江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年4月21日説教(第一コリント8:1-13、異教社会の中でどのように生きるか)

投稿日:2024年4月20日 更新日:

 

1.偶像に供えられた肉をめぐる論争

 

・コリント人への手紙を読み続けています。今日の主題は「偶像に供えられた肉を食べても良いのか」という問題です。パウロは、性に関わる諸問題を5章から7章でとりあげ、次に、偶像への供え物に関わる問題を8章から10章で取りあげます。おそらくコリント教会からの質問の順序に沿ったものなのでしょう。しかし性の乱れと偶像礼拝とは非常に深く結びついていたことを考える必要があります。コリントのアフロディア神殿には、千人近くの巫女(神殿娼婦)がいて、巡礼者に性的な享楽を奉仕していたと言われています。偶像礼拝は性的退廃(ポルネイア)を伴うのです。

・コリントを含めたギリシア・ローマ世界には多くの神殿があり、神殿では毎日動物の犠牲が捧げられ、肉の一部は捧げ物として焼かれましたが、残りは市場に払い下げられ、人々はそれを食肉として食べていました。当時流通していた食肉の多くは、「偶像に供えられた肉」であり、その肉を食べることは「偶像礼拝」に当たるとユダヤ人教会員は理解しました。キリストの福音はユダヤから始まり、その後異邦人社会にも広がっていきました。その時、ユダヤ教における食物規定を異邦人にも適用するのかどうかが課題となってきました。ユダヤ人は律法の規定により、豚肉や異教の神殿に捧げられた犠牲の動物の肉等は汚れたものとして食べることを禁じられていました(レビ記17:8他)。最初期の教会の構成員はほとんどユダヤ人でしたので、この食物規定は初期には大きな問題にはなりませんでした。

・ところが、教会がギリシア・ローマ世界に広がるにつれて、神殿に捧げられた肉を食べてもよいのかどうかが、教会を二分する問題になっていきます。新しく信仰に入った異邦人は平気でその肉を食べており、それに対するユダヤ人信徒からの批判が高まったからです。そのためエルサレムで使徒会議が開かれ、異邦人も「偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるよう」(使徒15:20)決定され、エルサレム教会の名で、「偶像に供えられた肉は食べてはいけない」と諸教会に通知が出されました。そのため、「偶像に捧げられた肉を平気で食べる異邦人信徒」の問題が、コリント教会全体の問題になってきたわけです。

・この問題は単に「肉を食べるかどうか」の問題ではなく、昔からの習慣や慣習をどうするかという問題に広がります。日本は人口の多くが非キリスト教徒で、かつ神社や仏閣が方々にある、多神教の世界です。その中で、聖書の信仰を守ろうとする時、いろいろな問題が生じてきます。例えば親から継承した位牌や仏壇をどうすればよいのか、仏式葬儀における焼香や合掌という儀式にどう対応するのか、日曜日に運動会や授業参観があれば礼拝を休んでもよいのか等々、私たちがこの日本でキリスト者として生活するために、社会とどのように折り合いをつけるかの課題にもつながります。

・コリント教会の異邦人信徒たちは、自由を主張しました。彼らは言います「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」のだから、「神殿に捧げられた肉を食べてもなんら汚れない」(8:4)と。パウロも彼らの主張を認め、「その通り、食べてもかまわない」とコリント教会に回答します。ユダヤ人のパウロが、エルサレム教会の偶像肉禁止令から解放された発言をしていることに注目すべきです。しかしパウロは同時に、「食べることを罪だと考える人がいることをどう思うか」と問いかけます。「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」(8:7)。

・ここにおいて、問題は、「偶像に捧げられた肉を食べても良いのか」という教理上の問題から、「それを罪だと思う人にどう配慮するのか」という、牧会上の問題になっていきます。パウロは言います「私たちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」(8:8)。肉を食べるか、食べないかは信仰の本質に関わる問題ではない。だから食べても良いし、食べなくとも良い。しかし「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘う」(8:9)時、つまずく人がいてもなお食べることは、罪であるとパウロは語ります。

・「偶像に捧げられた肉を食べても良いのか」という問題はローマの教会でも起こっていました。異邦人教会に共通な課題であったのです。パウロはローマ教会への手紙の中で語ります「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです」(ローマ14:1-2)。問題の本質は食物ではなく、愛です。食べない人のことを配慮するのが愛=アガペーです。パウロは語ります「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(ローマ14:15-16)。

 

2.信仰の本質にかかわる問題では譲歩しない

 

・パウロは「神殿に捧げられた肉を食べても構わない、そもそも偶像の神などいないのだから」とうそぶく人々に語ります。「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅んでしまう。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」(8:10-11)。「キリストがあなたがたのために死んでくださったのに、あなたがたは信仰の弱い人々のために、自分の食事さえ変えるのはいやだというのか」とパウロは問いかけます。もはや問題は肉を食べるか、食べないかではなく、隣人をどう考えるかの問題です。パウロは語ります「このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです」(8:12)。「食べることが正しいのかではなく、食べることによってつまずく人がいてもなお食べるのか」が中心課題です。答えは明らかです。パウロは言います「食物のことが私の兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません」(8:13)。

・偶像に捧げられた肉を食べるかどうかは、信仰の本質に関わる問題ではありません。偶像の神などいないからです。しかし、食べることによってつまずく人がいるのに食べるのは、信仰の本質に関わる問題です。日本のキリシタン禁制時代に用いられた踏み絵を踏むかどうかも、同じ問題を抱えています。踏み絵そのものは板に聖母子を描いたメダルを組み込んだもので、それ自体何の意味もありません。単なる偶像です。しかし、踏み絵を踏んだ人々の信仰は崩れました。それは人の前で、最も大事に思うものを踏みつけにする、自己の信仰告白を偽りと表明する行為だったからです。私たちの信仰は、私たちの生活を規定します。行為が人を救うわけではありませんが、信仰は行為を導くのです。例えば、「何があっても日曜日の礼拝を守る」、その証しこそが、伝道です。周りの人はその行為を通してキリストに導かれます。

 

3.キリスト者の自由とは何か

 

・今日の招詞に第一コリント10:23-24を選びました。次の言葉です「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。パウロは偶像に捧げられた肉を食べることの是非論を10章でも続けます。大事な問題だからです。パウロの態度ははっきりしています「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」(10:25)。何でも食べてもよいが、誰かが「これは偶像に供えられた肉だ」と言う場合は、その人の良心のために、食べることを止めなさいと勧めます(10:28)。その人がつまずくことを避けるためです。そして招詞の言葉が来ます「すべてのことが許されているが、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない」。

・ここにおいて、キリスト者の生活の基本が何かが明らかになってきます。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(8:1)。「造り上げる」、オイコメドオー、建設するという言葉が用いられています。「教会を立て上げていくのは知識ではなく、愛だ」とパウロは語ります。「知識に基づく強さ」ではなく、「愛に基づく弱さ」を私たちは求めるべきなのです。キリスト者の自由とは「隣人と共にある自由」であり、隣人がつまずくのであれば、自分が正しいと思うことも断念する自由です。キリスト者は何を食べても良い、「地とそこに満ちているものは、主のもの」(10:26)だからです。しかし自由を自己追求のためには用いません。肉だけでなく、お酒やたばこを嗜むことも自由です。しかし、妊娠した女性が胎児のためにお酒やたばこを控えるように、キリスト者は隣人のために自分の自由を制約します。

・「隣人のために何かを断念する自由」、この言葉を私自身が体験したことがあります。私たち家族は20年前に、仕事でオーストラリアに6年間駐在しました。その地で、日本で宣教師として働き、引退してシドニー日本人教会の牧師をされていたヘイマン夫妻と出会いました。ある時、ご夫妻を食事に招いた時、ヘイマン先生はワインを飲まれませんでした。ワインを飲まないオーストラリア人に出会ったのは初めてでした。理由を尋ねた時、先生は言われました「ワインは神様からの贈り物です。でも私は飲みません。お酒を飲むことによってつまずく人がいるかもしれないからです」。ヘイマン先生は、自分は飲んでもかまわないと思っても、他者のために「飲む自由」を捨てました。ここに福音信仰を生きている一人のクリスチャンがいました。私が後年牧師になった理由の一つは、ヘイマン先生の生き方に対する感動があったような気がします。

・何をしても良いが、隣人への愛が行為を制約します。キリスト者の自由とは、自分の権利を相手のために放棄することです。キリストが来て下さった、私のために死んでくださった、この愛を知った時に私たちは根底から変えられます。三浦綾子著「塩狩峠」について、及川陽菜さんという方が次のような書評を書いておられました「人間も犬も猫も単なる動物にすぎない。そして死んでしまえば、一切が無になるかもしれない。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。そうでない生き方を求めて生きるのがクリスチャンの人生ではないか」。

・「塩狩峠」のモデルになった国鉄職員の永野信夫さんは暴走する列車を止めるために自ら線路に飛び降り、自らの体で列車を止め、事故を未然に防いだ人です。「感動した」という人もいれば、「本当に死ぬ必要があったのか」と疑問に思う人もいるでしょう。でも彼は人を愛するとは何なのかを身をもって示してくれました。キリストが私たちのために死んでくれたのだから、私たちも「友のために死ねる存在でありたい」と願います。イエスは言われました「私は羊のために命を捨てる・・・私は命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父は私を愛してくださる」(ヨハネ10:15,17)。病気の人が教会に来ても病気が良くなるわけではありません。貧乏な人が教会に来ても金持ちになるわけではありません。しかし、病気のままに、貧乏のままに祝福を受けるのが教会です。外部状況は変わらなくとも内側から新しい人間に変えられて行くのが、教会という場です。その教会にあって、「自分と違う人を受け入れなさい。全ては許されているが、全てが良いものを作り上げるのではない」とのパウロのメッセージこそ、聞くべき使信です。

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