江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年3月3日説教(ヨハネ15:1-17、イエスにつながり続ける)

投稿日:2024年3月2日 更新日:

 

1.今も生きておられるイエス

 

・ヨハネ福音書を読み続けています。ヨハネは13章からイエスが最後の晩餐の席上で言われた言葉を記録します。13章にはイエスが弟子たちの足を洗われた記事が、14章にはイエスがいなくなった後聖霊が与えられ、その聖霊が弟子たちを守ることが約束されます。14章の最後には「さあ、立て。ここから出かけよう」(14:31)というイエスの言葉が記録され、それは18章につながります「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた」(18:1)。14章は18章に連続しており、15~17章の3章は後代の福音書編集者の挿入部分と推測されます。ヨハネ福音書の編集者は、何故あえてこれら三つの章を福音書に挿入したのでしょうか。

・ヨハネ福音書が書かれたのは紀元90年ごろと推測されていますが、当時の教会はユダヤ教からの迫害の中にありました。紀元66年ユダヤはローマへ反乱を起こしますが、ローマの圧倒的な軍事力の前にユダヤは敗北し、紀元70年には、ローマ軍はエルサレムを占領し、神殿を破壊し、以降エルサレムへのユダヤ人の立ち入りは禁止されました。ここにユダヤは国家としては滅び、エルサレム神殿を中心とした祭儀宗教であったユダヤ教は、壊滅的な打撃を受けます。その後、ユダヤ教はファリサイ派を中心とした律法宗教に軸足を移していきます(ヤムニヤ体制)。ユダヤ教指導者たちは、民の律法違反が亡国の悲運を招いたとして、律法の厳格な適用を求め、背教者や異端者を会堂から追放する事を決定し、キリスト教徒は異端として迫害を受けるようになったのです。ヨハネ16章2節はその事情を反映しています「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」。キリスト教徒は捕らえられ社会から排斥される時代が始まり、この迫害の中で、ヨハネの教会から多くの信徒が脱落して行きました。それに危機感を抱いた編集者が福音書の中に15~17章を挿入し、教会員を励ましたと考えられます。

・私は50歳の時に、夜間で学んでいた東京バプテスト神学校を卒業し、それを契機に27年間勤めた会社を退職し、東京神学大学に編入学しました。当時、東神大の学長は松永希久夫先生でした。彼はヨハネ文書(ヨハネ福音書、手紙、黙示録等の総称)の研究者として有名で、繰り返し、福音書の二重構造、すなわち福音書はイエスの言葉や行動を記述する単なる伝記ではなく、それぞれの教会の時代背景を基礎にしたメッセージが書き込まれていると強調されていました。教会の信徒へのメッセージという視点でこのヨハネ15章を読むと、迫害の中での信仰という新しい局面が見えてきます。
・動揺する信徒たちに、福音書編集者はイエスの言葉を伝えます。それが15章から始まる言葉です。「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっていながら実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」(15:1)。「私はまことのぶどうの木」、この言葉は「まことではない、偽りのぶどうの木」があることを前提にします。「迫害の中で、キリストの教会から離れてユダヤ教徒に戻る、それは命の源であるキリストから離れて、偽りのぶどうの木につながることなのだ。ぶどうの枝が木から離れれば枯れて死ぬように、あなた方もキリストから離れたら死んでしまう。だから離れるな」と編集者は叫んでいます。果樹の栽培においては剪定が不可欠であり、実を結ばない枝は切り落とされます。ユダヤ教からの迫害は父なる神がなされる剪定作業なのであり、その剪定を通して、御霊の実を結ぶのに妨げになる世の思い煩いが削がれ、より豊かな実を結ぶようになると福音書は語ります。

・ヨハネの教会では、ユダヤ教から異端宣告を受けて以降、人々が次々に脱落していきました。本当にイエスに結びついていなかったからです。しかし危機に直面してもなおイエスをキリストと告白し、神を信じる者は、「豊かな実を結ぶ」(15:2)とヨハネは言います。だからつながり続けなさいと命令されます。この「つながる」という言葉は、ギリシャ語の「メノー」です。ヨハネ15章1-10節の短い文章の中に、11回も用いられています。イエスが父につながることによって父と一体であるように、弟子たちもイエスにつながって一体性を保ち続けることによって、信仰の実を結んでいく。人はイエスから離れた時、命と力の源泉であるぶどうの木から離れ、離れた者は「枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(15:6)とヨハネは警告します。

 

2.「互いに愛しあいなさい」と言わざるを得ない状況下での福音

 

・イエスは言われます「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた。私の愛に留まりなさい。私が父の掟を守り、その愛に留まっているように、あなたがたも、私の掟を守るなら、私の愛に留まっていることになる」(15:9-10)。ここの「留まる」という言葉も、ギリシャ語「メノー」です。「私の愛に留まりなさい」、「私につながっていなさい」というメッセージがここでも響いています。そしてイエスは言われました「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」(15:12)。

・迫害の中で教会のある者たちは脱落していきました。次は誰が脱落するのか、教会の中に疑心暗鬼の状況が生まれていました。だから福音書編集者は「互いに愛し合いなさい。あなたがたは主にある兄弟姉妹ではないか」と言わざるを得なかったのです。そして、「互いに愛し合う愛」の根拠はイエスが私たちに示された愛です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)。「友のために自分の命を捨てる」、イエスは私たちのために十字架で死んで下さった、そして復活された。私たちは復活のイエスに出会って、この人こそ「神の子」であることを知った、だからこの教会に集められた。私たちはキリストの愛の中にいる。「仲間を疑うのではなく、愛し合おう」とヨハネは言っているのです。

・私たちが愛という時、その愛は通常はエロス、恋愛を指します。しかし、ここに言われている愛がそのような愛ではないことは明らかです。愛を意味するギリシャ語には、エロス(男女の愛)、フィリア(友愛)、アガペーの三つがあります。エロスとフィリアは、感情的な愛であり、基本は好き嫌いです。人間の本性に基づくゆえに、その愛はいつか破綻します。だから私たちはアガペーの愛を知ることが必要です。このアガペーは私たちの中には元々ない愛です。それはイエスの十字架を通して与えられた愛だとヨハネは言います。「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました」(第一ヨハネ3:16)。この愛です。この愛を私たちは神からいただいるのです。

・この愛を知った私たちを、イエスは「友」と呼んでくださいます。「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。もはや、私はあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(15:14-15)。弟子たちはやがてイエスを裏切り、十字架の現場から逃げ去り、復活の朝には部屋に鍵をかけて閉じこもっていました。その弟子たちをイエスは友と呼ばれます。復活の日の夕べ、イエスは弟子たちの前に現れ、「あなたがたに平安があるように」と祝福されました。この赦しが、愚かで弱い弟子たちを新しい命に生きる者に変えていきます。

 

3.愛し合いなさい

 

・今日の招詞として、ヨハネ16:33を選びました。次のような言葉です「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。平和とは悩みのないことではありません。悩みの中でも満たされていることが平和です。イエスを信じても、不幸や災いがなくなるわけではありません。病気は治らないかも知れないし、悩みは依然として残ります。仲違いが回復できないこともあるでしょう。しかし、キリストを知る人は、悩みによって打撃を受けても、やがて立ち直り、悩みが時間と共に、恵みになる経験をします。何故ならば、十字架の悲しみが、復活の喜びになったことを知っているからです。

・当時も今も、現実の教会の中には、好き嫌いに基づく関係の断絶があります。人間だから仕様がないのでしょうか、しかし、それでは教会になりえない。イエスが教えられた愛はアガペーの愛です。好き嫌いという時の愛はエロスやフィリアの愛ですが、それはやがて壊れます。人間関係のつまずきによってです。それに対して、アガペーの愛は好き嫌いを越えた愛、赦しの愛です。イエスは言われました「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」。この言葉を私たちは言い換えることが出来ます「私があなた方を赦したように、あなた方も互いに赦し合いなさい。これが私の掟である」。「互いに愛し合いなさい」という愛は、赦しの上に立てられています。「愛し合いなさい」とは、「赦し合いなさい」ということなのです。相手を好きになる必要はありません。しかし相手を尊重して行くのです。

・本田哲郎神父は「アガペー」を「愛する」と訳したことに、誤りがあると言い、愛の代わりに「大切にする」という言葉を用います。「敵を愛せ」とイエスは言われましたが、私たちは嫌いな人を愛することはできません。私たちの愛は感情であって、私たちには制御できない。しかし嫌いな人でも「大切にする」ことはできます。それは感情ではなく、意思の問題だからです。本田哲郎はヨハネ13章34節以下を次のように訳します「私はあなたたちに新しい掟を与える。互いに大切にし合いなさい。私があなたたちを大切にしたように、あなたたちも互いに大切にし合いなさい。あなたたちが大切にし合うならば、そのことによってあなたたちが私の弟子であることを、みんなが納得するようになるだろう」(本田哲郎「小さくされたものの福音」)。

・教会の中で対立が起きることもあります。人間だから当然です。本田哲郎が言うように、愛し合うとは仲良くすることではありません。嫌いな人は嫌いなままで、それでも尊重していくことです。それが「イエスに留まる」、「イエスにつながり続ける」ことです。イエスは言われます「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。この言葉こそ、十字架で逃げ去った弟子たちを再び立ち上がらせた言葉であり、今日の私たちを立ち上がらせる力です。弟子になるとは、世の価値観と違う価値観に生きることであり、世と対立することもあります。しかし、その私たちをキリストは励まされます「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。この励ましの声を受けて、私たちは仲違いしている人をも心の中で赦していきます。それがイエスの弟子として生きることです。

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