江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年6月23日説教(第二コリント9:6-15、恵みとしての献金)

投稿日:2024年6月22日 更新日:

 

1.エルサレム教会への献金問題

 

・第二コリント書を読み続けています。本日読みます9章は8章から続いて、「献金」の問題を取り上げています。パウロは異邦人伝道を熱心に行い、コリントやテサロニケに教会を設立してきました。やがてそれら異邦人教会が母国のエルサレム教会を上回るほどの大きな群れに育って行きます。しかし、それと同時に、異邦人教会とエルサレム教会との亀裂が目立ってきました。信仰の形が違うのです。エルサレム教会は保守的で、いまだユダヤ教の影響下にありました。他方、コリントを始めとする異邦人教会は革新的で、かつ裕福でした。パウロは両教会の和解を勧めるために、異邦人教会に呼びかけて、財政的に逼迫しているエルサレム教会への支援のための献金を進めていました。献金の過程では様々な混乱が起こりました。コリント教会では「なぜ私たちが見ず知らずのエルサレム教会を支援しなければいけないのか、そんな余裕はない」という反発が強く、人々は献金に消極的でした。

・パウロはコリント教会での献金の業を進めるためにテトスと同行者をコリントへ派遣します「彼(テトス)は私たちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。私たちは一人の兄弟を同伴させます・・・主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すように私たちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした」(8:16-19)。複数者を送るのは献金運動についての誤解を解くためでした。コリント教会の中には「パウロは献金をくすねているのではないか」との批判もあったようです。パウロは語ります「私たちは、自分が奉仕している、この惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。私たちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています」(8:20-21)。教会がお金を扱う時にはこのような慎重さが求められます。私たちの教会でも毎月始の第一主日に前月の会計報告を提出し、どれだけの献金があり、それをどのように用いたのかを、1円単位で報告しています。献金には公平性と透明性が必要だからです。

・9章は6節から本論に入ります。パウロは「惜しみなく捧げなさい。捧げることは捧げる者の益になるのです」と勧めます。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めた通りにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(9:6-7)。パウロは献金を種蒔きに喩えます。「豊かに播く者は豊かに収穫する」、蒔いた種は発芽し、成長し、多くの実を結びます。しかし蒔かない種からは収穫はありません。献金を通して「関係の改善」が始まるのです。彼は続けます「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」(9:8)。「献金できるということは、たくさん与えられたことだ。その恵みをお返しするのが献金ではないか」とパウロは語ります。

・パウロは後にエルサレム教会へ献金を届ける旅に出ますが、ローマ人への手紙の中で次のように述べています「しかし今は(ローマのあなた方の所ヘは行かず)、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」(ローマ15:25-27)。福音はエルサレムから始まった。私たちはエルサレム教会から「霊的なものにあずかったのだから、肉のもので(献金を通して)彼らを助ける」のだパウロは語ります。

 

2.恵みとしての献金

 

・献金は誰に捧げるのでしょうか。神は献げ物を必要とはされません。しかし、必要とする人たちがいます。私たちの献げ物を用いて、神は私たちの隣人を養われます。今は困窮しているエルサレムの人々を支援するために私たちは捧げる。「神を愛するとは隣人を愛する」ことだ(ルカ10:27-28)。パウロは語ります「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」(9:10)。「あなたに種を与え、それを豊かに実らせ、食べるパンを与えて下さったのは神ではないか。その神からいただいたものを隣人に捧げた時、捧げ物が神の栄光となり、人々は神をほめたたえるようになる」とパウロは語ります。「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、私たちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです」(9:11-12)。

・パウロの願いは、献金の交わりを通して、エルサレム教会と異邦人教会の間の誤解が解け、共に神を讃美するようになることです。パウロは語ります「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです」(9:13-14)。そしてパウロは最後に締めくくります「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」(9:15)。パウロはここで献金を「贈り物」と表現します。ギリシャ語エウロギア、祝福という意味です。「神が私たちを祝福して下さったので、私たちも他者を祝福する事ができる。その祝福の行為こそ、贈り物としての献金なのだ」とパウロは語ります。お金に心を込める時、そのお金は祝福に変わっていくのです。献金は単なる経済行為ではなく、信仰の行為なのです。

・第二コリントを注解したアーネスト・ベストは語ります「もしコリントのキリスト者がエルサレムのキリスト者について心配をしないのならば、コリントにはもはや教会は存在しなくなる。共に集まって礼拝する集団は存在し続けるかもしれないが、そこにはキリストはいない」。彼は続けます「捧げ物の最終基準は捧げた後にどれだけ残るかという計算の結果によるものではない。唯一の基準はキリストの愛である」(アーネスト・ベスト「現代聖書注解・第二コリント」)。献金とはキリストの恵みに対する応答なのです。

 

3.私を試してみよと言われる神

 

・今日の招詞としてマラキ3:10を選びました。次のような言葉です。「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、私の家に食物があるようにせよ。これによって、私を試してみよと万軍の主は言われる。必ず、私はあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」。マラキは語ります「神はあなた方が貧しいことは知っておられる。しかしその貧しさの中で収穫の十分の一を捧げてみよ、そのことを通して、あなた方が神に生かされていることが明らかにされるであろう」と。マラキは続けます「私はあなたたちのために、食い荒らすいなごを滅ぼして、あなたたちの土地の作物が荒らされず、畑のぶどうが不作とならぬようにすると万軍の主は言われる。諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。あなたたちが喜びの国となるからだと万軍の主は言われる」(マラキ3:11-12)。献金には祝福が伴うのです。

・曽野綾子「心に残るパウロの言葉」の中に、「神様、ケチケチしないで」という一文があります。曽野さんの知り合いの男性はボランティア活動に熱心で、時々まとまった額のお金も捧げていたそうですが、ある時に彼女に語ったそうです。「面白いことに余分に出すと、その分くらい信じられないほどの儲けがある。神様が埋め合わせをしてくださるのかと思う。それである時、思い切って神様に言って見たのです“出した分の埋め合わせなど、そんなケチケチしたことをしないで、もっとガバっと儲けさせて下さい”。ところが面白いもので、決してそうはならない。あくまでもその分くらい埋め合わせをして下さる」。教会の会計を担当された方は良く知っておられますが、「必要な分は与えられますが、必要以上のものは与えられない」という事実があります。ですから教会会計は足らない時はないが、余ることもない。

ある人は教会会計を「恵みの会計」と言われます。

・ギリシャ語の献金には「ロゲイア」という言葉と「カリス」という言葉の二つがあります。ロゲイアの語源はロゲオー=集める、集金する、です。現代語では「教会維持献金」になるでしょう。教会が成立すると、その維持経費が必要となり、教会はそれを月約献金、建築献金として、教会員の方々に拠出をお願いします。大事な献金です。しかし、パウロがここで用いている言葉はカリス=恵み、恩恵です。「恵みとして捧げもの」です。「エルサレム教会への献金は、自分の教会には直接的な恩恵をもたらさないが、神の宣教の業に参加する恵みの出来事なのだ」とパウロは語ります。諸教会に捧げるために用いられる協力伝道献金はもちろんこのカリスになりますし、私たちが神学校週間や世界祈祷を記念して献金を捧げる行為もカリス=恵の業としての献金になります。

・私たちは自分たちの教会を支えるためのロゲイア的献金は熱心に捧げますが、直接の見返りのないカリス的献金を捧げることには躊躇します。その意味ではコリント教会のエルサレム教会への献金に対する消極姿勢も理解できます。エルサレム教会はキリスト教発祥の地であり、パウロやペテロの母教会かもしれませんが、教会員の多くは、行ったこともない教会です。なぜそのような教会のために自分たちが身銭を切るのか、余裕があるわけではないという反発し、それがパウロに対する不信として表に出たものです。

・今日、貧困や格差拡大が世界的な現象になっています。この問題は、私たちの献金で解決できるわけではありません。そのためには社会の構造転換が必要です。同時にその中で、私たちが出来ることを行っていくことは大事です。だから私たちの教会では、毎月の献金をフードバンクや聖書協会、ペシャワール会、海外医療協力会、ギデオン協会等に捧げることによって社会の構造転換に関わっていくのです。それは小さな行為ですが、献金を通して資産・所得の正義への再配分行為に参加していきます。献金は神からの贈り物であり、私たちが献金できるように恵んで下さったのは神であり、献金を通して私たちは隣人を愛していくのです。「福音がどんなに高等な理論として説かれても、実際の生活に生きてこなければ福音ではない」(榎本保郎・新約聖書p338)、私たちは「献金を通して隣人を愛せという教えを具体化していく」のです。そのことを覚えたいと思います。

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