江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年6月9日説教(第二コリント2:14-3:3、キリストの香り)

投稿日:2024年6月8日 更新日:

 

1.キリストの香り

 

・私たちは第二コリント書2章後半から3章前半の部分を今日、読んでいきます。コリント教会はパウロが設立し、育ててきた教会でしたが、エルサレム教会の推薦状を携えた伝道者たちが現れ、パウロの説いた福音とは「異なる福音」を説いたため、教会の人々の信仰は動揺していました。具体的には、エルサレム教会からの伝道者たちは「キリスト者も割礼を受け、律法を守らなければ救われない」として、パウロの説く「人が救われるのは神の恵みのみであり、割礼を受け、律法を守ることによってではない」という福音を否定しました。そしてパウロは「エルサレム教会からの推薦状を持たないから使徒ではない」と非難しました。それに対してパウロは弁明の手紙を書き、それが2章14節から始まる部分です。彼は書きます「神に感謝します。神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私たちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、私たちはキリストによって神に献げられる良い香りです」(2:14-15)。

・パウロのイメージしているのは、ローマ軍の凱旋行進です。ローマは世界各地を征服し、勝利を得た軍隊は首都ローマで皇帝と大群衆の前に凱旋行進をして、その勝利を祝いました。行進の最初には征服地から奪った宝物が運ばれていきます。次に捕らえられた敵の王族や将軍たちが鎖に繋がれて歩かされます。彼らは行進が終われば投獄され、処刑されます。次に音楽を奏でる者たちが続き、さらに芳しい香りを放つ香炉を振りながら祭司たちの一団が通ります。そして最後に馬に引かせた戦車に乗る将軍が、将校たちや兵士たちを従えて行進します。

・祭司たちが振りまく香は、将軍と兵士たちには喜びと勝利と生命の香りであり、他方戦争捕虜たちにとっては死の香りでした。だからパウロは書きます「(それは)滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」(2:16)。パウロは「福音の香りも同じであり、受け容れる者には命の香りとなり、拒否する者には死の香りとなる」と語るのです。パウロは先にも語っています「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(第一コリント1:18)。福音はそれを聞く者に「根本的に生き方を変えるのか、それとも今まで通り生きるのか」の選択を迫ります。そしてコリントの人々はその生き方を変えた。だから私たちはあなた方に対して、「キリストの香り」という役割を果たしたのだとパウロは語っているのです。

・コリントに信仰者の群れが生まれました。それこそがキリストの働きなのであり、あなた方はこのキリストの働きの「生きたしるし」なのだと彼は語ります。「全てのキリスト者は、好むと好まざるとにかかわらず、「キリストの香り」であり、「キリストの手紙」なのだ。世の人はキリスト者の生き方を通して、キリストを、そして神がどなたであるかを知るのだ」と。宗教社会学者のロバート・ベラーは、その著「善い社会」の中で、アメリカ・メソジスト教会の一人の牧師の言葉を紹介しています。「ヘブライ人への手紙の著者が誰であるかはどうでも良い。それは死んだ神学だ。生きた神学はこの書が私の人生にどのような意味を持つのかを教える。ヘブル13章5節は語る「主は『私は、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました」。16歳の娘の麻薬が発覚した時、この言葉はどのように私を導くのか。会社が買収されて24年間勤務した職場を去らなければいけない時、この言葉の意味は何なのか、それが問題なのである」(「善い社会」、p207-208)。

・人生の危機に直面した時、キリストの言葉が本当に私たちを苦難から立ち上がらせる力があるのか、そのような体験的神学の学びを通して、私たちは訓練され、聖書が「生きて働く」福音になっていきます。その時、まさに「文字は殺し、霊は生かす」というパウロの言葉の意味が、理解出来るようになります。

ロバート・ベラーは「善い社会」の中で続けます「宗教共同体(教会)はまた、私たちが究極的な問題と取り組むのを助けてくれる。すなわち、費用便益計算(利害損得)以上のもの、欲望以上のものに基づいて生きるための道を探ることである」(同p228)。

 

2.キリストの手紙

 

・パウロは次の17節から言葉を変えて、コリント教会を混乱させている伝道者たちを批判します。「私たちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。私たちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、私たちに必要なのでしょうか」(2:17-3:1)。エルサレム教会の推薦状を持った教師たちがコリントに来て、異なる福音、律法による救いを唱え、教会を混乱させていました。彼らはエルサレム教会の使徒たちからの推薦状を携え、「この推薦状が示す通り、自分たちこそ正当な福音を伝える使者」であり、他方「パウロは何の推薦状も持っていない」から偽使徒だと攻撃しました。それに対して、パウロは語ります「彼らは神の言葉を売り物にしている商売人に過ぎない」と。「神の言葉を語ると称して報酬を得ているだけの存在が、エルサレム教会からの推薦状を持っていても何の価値があるのか」と。

・パウロは語ります「本当の推薦状は人からのものではなく、神からいただいた推薦状であり、それはあなたがたなのだ」と。「私たちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています」(3:2)。牧会者にとって、その伝道から生まれた信徒こそ、神からの推薦状です。パウロは「あなた方は私たちの伝道によって、それまでの異教礼拝を止め、イエス・キリストを救い主として受け入れた。あなた方が変えられた、その事こそが私たちに与えられた推薦状だ」と語るのです。彼は次に驚くべきことを語ります「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(3:3)。コリントに信仰者の群れが生まれた、それこそがキリストの働きなのであり、あなた方はこのキリストの働きの「生きたしるし」なのだと彼は語るのです。この二つの事柄は、私たちに次のことを示します。つまり、「全てのキリスト者は、好むと好まざるとにかかわらず、キリストの香りであり、キリストの手紙なのだ。世の人はキリスト者の生き方を通して、キリストを、そして神がどなたであるかを知るのだ」と。

・オランダの神学者ヘンドリック・クレーマーは1958年ケンブリッジ大学で講演し、その内容を「信徒の神学」として刊行しました。彼は語ります「現在は教職者が教会の管理者・代弁者であり、信徒の姿は見えないが、歴史的には信徒が教会形成に重要な役割を果たしてきた。しかし、やがて指導者の教職化・祭司化が始まり、按手を受けて礼典を執行する聖職者と礼典の受領者としての信徒の分離が進行した。宗教改革においても説教と礼典執行については教職委任の方向が残り、教職者が支配的な地位を占め続けた」。「しかし」と彼は続けます「教会は世にあって、世に仕える。その世で働く者こそ信徒であり、教会が世に仕えるためには信徒が不可欠である」。彼は日本に来た時に次のように語りました「日本の伝道は牧師がする直接伝道より、信徒の生活による間接伝道が必要だ。イエスは『あなた方の光を人々の前に輝かせ』と言われた(マタイ5:16)。『自分を愛するように隣人を愛しなさい』と言われた。御言葉を日々実行しなさい。それが伝道である。日本の教会は建物と牧師だけの教会である。信徒は死んでいる。その結果、教会は日本社会の中から浮き上がっている」。皆さんは「キリストの香り」、「キリストの手紙」なのです。日本の伝道が振るわないのは、みなさんが伝道の前線ではなく、後方にいるからではないかと思います。皆さんが伝道の最前線に立った時、日本の教会は確実に変わっていきます。

 

3.土の器に宝を持って

 

・今日の招詞として第二コリント4:7を選びました。次のような言葉です「ところで、私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」。コリント教会と伝道者パウロの間の信頼関係が崩れました。コリントの人々はパウロの行動を見てそれを人間的に判断し、その後ろにおられる神を見なかったからです。同じように、牧師と信徒の間の信頼関係が崩れた時、教会は危機を迎えます。何故なら、教会で御言葉が語られ聞かれるためには、語る者と聞く者との間に信頼関係がなければいけないからです。それは人間的な信頼関係ではなく、「神がこの人を私の牧者として遣わされた」という信頼関係です。牧師そのものの人間性を見れば、その信頼関係は揺らぎます。彼もまた落とせば割れてしまう「土の器」に過ぎないからです。しかしその牧師を神が立たせて下さったと受け入れた時、信頼関係が成立します。説教も同じです。人間が神の言葉を語ることは出来ません。語るのは人間であり、語られる説教もまた人間の言葉です。しかし、その言葉の中に神の言葉を聞きとった時、その説教は神の言葉になります。

・パウロは喜怒哀楽の激しい人で、誤解を生みやすい言行がありました。また彼は雄弁な説教者ではなかったようです(10:10「私のことを、手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらないと言う者たちがいる」)。しかしパウロは全てを捨ててコリント伝道のために尽しました。そして今も教会からの誹謗中傷に耐えながら、涙ながらに手紙を書いています。このパウロを動かしているのは神です。彼は語ります「私は信じた。それで私は語ったと書いてある通り、それと同じ信仰の霊を持っているので、私たちも信じ、それだからこそ語ってもいます」(4:13)。

・私たちもパウロと同じ「信仰という宝物」を神からいただきました。それを入れている容器である私たちは、落とせば割れる土の器ですが、いただいているのは宝物なのです。ですから私たちはキリストの香りになりうるし、キリストの手紙になりうるのです。私たちのそばには、世の不条理に泣いている人たちがいます。人間関係に苦しみ、外に出ることができずに引きこもっている人もいます。私たちはその隣人たちに、キリストの香りを届け、キリストの手紙を配達します。「私もかつては泣いていた。しかしキリストに出会って救われた。あなたは一人ではない。慰め主が共におられる。私たちはその方からの使者として今日来ました」として、訪問する時です。手元には、教会の活動を記したパンフレットがあります。それは単なるパンフレットに過ぎませんが、「救われる者には命から命に至らせる香り」になりうるし、「墨ではなく生ける神の霊によって書きつけられた手紙」にもなりうるものなのです。

・最後にキリストによって変えられた生き方を示す聖フランシスの祈りを祈ります「神よ、私をあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところに赦しを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらす者としてください。慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、愛されるよりは愛することを、私が求めますように。私たちは、与えるから受け、赦すから赦され、自分を捨てて死に、永遠の命をいただくのですから」。

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