江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年10月13日説教(エレミヤ4:5-26、預言に耳を傾けることの意味)

投稿日:2024年10月12日 更新日:

 

1.北からの侵略預言

 

・エレミヤが召命を受けた紀元前626年はヨシヤ王の治世13年です。アッシリヤ帝国は100年前に北イスラエル王国を滅ぼし(前722年)、ユダ王国を支配下に置いていました。そのアッシリヤの国力が衰退し、植民地ユダではアッシリヤに占領された北イスラエルの領土回復が行われ、南北統一王国の再建が進んでいました。しかし国土は復興しても、人々は相変わらず異教の神々を拝み、社会正義は後退していました。その中でエレミヤは預言を始めます。「ユダは神に選ばれた選民、神の花嫁であったのに、夫を裏切り、他の男になびいた。神の民となる契約を結びながらそれを破った。エジプトの奴隷から解放し、荒野の旅を守り、豊かな地に導きいれた主を忘れ、偶像神バアルにひざまずいた」(2:5-8)。

・人々が礼拝したのは、「バアル」と呼ばれた土着の豊穣の神でした。豊かな生活を手に入れた民は、更なる豊かさを求めて土着の豊穣神を礼拝し、恵みを与えて下さった神を離れてしまいます。エレミヤは批判します「生ける水の源である主を捨てて、無用の水溜めを掘った、しかしそれは空しいことだ」(2:13)と。「アッシリヤが勢力をなくすと、その代わりに今度はエジプトがあなたたちの頭をそり上げるだろう」とエレミヤは預言します(2:36)。事実、20年後の前609年ヨシヤ王はメギドの戦いでエジプト軍に殺され、ユダはエジプトの植民地になっていきます。

・エレミヤは語ります「良いぶどうの木として植えられたあなた方が、何故悪い野ぶどうになったのか。あなたがたはアッシリヤやエジプトの神々を拝礼し、土着の豊穣神バアル礼拝を行った。神は懲らしめのためにアッシリヤを用いて、北王国を崩壊させ、南王国を植民地とさせた。その後エジプトの軍勢を送られた。これだけの危機を経験しながら、まだ自分たちの罪を認めないのか」と。ユダは強国アッシリヤと大国エジプトの間で揺れ動き、主に依り頼まなかった。「神ではなく、人に頼ることこそ偶像礼拝の本質であり、姦淫である」と彼は告発します。

 

2.北からの災い預言を繰り返すエレミヤ

 

・エレミヤは「北から破壊が来る」と預言します(4:6)。「ユダに知らせよ、エルサレムに告げて言え。国中に角笛を吹き鳴らし、大声で叫べ、そして言え。『集まって、城塞に逃れよう。シオンに向かって旗を揚げよ。避難せよ、足を止めるな』と。私は北から災いを、大いなる破壊をもたらす。獅子はその茂みを後にして上り、諸国の民を滅ぼす者は出陣した。あなたの国を荒廃させるため、彼は自分の国を出た。あなたの町々は滅ぼされ、住む者はいなくなる。それゆえに、粗布をまとい、嘆き、泣き叫べ。主の激しい怒りは我々を去らない」(4:5-8)。

・半世紀にわたって世界に秩序と繁栄をもたらしていたアッシリヤの支配もかげりを見せ、新興勢力の進出に脅かされるようになります。メソポタミア南部には、新バビロニア帝国が起こり、ペルシャの北側にはメディア王国が台頭していました。またコーカサスの北から侵入して、世界を荒らしまわった騎馬民族スキタイ人はアッシリヤからシリア・パレスチナにまで略奪の遠征を行なっていました。しかし、祭司や宮廷預言者たちは、「神の住まわれるエルサレム神殿があり、神が祝福されたダビデ王家がある限り、エルサレムは滅びない」と信じ込んでいました。

・エレミヤはユダ国が敵に蹂躙される、その惨状を描写します。その一つがエレミヤ4:23-26です。「私は見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった。私は見た。見よ、山は揺れ動き、すべての丘は震えていた。私は見た。見よ、人はうせ、空の鳥はことごとく逃げ去っていた。私は見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり、町々はことごとく、主の御前に、主の激しい怒りによって打ち倒されていた」。大地は混沌としていた。この「混沌」(トーフー・ワボーフ)という言葉は、聖書では、創世記1章2節とエレミヤ4章23節にしか出てきません。創世記は記します「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった」(創世記1:1-3)。

・神による天地創造は、混沌とした無秩序な世界に秩序を与え、この秩序は生ける者に命をもたらしました。しかし神に背き、罪を犯し続ける者の上に下される神の審判は、混沌です。世界の秩序は神の御手により保たれていますが、神が見放され、御手の守りがなくなる時、世界は再び混沌としたものに変わります。光がなく暗くなり、山々は揺らぎ、大地には人も動物もいなくなり、肥沃な土地は荒野に変わり、町々は破壊されるとエレミヤは預言します。混沌の世界とは、人間の罪によって、世界がカオスになってしまうことを意味します。終戦直後の東京は焼け野原となり、原爆投下後の広島や長崎は完全に崩壊してしまったようにです。創世記は神の創造の業によって、カオス(混沌)がコスモス(秩序)に変わったと説きます。しかしエレミヤの見た幻は、神の裁きによって、創造後の調和ある世界が再び創造前のカオスに戻される世界でした。この世界は神の忍耐のゆえに維持されており、いつでもカオスに戻りうるとエレミヤは警告するのです。現代の私たちはその変化をガザやレバノンやウクライナで見ています。美しい整った街があっという間にがれきの街に変わりうる危険性をこの世は持っているのです。

 

3.預言の意味を考える

 

・エレミヤが預言を行い、それが目の前の出来事になったのは預言開始30年たった紀元前598年でした。その年にバビロニア帝国によるエルサレムの占領と指導者たちのバビロンへの捕囚が為されました。第一次バビロン捕囚です。30年は長い年月です。エレミヤの預言は30年間その通りにならなかった。預言は未来予測ではなく、多くの場合すぐには実現しません。そこに預言者の悲劇が生れ、人々はエレミヤを「大ぼら吹き、災いの預言者」として嘲笑しました。洪水を信じない人々がノアを嘲笑したようにです。

・それにも関わらず、エレミヤの預言は今日的な意味を持ちます。現代文明は地球を何度でも破壊できる核兵器を持っています。仮にロシアがウクライナ戦争を終わらせるために、核兵器を用いたら、ヨーロッパ中に放射能汚染が起きるでしょう。イスラエルがイランの核施設を爆撃する危険性が取りざたされていますが、その時に同じようなカオスが起こります。人の罪は世界を再びカオスに戻す危機を内包しているのです。エレミヤの預言が30年間実現しなかったからといって、彼の預言には価値がないといって退けることはできません。「地震予知がしばしばはずれ、人々が地震学者を非難し始めた時に、大地震が来る」。南海トラフ地震の預言は「30年の間に7割の確率で大地震が起きる」ことが予測されています。それは明日かもしれないし、30年後かも知れない。しかしほぼ確実に大震災は起きるのです。それを私たちはどう聞くか。エレミヤはエルサレが滅ぼされる日を預言しました。その日は来ましたが、30年後でした。エレミヤは主から示された言葉を繰り返し預言します。その預言は悶えのような預言です「私のはらわたよ、はらわたよ。私はもだえる。心臓の壁よ、私の心臓は呻く。私は黙していられない。私の魂は、角笛の響き、鬨の声を聞く」(4:19)。預言者は現在ではなく、将来を見ます。まだ戦乱の兆しもない時に、国の滅亡を幻に見ます。

・人々はエレミヤの言葉を聞かず、うそぶきます「主は何もなさらない。エルサレムに神殿があり、ダビデ王朝がある限り、神は私たちを守り、飢饉や外国軍の侵略も起こらない」。矢内原忠雄はエレミヤを「悲哀の人」と呼びました。彼は言います「混沌の中にあって真実を見据え、真実を語る人は悲哀の人であります。世間の人は神などあるものかと神を無視してわがまま勝手に行動していました。その中で『神は目を開けておられる』、そのことをエレミヤ一人が見抜いたのです」。「審きを審きと感じない」、そこに罪があります。アッシリヤからの独立を掲げたヨシヤ王はメギトでエジプト軍に敗れて戦死し(前609年)、エジプトの介入により後継王もエジプトの傀儡になった。危機が目に見え始めているのに、人々に危機感はありません。

 

4.滅びつくすことはしないと言われる神

 

・エレミヤ1-6章は彼の初期預言、ヨシヤ王(在位前622-609年)時代の預言です。イスラエルはアッシリヤの圧政から解放され、人々は自由と繁栄を楽しんでいました。その時代にエレミヤは罪による審き、滅亡を預言し始めます。晴天の中での嵐の預言であり、誰も聞こうとはしません。エレミヤは嘆きます。今日の招詞にエレミヤ6:16-17を選びました。次のような言葉です「私は『あなたたちのために見張りを立て、耳を澄まして角笛の響きを待て』と言った。しかし、彼らは言った『耳を澄まして待つことはしない』と」(6:16-17)。

・ある家で家屋が全焼する火事が起こり、家人が死にました。なぜそうなったのか。逃げ遅れた原因はあまりにも誤作動を起こす火災報知器が煩わしく、電源を切ってしまったことにありました。同じように人々は滅びと悔い改めを語る預言者の声が煩わしく、聞こうとしません。「耳を澄まして敵の角笛の響きを待て」と語られても人々は拒否します。主は言われます「私はこの民に災いをもたらす。それは彼らのたくらみが結んだ実である。彼らが私の言葉に耳を傾けず、私の教えを拒んだからだ」(6:18-19)。

・エレミヤの預言は耳に痛く、誰も聞こうとはしません。その時、宮廷預言者や祭司が立ち、「平和」を約束します。彼らは神の怒りを軽く見るゆえに、安易に慰めと救いを語ります。彼らは罪の問題の根本的な解決をせず、それを先延ばしにするゆえに、その罪は大きい。エレミヤは彼ら偽預言者を激しく糾弾すします。主が求められるのは従う心です。礼拝とは高価なものを捧げることではなく、「あなたに従います」との誓いを新たにすることです。神の処罰を処罰として受け止める、それが悔い改めです。そのためには、痛みを味わうことが必要です。

・エレミヤは愛国者として預言の成就=国の滅亡を望みません。しかし預言が成就しない時、人はますますエレミヤの言葉を聞かない。初期にはエレミヤの預言通りのことが起こらなかったため、エレミヤは苦境に追い込まれ、預言の中断に追い込まれます。預言者が最初に痛みを知るのです。「主はこう言われる『見よ、一つの民が北の国から来る。大いなる国が地の果てから奮い立って来る。弓と投げ槍を取り、残酷で、容赦しない。海のとどろくような声をあげ、馬を駆り、戦いに備えて武装している。娘シオンよ、あなたに向かって』。我々はその知らせを聞き、手の力は抜けた。苦しみに捕らえられ、我々は産婦のようにもだえる」(6:22-24)。

・最終的な滅亡は紀元前587年に起きました。その時の様子が哀歌に詳しくあります。イスラエルの受けた裁きはバビロニア軍の侵攻、首都エルサレムの陥落、王国滅亡、民の離散として、目の前の現実となりました。町は焼かれ、民は殺され、国の指導者たちは敵の都バビロンに捕虜として連れて行かれました。哀歌は歌います「街では老人も子供も地に倒れ伏し、おとめも若者も剣にかかって死にました」(2:21)、「剣に貫かれて死んだ者は、飢えに貫かれた者より幸いだ。刺し貫かれて血を流す方が、畑の実りを失うよりも幸いだ。憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きした」(4:9-10)。戦争の絶望の中に彼らは放置されたのです。哀歌の著者は嘆きます「私は主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者。闇の中に追い立てられ、光なく歩く。その私を、御手がさまざまに責め続ける。私の皮膚を打ち、肉を打ち、骨をことごとく砕く」(3:1-4)。この光景は2500年前のエルサレムを歌っていますが、ガザの人々には現在の後継でもあることを銘記すべきです。

・しかしその滅亡の中から再生の希望が生まれます。主は約束されます「まことに、主はこう言われる。『大地はすべて荒れ果てる。しかし、私は滅ぼし尽くしはしない』」(4:27)。世の多くの人はこの世的な生き方に染まり、自己の利益追求に走ります。しかし少数の者は神を信じ、信仰者にふさわしい行為を行います。パウロは語ります「エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、私だけが残りましたが、彼らは私の命をねらっています。」しかし、神は彼に何と告げているか。「私は、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」。(ローマ11:2-5)。私たちはその残りの者、神の国のために働く者なのです。エレミヤ書は私たちにそう教えます。

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