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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年2月25日説教(ヨハネ12:20-36、一粒の麦として死ぬ)

投稿日:2024年2月24日 更新日:

1.一粒の麦が死ななければ

 

・先週2月14日灰の水曜日から、受難節に入りました。本日与えられた聖書箇所はヨハネ12章です。ヨハネは12章から受難週の最後の一週間の出来事を記していきます。12章の中心となる言葉は、12章24節「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」です。多くの人がこの言葉に感銘を受けました。ドストエフスキーは「カラマーゾクの兄弟」の冒頭にこの言葉を書きます。アンドレ・ジイドは自伝の表題を「一粒の麦」と名付けました。三浦綾子・塩狩峠の主題も「一粒の麦」です。この言葉は本来、イエスが受難を前に、「自分は死ぬが、父はその死を通して豊かな実をお与えになる」という決意を示された言葉です。今日はこの言葉の持つ意味を共に考えたいと思います。

・12章の物語は数人のギリシア人たちがイエスに会いに来るところから始まります。「祭りの時、礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ」(12:20-21)。ユダヤはローマの支配下にあり、多くの異邦人が領内に住んでいました。イエスの弟子フィリポはガリラヤのベトサイダの出身で、ベトサイドの近くにはデカポリス等のギリシア人居住区がありました。イエスの評判を聞いたギリシア人たちが、巡礼のためにエルサレムに来て、イエスの評判を聞き、同郷のフィリポにイエスへの面接を依頼したのでしょう。彼らはイエスという偉大な預言者が現れ、多くの力ある業を行っているとのうわさを聞いて、ぜひ自分たちの故郷に来ていただきたいと依頼をするために来たのでしょう。

・異邦人たちの来訪を受けられたイエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た」(12:23)と言われました。「栄光を受ける」、ご自身が死ぬ時が来たといわれたのです。イエスはこれまでユダヤ人だけに福音を伝えて来られました。神の民であるユダヤ人に救いを伝えることこそが、ご自分の使命だと考えておられました(4:22)。しかし今、神に選ばれたはずのユダヤ人指導者たちはイエスを殺そうと画策し、民衆の気持ちも支持から憎悪に変り始めています。その中で異邦人たちがイエスに道を求めて来ました。そのことにイエスは「時のしるし」をご覧になりました。そのギリシア人に向かってイエスは言われます「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12:24)。

・「私がこれから為すべきことは神の栄光を現すこと、十字架で死ぬことだ。その十字架の死を通して多くの実が生まれる」とイエスは言われたのです。「一粒の麦が死ななければ」、麦を地に蒔けば、その麦は地の中で解けて、形を無くして行きます。そのことによって種から芽が生え、育ち、やがて多くの実を結びます。蒔かずに貯蔵しておけば今は死なないでしょうが、やがて干からび、後には何も残しません。一人のイエスが死なれる事を通して、多くの人が真実の命に生きるようになるという、福音の奥義をイエスは説明されたのです。そしてイエスは言葉を継がれます「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(12:25)。

 

2.命とは何か

 

・ここで「自分の命を愛する」と言われている「命」は、ギリシア語のプシュケー=肉、自然の命です。それに対して、「永遠の命」には、「ゾーエー」という言葉が用いられています。プシュケー=肉の命を第一にするものは、ゾーエー=霊の命を失うと言われています。私たちも「肉の命」を第一にして生きています。自分と家族の幸せを願い、病気や事故にあわず、豊かな老年を迎えることを人生の目標にします。しかし、そのような人生は実は成立しません。自分の満足と幸福だけをひたすらに追い求めている人が、現実には何と多くの悩みを負い、妬みや憎しみに囚われて、惨めな人生を歩むかを私たちは知っています。競争社会においては、全ての人が自己実現の生涯を過ごすことは出来ないからです。競争に負けた人は勝者を恨み、競争に勝った人はやがて新たな競争者に負けます。そこには本当の命、平安はありません。

・聖路加国際病院の理事長だった日野原重明さんは不思議な出来事の中で、このヨハネ12:24「一粒の麦」という言葉に出会っています。彼は語ります「私は1970年、58歳の時に、よど号ハイジャック事件の現場に居合わせました。よく晴れた朝の7時頃、富士山の真上を飛んでいると、日本刀を抜いた若者たちが座席から立ち上がり、『我々日本赤軍はこの飛行機をハイジャックし、北朝鮮の平壌を目指して直行することを命ずる』と叫んだのです。私も含め、122人の乗客と客室乗務員は全員麻縄で手を縛られました。北朝鮮へ向かう途中、赤軍の若者たちは『機内に本をいくつか持ち込んでいるから、読みたい者は手を挙げよ』と言って本のタイトルを読み上げ、その中にドストエスフキーの「カラマーゾフの兄弟」がありました。乗客は誰一人として手を挙げようとしない。そんな中、私一人だけが『カラマーゾフの兄弟を貸して下さい』と手を挙げた。すると文庫本五冊を膝の上に置いてくれました。あぁ、これを読んでおれば、何か月抑留されても、心が支えられると思いました。開いてみると冒頭に聖書の教えの一節が出ていました。『一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし』。私もここで一粒の麦となって死んでしまうかもしれない。けれども私のこれからの振る舞いが、後に続く人たちに何かの結果を及ぼすかもしれない。そういう気持ちを持って心を静かにし、皆のためにできるだけのことをやろうと考えた。私たち乗客は事件から4日目に全員無事、韓国の金浦空港で解放されることになりました。靴底で大地を踏んでその土の音を聞いた時『無事、地上に生還した』と感じました。そして『あぁ、これからの私の人生は与えられたものだ』と思いました」(PRESIDENT 2011年12月5日号から)。日野原さんはこの時に、現在の命(プシュケー)に死んで、新しい命(ゾーエー)を生きる決意をされたのです。「一粒の麦に死ぬ」とは、新しい命(ゾーエとしての命)に生きることです。

 

3.ゾーエーのためにプシュケーを捨てよ

 

・トルストイもまた「プシュケーを捨てゾーエーに生きる」ことを語ります。トルストイの遺書と言われています小説「復活」がそうです。「復活」の主人公のネフリュードフというロシヤ貴族は若い時、情欲の赴くままに、小間使いカチューシャを誘惑し、自分のものにした後、やがて捨ててしまいます。それから10年後、ネフリュードフが陪審員として裁判所に行った時、そのカチューシャが売春婦となり、殺人罪で起訴された事件を担当します。自分が、昔もてあそんだ女性が、妊娠して屋敷を追われ、生まれた子は孤児院で死に、本人は売春婦として殺人容疑で裁かれようとしているのを見て、彼は自分の犯した罪の大きさを知ります。彼はカチューシャの釈放のために、刑務所を訪問する中で、多くの人々が貧しさゆえに罪を犯し、苦しんでいるのを知り、他の受刑者のためにも奔走するようになり、そのことを通して彼の自堕落な生き方が改められていきます。

・トルストイは物語の最後にマタイ福音書21章「ぶどう園の農夫の譬え」を引用し、主人公ネフリュードフに語らせます。「農夫たちは、ぶどう園を借りているのに、いつの間にか、その収穫物はみんな自分たちのものであり、自分たちの仕事は暮らしを楽しむためだと考え、主人である神のことを忘れてしまう」。ネフリュードフは「同じことを我々もしているのだ」と考えます。「我々は自分の生活の主人は自分自身なのだとか、この人生は我々の享楽のために与えられているのだとか、愚にもつかない確信を抱いて生きている。そんなことは明らかにばかげている。我々がここに送られてきたのは誰かの意思であり、何かの目的があってのことではないか。我々はただ自分の喜びのために生きているのだと決め込んでいるが、主人の意思を実行しなかった農夫と同じように、我々もひどい目にあうだろう。神なる主人の意思に人々が従い始めた時、この地上に神の王国が樹立され、人々は到達しえる限りの最大の幸福を手に入れることになるのだ」と彼は悟ります。これが、肉の命(プシュケー)に死に、霊の命(ゾーエー)に生きる生き方です。

・今日の招詞にマタイ21:42を選びました。次のような言葉です「イエスは言われた。『聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える』」。ぶどう園の農夫の譬えの後に、イエスが言われた言葉です。私たちは、「自分の力で生きているのか、それとも神により生かされているのか」、どちらを信じるかで生き方は変わってきます。どちらが主人であるかは、どちらが命の決定権を持っているかで決まります。私たちは死ぬことを運命付けられた存在であり、自分の命を左右する力はありません。とすれば、命を与えて下さる方のことを考えるべきです。命ほど大事なものはない。船が難破して海に投げ出された人が、持ち物や荷物を捨てなければ助からないとしたら、その人は命以外のものは惜しげなく捨てるでしょう。私たちも同じ状況にあります。世の命(プシュケー)を手放そうとしないことが、本当の命(ゾーエー)を危険にしている。だからプシュケーを捨てよ、そうすればゾーエーを得る。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」、ユダヤ人が捨てたイエスの十字架の中にこそ、命があるのだと聖書は主張するのです。

・この世の常識に従えば、イエスの受難や十字架を、「栄光」と見ることは出来ないでしょう。この世の「栄光」とは、社会的に成功することです。しかしこの世の栄光を極めたアレクサンダーやナポレオンは最終的には何も残しませんでした。自己の栄光を求める生き方は「一粒の麦」のままの生き方であり、多くの実を結ぶことはないのです。他方、イエスは自らの命を十字架に捧げられました。ナポレオンの遺書がシカゴ大学に保管されているそうです。彼はその中で語ります「今、私はセントヘレナの島に繋がれている。いったい誰が私のために戦って死んでくれるのだろうか。誰が私のことを思ってくれるだろうか。誰が死力を尽くしてくれる者があるだろうか・・・ローマ皇帝カイザルも、アレクサンダー大王も、忘れ去られてしまった。私とて同様である・・・イエス・キリストの永遠の支配と、大ナポレオンと呼ばれた私の間には深くて大きな隔たりがある。キリストは愛され、キリストは礼拝され、キリストの信仰と献身は全世界を包んでいる。これを“死んでしまったキリスト”と誰が呼べるだろうか。イエス・キリストは永遠の生ける神であることの証明である。私ナポレオンは、力の上に帝国を築こうとして失敗した。しかし、イエス・キリストは愛の上に彼の王国を打ち立てている」。イエスの生き方を選ぶのか、ナポレオンの生き方を選ぶのか、「一粒の麦として生きるのか」、それとも「麦であることに死に、新しい命に生きるのか」が今問われています。受難節に十字架を仰ぐとは、自己のために生きるか、神によって生かされるか、そのことを考える時なのです。

 

4.あたらしい命に生きる

 

・「一粒の麦が死ななければ」、麦を種として地に蒔けば、その種は地の中で、壊され、形を無くして行きます。そのことによって芽が生え、育ち、やがて多くの実を結びます。他方、麦を蒔かずに食ベてしまえば、それは一時の食糧にはなりますが、食べればなくなり、後には何も残りません。イエスがユダヤの王として立っても、それは一時的なものに終わりますが、十字架で死ぬ(種となる)ことによって、そこから多くの命が生まれていきます。私たちは「麦として生きるのか」、「種として生きるのか」、どちらを選ぶのかが問われています。

・「麦として生きる」とは、人生の完成を目指して、自己実現のために生きる生き方です。多くの人がその道を選ぶでしょう。しかし、その人生は死んだ後に何も残さない。もう一つの人生は、「麦として死に、種として生きる」人生です。不人気な選択でしょうが、私たちは、この道を選択したい。自分の幸福だけを求め続けても人は幸せになれない。私たちもある時、自分だけのために生きる人生の虚しさに気づきました。本当の幸せ、人生の喜びは、他者との交わりの中から生まれます。「他者との交わりに生きる」とは自己を捨てることです。種が自らを無くし、その事を通して多くの命を生んで行く、そのような生き方です。「イエスが来られた、イエスの言葉が語られた、種は蒔かれた。その種は、成長して、多くの実を結んだ」。私たちも、その実の一つです。私たちが、実のままでいれば、それは一つのままですが、私たちが実である事を放棄し、種になれば、それは30倍、60倍の新しい実を生むのです。種として生きる生き方に私たちは招かれています。

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