1.イエスとピラト
・受難節を迎えています。今年は3月30日(土曜日)に受難日礼拝を、31日(日曜日)に復活日礼拝を持ちます。今日は、受難日を前に、ローマ総督ピラトによるイエスの裁判の記事を読みます。ピラトの行った裁判は後に使徒信条にも書き込まれ(「主は・・・ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に」)、ピラトは稀代の悪人として、教会史に名を残しています。実際には何があったのでしょうか。ヨハネ福音書を読み解いていきます。
・木曜日の深夜、イエスはエルサレム郊外のゲッセマネで捕らえられ、大祭司の屋敷に連行されました。大祭司はイエスを「神を冒涜する者」として死刑を宣告しますが、当時のユダヤはローマの植民地であり、ユダヤ最高会議は死刑執行権を持たなかったため、彼らはイエスをローマ総督官邸に訴えます。金曜日の明け方のことです。総督ピラトは彼らの所に出てきて、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と訊ねます(18:29)。ユダヤ人たちはイエスを、「ローマに対する反逆者」として告発しました。ピラトはイエスがユダヤ人たちの宗教上の争いで捕らえられたことを知っていました。だから言います「お前たちの律法に従って裁け」(18:31)。ユダヤ人たちは反論します「私たちには死刑執行権がありません」(18:31b)。やむなくピラトがイエスを裁くことになりました。
・ピラトがイエスに最初に聞いたのは、「お前はユダヤ人の王なのか」という問いでした(18:33)。イエスが「そうだ」と答えれば、彼はローマ皇帝への反逆者として有罪になります。この後も、ピラトがイエスに繰り返し尋ねるのは、「あなたはユダヤ人の王なのか」の一点だけでした。ピラトの問いに対して、イエスは逆に問われます「あなたは自分の考えでそう言うのか、それとも他の人の考えか」(18:34)。ピラトの考えであれば、彼はイエスをローマに反逆する地上の王と考えているわけであり、イエスはそうではないから、イエスの罪は否定されます。他方、ユダヤ人のいう意味での「王」であれば、それは「メシヤ=救い主」を意味し、イエスはそうですから、これを肯定されます。イエスはピラトに問い返されましたが、ピラトはそのような問題に関心はありません。ローマの行政官として彼の関心は、「イエスがローマ皇帝に反逆しているかどうか」です。だからピラトは訊ねます「あなたは何をしたのか」(18:35)。
・イエスは言われます「私は王である。しかし、私の国はこの世には属していない」(18:36)。イエスは地上の国の王ではありませんが、神の国の王です。神の国は見えないが、存在しています。私たちは、日本というこの世の国に属し、同時に神の国にも属しています。二つの国は秩序を異にしますから、私たちは日本を愛し、日本のために働きながら、同時に神の国を愛し、神の国のために働くことが出来ます。「神のものは神に、カイザルのものはカイザルに」(マルコ12:17)という聖書の言葉はこれを意味します。しかし、二つの国の原理が衝突する時があります。その時、私たちは神の国の住民として、地の国と戦います。
・今、イエスが置かれている状況がそうです。地の国ローマ皇帝の代理人である総督ピラトが、「あなたは王か」と聞けば、イエスは「私は(神の国の)王である」と答えられます。たとえ、その答えが死を招くとしても、イエスは肯定されます。ピラトは確認します「それでは王なのだな」(18:37)。イエスは答えられます「その通り、私は王である」。ヨハネ福音書が書かれた当時、ローマ帝国では皇帝崇拝が進められ、皇帝を「主」と認めない者たちは投獄され、殺されて行きました。その時代の中で、「イエスが主であり、ローマ皇帝は主ではない」と告白する福音書を書いたことは命がけの行為でした。その命がけの行為を今私たちは見ているのです。戦前の日本でも、「天皇もまた人である」として、天皇礼拝を拒否したホーリネスの牧師たちは、捕らえられ、投獄されて行きました。
2.真理で形成される神の国
・イエスは語られます「私は真理について証をするために生まれ、そのために世に来た」(18:37)。イエスは父なる神から遣わされて世に来ました。そして、父なる神がどのような方であるかを語りました。イエスの言われる真理とは父なる神の働きのことです。ローマは武力によってその帝国を拡大していきますが、イエスは真理(神)を証しすることを通して神の国を広げていかれます。ピラトには理解できません。故に彼は尋ねます「真理とは何か」(18:38)。ピラトは、「何が真理か」について関心があるわけではありません。彼の関心は、「誰が支配者であり、誰が力を持っているか」です。
・彼は皇帝から任命された総督として、目はローマを向いています。従って、ここユダヤで本国の不興を買うような面倒を起こしたくない。地元のユダヤ人たちを怒らせるようなことは避けたい。他方、行政官として、彼はイエスが処罰すべき反逆者でないことはわかりました。だから、イエスを釈放しようとします。ピラトは二つの欲求を調和させようと試み、ユダヤ人たちのところへ行き「私はあの男に何の罪も見いだせない。だから釈放しよう」と提案します(18:38b)。しかし、ユダヤ人たちは納得せず「イエスを死刑にしろ」と要求します。彼らはさらにピラトを脅して言います「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いている」(19:12)。ピラトは正義よりも妥協を選び、ユダヤ人の要求するように、バラバを釈放し、イエスに死刑を宣告します。パスカルはパンセの中で語ります「人間は宗教的信念をもってする時ほど、喜び勇んで、徹底的に悪を行うことはない」。十字軍によるユダヤ人の大虐殺や、中世における異端審問のむごさも同じです。そこでは「神の名によって真理がゆがめられる」、誤った宗教的盲信もまた罪なのです。
3.真理とは何か
・今日の招詞にヨハネ8:31-32を選びました。次のような言葉です。「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする』」。ユダヤ教指導者たちは神の真理を知ろうとしませんでした。だから、彼らは、ピラトから「過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」と問いかけられた時(18:39)、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返します(18:40)。バラバは「暴動と殺人のかどで投獄されていた」(ルカ23:19)とありますから、ローマへの抵抗運動の指導者であり、民衆にとっては英雄的存在でした。しかしバラバは暴行の人、流血の人であり、目的のためには手段を選ばない人です。このバラバを選択したことが、ユダヤ亡国の始まりになりました。この後、ユダヤ人たちはローマへの抵抗を強め、終にはローマに対する独立戦争を始め、負けて国は滅びます。紀元70年、イエスの十字架死の40年後です。
・ピラトもまた真理を知らず、関心も示しませんでした。彼は「真理とは何か」と聞きながら、その答えを聞こうともせず、部屋を出て行きます。ヨハネ福音書では真理についての対話は突然途切れますが、聖書外典・ニコデモ福音書(ピラト行伝)第四章には続きがあります。(ピラト)「真理とは何か」、(イエス)「真理は天に属する」。(ピラト)「地上には真理はないのか」、(イエス)「真理を語る者が地上で権力を持っている者により、どのように裁かれているかは貴下の知るところだ」。神の真理であるイエスがこの世の真理であるローマ法により裁かれました。ピラトはイエスが無罪であることを知っていましたが、ユダヤ人の圧力に負けて、正しい決断が出来ません。ピラトはやがて皇帝に疎まれて失脚し、自殺したと伝承は伝えます(エウセビオス「教会史」)。真理を聞こうとしない者は滅びるのです。
・真理こそ、国を造り、社会を造り、私たちの人生を完成させる力です。ローマは軍隊と法律によって、世界を征服し、未曽有の世界帝国を建設しました。しかし、外敵の侵入と内部の堕落により、400年後に滅びました。キリスト教はイエスの死後、弟子たちが真理を証しする伝道を始め、やがて全世界に普及していきます。権力による征服は華々しいが一時的であり、真理による伝道は地味ですが、永続的です。イエスに勝ったかに見えたローマ帝国が、やがてイエスの弟子たちにより滅ぼされていきます。
・国立国会図書館本館2階ホールの壁に、「真理が我らを自由にする」という言葉が刻み込まれています。そこには日本語と共にギリシャ語でヨハネ8章32節の言葉も掲げられています。国会図書館は昭和23年に出来ましたが、創設に関わった羽仁五郎の提唱でこの言葉が掲げられました。戦時中の日本では、思想や学問は政治の統制下にあり、自由な発言や議論はできませんでした。今、戦争が終わり、新しい時代になり、学問の自由が与えられた、「さあ学ぼう、真理が私たちを自由にするのだから」。その意気込みが、言葉の中にあります。それから70年、現代の日本はまた、真理が覆い隠され、自由が抑圧される時代になりつつあります。森友、加計、桜を見る会等々の諸問題があやふやのままに幕引きされ、自民党派閥の裏金問題も真相がわからないままに、幕引きされようとしています。しかし真理はやがて明らかになります。
・今日、多くの人々は、真理に関心を示しません。真理を知っても、収入が増えるわけではないし、出世できるわけではない。逆に真理を知ることによって、この世の悪が見えてきて、生きづらくなります。しかし、歴史が示しますことは、真理は最終的に勝つということです。真理のギリシャ語アレテイアは、動詞形では「隠れていない」「明らかになる」という意味です。長い歴史の中では、真理を軽視したユダヤ教が滅び、ピラトが滅んでいきました。森友問題、加計問題の不正を追及して行った東京新聞記者の望月衣塑子さんは著書「新聞記者」の後書きの中で、彼女がインドの革命家ガンジーの生き方を目標にしていると記述しています。ガンジーは語ります「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって、自分が変えられないようにするためである」。世の風潮に流されずに、信念をもって事にあたれという意味でしょうか。「真理はあなたを自由にする」、大切にかみしめたい言葉です。
4.真理はあなたを自由にする
・「真理はあなたを自由にする」とは、それは私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。それは「キリストの十字架という真理が、人を罪の縄目から解放し、他者を憎まない、他者の悪を数えないという自由人にする」ことではないかと思います。神によって罪が赦された者は、他者を裁かなくなります。真理とは「キリスト」であり、自由とは「キリストにある自由」なのです。宗教改革者ルターは語りました「キリスト者はすべての者の上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者はすべての者に奉仕する僕であって、何人にも従属する」。キリスト者の自由とは他者に仕える自由です。その文脈を離れて、「人間の自由」だけを歌ってもそこには何も良いものは生まれない。
・イエスは言われました「私の言葉に留まるならば、あなたたちは私の弟子である」(8:31)。私たちは、イエスへの信仰を告白しバプテスマを受けました。それによって過去の罪を赦されました。しかし赦されてもなお罪を犯し続けます。イエス時代のユダヤ人たちの一部はイエスの言葉を聞いてイエスを救い主として受け入れました。しかし、彼らが求めた救い主はユダヤの国をローマ帝国の支配から解放する「力の救い主」であり、イエスが苦難の僕として、自ら死ぬことによって救済を志しておられることを知った時、彼らはイエスの反対者になります。人間は信仰を持っても、都合の良い言葉しか聞こうとしない存在です。イエスの言葉に感激して、バプテスマを受けるのは比較的容易だと思います。しかし、試練の中で信仰を持続し、死に至るまでキリストのうちに留まり続けるのは難しいことです。福音の真理は長い信仰生活の実践の中でしか習得できないものです。しかし、イエスに留まり続ける、つながり続ける時、「真理は私たちを自由」にします。だから、私たちは毎週教会に来て、説教を通して、イエスの言葉を聞きます。そして、私たちが、イエスの言葉を毎日の生活の中で実践しようと始めた時に、私たちは少しずつキリストにある自由に近づいていくのです。