の時です。数年後に、大飢饉が中東一帯を襲いました。エジプトはヨセフの政策により食糧を備蓄していたため、この災害を逃れることが出来ましたが、多くの国々では食物が底をつき、人々は食糧を求めて、エジプトに来ます。その中にヤコブとその息子たちもいました。
・こうしてヨセフは自分を奴隷として売った兄弟たちと再会します。しかし、今のヨセフは、前のヨセフではありません。エジプトでの苦難の日々がヨセフを変え、自分の力で生きているのではなく、神によって生かされている事を知る者とさせられています。飢饉を通して、兄弟たちと再会したヨセフは、兄弟たちに言いました「神が私をあなた達より先にお遣わしになったのは、この国にあなた達の残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」(創世記45:7-8)。「私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく神です」、ここに神の摂理を信じる者の信仰が表明されています。
2.赦しによる平和
・ヤコブとその一族はエジプトに住み、ヤコブは平和の内に死にます。父ヤコブが死んだ時、兄弟たちは、ヨセフが昔のことを根に持って、自分たちに報復するのではないかと恐れました。ヨセフの赦しの言葉を信じ切れなったからです。兄弟たちは人を介してヨセフに言います「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい』。お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください」(50:17-18)。ヨセフはこれを聞いて涙を流し、兄弟たちを呼んで語ります「恐れることはありません。私が神に代わることができましょうか。あなたがたは私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(50:19-20)。
・悪をたくらむの『たくらむ』と言う言葉はヘブル語の「カシャブ」であり、神はそれを「善に変え」の「変え」も同じ「カシャブ」という言葉です。あなたたちは私をエジプトに売るという悪をカシャブしたが、神はあなたたちの悪をあなたたちの救いという善にカシャブされた。神がそうされたことを知った以上、あなたたちに報復するという悪を私が出来ようかとヨセフは言ったのです。苦難はその理由がわからない時は、これに耐えることは出来ません。しかし、その苦難が神から与えられた試練であることを知った時、苦難は福音になります。苦難を通して、神が共におられることを知るからです。
・2001年9月11日にテロリストによってハイジャックされた飛行機が二棟の高層ビルに突入し、3000人が死んだ時、アメリカの指導者たちは、これが神の導きであると信じることは出来ませんでした。アメリカ人は、自分たちは悪者に囲まれており、今自分たちの力で自分たちを守らなければ、自分たちは滅んでしまうと恐れました。ですから、テロリストたちの本拠地と思われていたアフガニスタンを攻撃し、その軍事的支配権を握りました。しかし、恐怖は去らない。テロリストたちはイラクにもいるかも知れない。そしてイラクにも侵攻しました。自らの身を危険から守ろうとするのは当然です。しかし、自分を絶対安全の状況にしたいと思う時、それは神の守りを捨て去る行為になります。神の守りがない時、人は恐怖から過剰に攻撃的になり、相手も反撃します。それから20年たってもなおアフガニスタンとイラクは平和ではありません。平和とは戦争のない状態ではありません。軍事力によって強制的に戦闘が中断しても、それは平和ではなく、やがて崩れます。アフガニスタンやイラクの情勢が私たちに教えるのは、平和は攻撃や恫喝からは来ないということです。今イスラエルがガザ紛争で陥っているのも同じ恐怖です。自分たちの国がなくなるかもしれないとの恐怖の中で、イスラエルは過剰防衛の残虐行為を続けています。
3.神の経綸
・今日の招詞にイザヤ55:8-9を選びました。次のような言葉です「私の思いは、あなたたちの思いと異なり、私の道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、私の道は、あなたたちの道を、私の思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」。2001年9月11日にニューヨークで3000人が殺された時、神はそこにおられました。アフガニスタンの空襲で幼い子供たちが死んでいった時も、神はそこにおられました。アメリカ人とイラク人が殺しあうイラクの地にも神はおられました。もし私たちが、「神はそこにおられ、神は悪を善に変える力をお持ちである」ことを信じるならば、世界は変わりえます。高層ビルを破壊したテロリストの悪も、イラクを先制攻撃したアメリカの悪も善に変わりうるのです。しかしNY貿易センタービルが破壊されたとき、アメリカ大統領G.ブッシュは「テロとの戦い」を宣言し、アメリカ国内では「仕返しと報復を立法化せよと要求する怒りの声」が巻き起こり、町には星条旗があふれ、アメリカに忠誠を誓わない者はアメリカの敵だとの大統領声明が出されました。
・その中で教会はローマ12章を祈りました。「復讐を求める合唱の中で、『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』と促されたイエスの御言葉に聞くことが出来ますように。キリストは全ての人のために贖いとして御自身を捧げられました。キリストはアフガニスタンの子供や女や男のために死なれました。神はアフガニスタンの人々が空爆で死ぬことを望んでおられません。国は間違っています。神様、為政者のこの悪を善に変えて下さい」(「グランド・ゼロからの祈り」、ジェームズ・マグロー、日本キリスト教団出版局)。国が間違っているのであれば、教会がそれを指摘する。教会の役割がここにあります。
・ヨセフは神の導きを信じて兄弟たちを赦しました。そのことによってイスラエル民族はエジプトに住み、そこで増え、モーセに率いられてエジプトを出る時には、一つの国民を形成するまでになりました。もし、ヨセフが神を信じず、感情のままに兄弟たちに報復していたならば、今日のイスラエル民族はなかったでしょう。悪を行うのは人間です。しかし、その悪の中にも神の導きがあることを信じる時、その悪は善に変わる。そして悪を善に変える器は赦しです。
・今日の招詞イザヤ55:8-9はバビロン捕囚を体験した預言者が歌ったものです。イスラエルは神に選ばれた民であることを誇り、おごり高ぶっていました。イスラエルに悪が満ちたため、神はバビロンを用いてイスラエルを滅ぼし、その民を異国の地に捕囚とされました。国を滅ぼされた人々は、何故神は私たちイスラエルを滅ぼされたのか、何故そのように怒られたのかを捜し求めるために、父祖からの伝承を集めていきました。人々は民族の歴史を振り返り、自分たちが神を忘れておごり高ぶった人間の歩みをしていた事を知り、悔い改め、神に祈りました。その祈りがイザヤ55章です。私たちを愛するがゆえに、神はこらしめとして私たちの国を滅ぼされ、私たちを異国に流された。その神の思いを知った感謝がこの言葉の中にあります。
・ニューヨークの高層ビルが破壊された時、アメリカは報復のためにアフガニスタンやイラクを攻撃する他に、もう一つの選択肢がありました。「何故、イスラムの人々はアメリカを憎むのか。私たちの何に怒っているのか」、もしアメリカの指導者がそう考えたならば、2001年9月11日以降の歴史は異なったものになったでしょう。歴史を形成するのは人間です。人間が決断の時に、神の声を求めれば、歴史は開いた平和の道になり、自分達の思いで行動するならば、歴史は閉じた憎みあいの道をたどります。テロ攻撃を受けたアメリカの指導者がその時、創世記50章を読み直していれば、歴史は変わったのではないかと思います。歴史は、人生は、神の赦しに支えられています。
4.神の導きは続く
・ヨセフも年取り、やがて死を迎えますが、自分の遺骸を父祖の地に葬るように命じます「ヨセフは兄弟たちに言った。『私は間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。』それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。『神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。その時には、私の骨をここから携えて上ってください。』」(創世記50:24-25)。500年後、イスラエルの民はモーセに率いられてエジプトを出ますが、モーセはヨセフの遺骸を携えて行きました。「モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、『神は必ずあなたたちを顧みられる。その時、私の骨をここから一緒に携えて上るように』と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである」(出エジプト13:19)。遺骸は父祖アブラハム・イサク・ヤコブの眠るシケムの地に葬られました(「イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画に、葬った」(ヨシュア記24:32)。そのシケムはヨルダン川西岸にあり、現在でもパレスチナ人とイスラエル人が領土の帰属をめぐって戦いを繰り返している場所です。「夜と霧」で、アウシュビッツ強制収容所の生活を描いたビクトール・フランクルは新しく編集された新版に加筆します。「人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。そしてどちらの存在かを決めるのもまた人間だ」。神は共におられるのです。