1.ヨセフと兄弟たちの再会
・創世記を読んできましたが、今日は創世記45章です。創世記は12章からイスラエル民族の歴史を記していました。父祖アブラハムが神の選びを受けて約束の地に旅立ち、その祝福が子のイサク、孫のヤコブに受け継がれていきます。そのヤコブの時代に大飢饉が起こり、ヤコブは12人の息子たちと共にエジプトに移住します。創世記はヤコブと息子たちがエジプトに下ったところで終わり、そこから出エジプト記の記述が始まります。創世記と出エジプト記は連続した物語であり、その橋渡しをする人物が今日読みますヨセフです。今日は創世記42章から45章までの物語を読みながら、そこにある救済のメッセージを学んでいきたいと思います。
・ヨセフはヤコブの11番目の息子でしたが、愛する妻ラケルの息子ということでヤコブから特別扱いを受け、そのために兄弟たちの憎しみを受けて、エジプトに奴隷として売られていきます。しかし神が共におられたので、やがて侍従長の家の執事となり、その後無実の罪により投獄されますが、獄中でエジプト王の給仕役の夢を解いたことから、エジプト王が不思議な夢をみた時、宮廷に呼び出され、運命が一転します。エジプト王の見た夢は「7頭のやせた牛が肥えた7頭の牛を食い尽くし、しおれた7つの穂が肥えた7つの穂を呑み込んだ」というものでした。ヨセフは夢解きをして、「エジプト全土に七年の大豊作があり、その後七年の飢饉が起り、その飢饉は国を滅ぼします。だから飢饉に備えて十分な準備をしないと国が滅びます」と提言し、その提言がエジプト王の心を動かし、ヨセフは大臣に登用され、政策が実行に移されます。
・預言通り7年の豊作があり、その後に大飢饉が起きますが、エジプトはヨセフの政策によって食料備蓄が進んでいたため飢饉を乗り越えることが出来ました。しかし飢饉は世界各地に及び、食糧を求めて各地の人々がエジプトに下ってきます。その中にヨセフの兄弟たちもいました。彼らもエジプトの食糧を買う以外に生き残る道がない所まで追い詰められていたのです。彼ら10人がエジプトに下ってきて、エジプトで食糧管理をしているヨセフと再会することになります。ヨセフがエジプトに売られてから20年以上の時が経っていました。ヨセフは兄たちと会った時、一目で分かりましたが、兄たちはヨセフが死んだものと思っていますので、分かりません。ヨセフはその兄たちを試す行為をします。ヨセフにとって最大の関心は母を同じくする弟ベニヤミンが健在であるかを知ることです。また20年前に自分を殺そうとした兄たちがヨセフを奴隷に売ったことをどう思っているかを知ることです。彼は兄たちに言います「お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たにちがいない」(42:9)。
・兄たちは必死に抗弁しますがヨセフは聞きません。彼はここにいない弟ベニヤミンをエジプトに呼び寄せるために一計を謀ります「お前たちが本当に正直な人間だというのなら、兄弟のうち一人だけを牢獄に監禁するから、ほかの者は皆、飢えているお前たちの家族のために穀物を持って帰り、末の弟をここへ連れて来い。そうして、お前たちの言い分が確かめられたら、殺されはしない」(42:19-20)。ヨセフは兄弟の一人シメオンを人質に取って、他の兄弟たちを解放します。カナンに帰った兄弟たちは父ヤコブに全てを報告します。ヤコブは末息子を連れてエジプトに戻らなければシメオンは解放されないことを聞き、子供たちを呪いますが、大事な末息子ベニヤミンを連れてエジプトに戻ることは拒絶します。
・飢饉は激しくなり、買い求めた食料もなくなり、ヤコブの息子たちは再度エジプトに行くことになります。しかし、エジプトに行くためには末子のベニヤミンを連れて行かなければなりません。ユダは渋る父に「ベニヤミンを命にかけて守るから一緒に行かせて欲しい」との説得を始め、ヤコブも折れます。兄弟たちはエジプトに行きました。ヨセフは母を同じくする弟のベニヤミンと20年ぶりに会い、感極まって密かに泣きます。捕えられていたシメオンも解放され、兄弟たちはヨセフと食卓につきます。
・しかしヨセフは兄たちを試し続けます。ヨセフは彼らをカナンに戻す時、ベニヤミンの袋に銀の杯を忍ばせ、兄弟たちがまだ遠くに行かない内に追手を差し向け、お前たちの中に銀の杯を盗んだものがいると追求させます。ベニヤミンの袋の中から銀の杯が見つかり、兄弟たちはヨセフの前に謝罪しますが、ヨセフは許さず、ベニヤミンを置いていけと命じます。兄弟たちがかつてヨセフを捨てたように、今回もベニヤミンを捨てて自分たちの安全を図ろうとするかを見るための試みでした。するとユダが「ベニヤミンの代わりに自分を奴隷にして欲しい」と弟の助命を訴えます。彼は言います「今、私が、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう・・・何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうして私は父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません」(44:30-34)。
・このユダはかってヨセフを奴隷として売ってしまおうと提案した張本人でした(37:26)。そのユダが今弟ベニヤミンの助命のために自分の命を捨てようとしています。人間の本質は自己中心であり、自分の事しか考えることが出来ません。しかしその人間の中にも、自分は犠牲になっても良いから他者を助けようとする気持ちもあります。それをさせるのは愛の力です。ヨセフはユダの言葉の中に家族への愛を見て、我慢できず、自分の身の上を明かします。こうして今日の聖書箇所45章が始まります。
2.神の摂理を信じる
・ヨセフは兄弟たちが20年前と異なり、他者を思いやる者になったことを知って、彼らを赦し、自分がヨセフであることを告白します。「ヨセフは、兄弟たちに言った『私はヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか』。兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった」(45:3)。ヨセフは言葉を繋ぎます「私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです」(45:4-5)。この言葉の中にヨセフ物語の中核があります。
・ヨセフの兄弟たちはヨセフを憎み、殺そうとし、奴隷として売りました。その結果、彼はエジプトに連れて来られました。そのエジプトでは、主人の妻が彼を無実の罪でヨセフを訴え、彼を囚人としました。しかしそのことにより、王の給仕役と知りあうことが出来、給仕役の推薦でエジプト王に出会い、行政の長にまでなりました。それはすべて、今ここにいる兄弟たちを飢餓から救い、エジプトで養うためであったことが彼の目に明らかに見えてきたのです。自分が今ここにいるのは「命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになった」のだということがわかってきた。これこそヨセフが到達した信仰の深み、摂理の信仰です。摂理を信じるというのは、神が、自分の人生の歩みとそこに起る全てのことを、御心をもって導いておられる事実に気づくことです。「自分が生きているのではなく、生かされている」ことに気づいたヨセフは、もう兄弟たちを咎めようとはしません。
・人はパンを食べて生きます。食糧がなければ生きて行くことはできない。だからヨセフの兄弟たちは食糧を求めてエジプトに来ました。しかしまた「人はパンだけで生きるものではない」。神の口から出る一つの決定的な言葉、赦しによって生きます。赦しこそが人を本当の意味で人を生かす生命のパンです。その生命のパンがヨセフを通じて与えられます。ヨセフは言います「この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。 私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」(45:6-7)。そしてヨセフは父ヤコブも他の者たちもこのエジプトに来て共に食べ、共に住むことを勧め、このようにしてイスラエル民族がエジプトに定住する様になります。
3.悪を善に変える力をお持ちの方を信じていく
・今日の招詞に創世記50:19-20を選びました。次のような言葉です「ヨセフは兄たちに言った『恐れることはありません。私が神に代わることができましょうか。あなたがたは私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです』」。イスラエル民族がエジプトに来たのは、紀元前17世紀のヒクソス(ギリシャ語=異国の地の支配者)王朝の頃と思われています。異邦人王朝だったからこそ、異邦人のヨセフを取り立て、その家族の定住も許しました。ヤコブは子供たちに囲まれ、祝福の内に死んでいきました。兄弟たちは父ヤコブが死んだ後、ヨセフが自分たちに復讐するのではないかと恐れ、ヨセフの前に出て赦しを請います。その兄弟たちに語られた言葉が今日の招詞の言葉です
・「あなたがたは私に悪をたくらみました。あなた方は私を奴隷として売りました」、しかし「神はそれを善に変えられました。だから私は今ここにいます」。「神がそうされたことを知った以上、あなたたちに報復するという悪を私が出来ましょうか」とヨセフは言ったのです。ヨセフは神の導きを信じるゆえに兄弟たちを赦しました。そのことによってイスラエル民族はエジプトに住み、そこで増え、やがて一つの国民を形成するまでになりました。もし、ヨセフが神を信じず、感情のままに兄弟たちに報復していたならば、イスラエル民族は消滅していたでしょう。悪を行うのは人間です。しかし、その悪の中にも神の導きがあることを信じる時、その悪は善に変わるのです。
・北森嘉蔵は「創世記講話」という本の中で面白いことを言っています。「人間社会には一元論と二元論がある。一元論とは世の中は一つのもので締めくくられているという考え方です。神がおられるならば神に敵するものはないはずだし、神が世を支配している限りこの世に悪はない。あってもすぐに滅ぼされる。信じれば必ず幸福になるし、信じれば災いに会うこともなくなる、このような建前の信仰を聖書は真っ向から否定する。神が居られても悪はある、その現実を見つめる」。「その時に出てくるのが二元論だ。この世には神の支配する光の世界と悪魔の支配する闇の世界があり、両者が戦っている。キリスト教徒は悪に抵抗してこれに勝つ必要がある。しかしこの二元論もまた聖書の教えるところではない」。北森は論を進めます「聖書は人間の罪が悪をもたらすことを明言する。しかしこの悪が神によって善に変えられていく。それが信じるのが聖書の信仰である」(北森嘉蔵「創世記講話」P308-311)。ヨセフ物語が私たちに示しますのはまさにこの摂理の信仰です。
・神学校では毎年、夏期講座を開いています。有る年の夏期講座で、聖学院大学・平山正実先生をお呼びして、「死生学」を学びました。講義の中で、先生は「痛みの意味」について言われました。「人は死や病を喜んで受入れる事が出来ない。出来れば避けたいと思う。それを人に受容させるものが痛みである。痛みは人間存在への危険信号である。人が生まれる時、母親は陣痛の苦しみの中で子を生む。子は痛みの中で泣いて生まれる。しかし、医学の進歩はこの痛みを人生から排除した。帝王切開すれば痛みなしでの分娩が可能であり、癌の痛みも緩和ケアーで抑えられる。現代人は痛みに鈍感になり、その分、死や病の受容が難しくなっている」。「真理(ギリシャ語アレテイア)は隠れているものを明るみに引き出すことだ。痛みに向き合う、つらくても逃げないことが大事だ。悪性の病気ほど痛みがない。死亡率の高い膵臓癌は痛みがないゆえに、気づいた時は既に治療ができない。ハンセン氏病も痛みがないゆえ、敗血症等を併発して死ぬ。糖尿病は沈黙の病と言われ、無症状のままで多臓器障害を引き起こす。痛みがない、災いがないことほど恐ろしいものはない。気がつかないうちに病が進行する。若い女性がリストカットする時、彼女は自分の存在を確認するため、血を流して痛みを知る。痛みの持つ意味を再確認することが必要だ」。「痛みがないことほど恐ろしいものはない。痛みを受入れる、そこから新しいものが生まれる」と先生は言われました。
・この摂理の信仰で現在の東北大震災を考えた場合、次のようなことになりましょう「人間の欲と傲慢という悪によって、世界有数の地震列島の上に54基もの原子力発電所が建設された。その発電所の一つが地震と津波により被災し、放射能を拡散させ、東北地方に大きな被害をもたらした」。しかしこのことを通して、「人々は人間の力では制御することができない原子力発電が本当に必要なのかと考え始め、原子力ではないエネルギーの開発をすべきだ」と思い始めています。これは人間の悪が神により善なるものに変えられつつある一つの証しなのではないか。一切の人間の行為の背後に神の御手が働いている、ヨセフが信じた真理を私たちも信じていきます。その時、私たちも変わり、世も変わって行くのです。