江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年2月11日説教(ヨハネ9:1-17、神の業が現れるために)

投稿日:2024年2月10日 更新日:

 

1.生まれつきの盲人の癒し

 

・ヨハネはキリストの降誕について記します「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)。御子は世を救うために来られた、神は御子を通してその思いを示されました。そして御子と出会うことを通して御子を信じる者が起こされ、神の業が継承され、今日に至っております。今日はヨハネ9章の「盲人の癒し」の記事を読みながら、この神の業について考えて見ます。

・ヨハネ9章の物語は、イエスがエルサレム市内を歩いておられた時、道端に、生まれつきの盲人が座って、物乞いをしているのを見られたところから始まります。「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」(9:1)。「生まれつき目の見えない」、その人は盲目という障害を負わされて生まれてきました。ある人は生まれつき健康な体を与えられ、別の人は生まれた時から様々のハンデキャップを負わされて、苦しまなければいけない。何故なのか、人生はこのような不条理で満ちており、人はこの不条理に苦しみます。日本人はこのような不条理に対して、「あきらめ」という知恵を説きます。「あきらめなさい。そのような運命なのだ。仕方がないではないか」。

・弟子たちもこの人の障害を運命ととらえています。彼らはイエスにたずねます「この人が、生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(9:2)。当時の人々は、罪を犯したから、病気や障害になると考えていました。しかしイエスはそのような前世の因縁、運命を否定して、驚くべきことを言われました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(9:3)。「神の業がこの人に現れるために」、肉体的なハンデキャップは神の働きが現れるために与えられたとイエスは理解されたのです。生まれた時から目が見えないという運命に対して、それは呪いでも罪の結果でもなく、彼が盲目で生まれたことには意味があり、目的があることが明らかになるために、とイエスは断言されました。

・人の力ではどうすることも出来ない運命的な苦悩に対して、イエスはその原因を追究することよりも、それを負わされた人がその苦悩を背負って生きることの中に、彼自身の使命があり、また神の御業の現れがあると見られたのです。イエスは言われます「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」(9:4)。この出来事は仮庵の祭りの時でした。十字架の死が迫っている、残された時は少ない、「お遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」。イエスがやがて引き受けられる十字架の死は、イエスにとっていわば避けることの出来ない運命でした。しかしイエスはそれを運命としてではなく、父なる神の御旨として、引き受けられました。ゲッセマネでイエスは祈られます「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。イエスは運命を「使命」として受け取られたのです。

 

2.いやしから救いへ

 

・イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになりました。そして、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来ました。私たちはヨハネ9章の物語を、イエスが目の見えない人を癒した物語、その癒しを通して神の業が現れたのだと考えがちですが、この物語は癒しの物語ではありません。物語はここで終わらず、むしろここから始まります。そこにはファリサイ人がいました。彼らは、盲人が癒されたことよりも、その日が安息日であることを問題にして、イエスを批判します「その人(イエス)は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」(9:16)。

・盲人が癒されたことを喜ぶよりも、安息日を守らないことに怒る人々がここにいます。ファリサイ人たちは、生まれつき盲の人が、見えるようになったという事実を否定することも出来ません。しかしまたイエスが神から来たことも信じることが出来ません。ファリサイ人たちは目を癒された男に、「イエスの罪を認めよ」と迫りますが、男は引きません。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(9:32-33)。ファリサイ人は彼を会堂から追放します。破門したのです。彼が会堂から追放されたことを聞いて、イエスが彼を捜して、来られます。そして彼に出会うと「あなたは人の子を信じるか」と言われました。彼は答えます「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」。イエスは言われます「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。彼は「主よ、信じます」と言って、イエスの前にひざまずきました。その彼にイエスが言われたのが今日の招詞の言葉です。「イエスは言われた。『私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる』」(ヨハネ9:39)。

・イエスは何故、安息日にこの人を癒されたのでしょうか。当時、安息日に治療行為を行うことは危急の場合を除いて禁止されていました。しかしイエスは安息日であるからこそ癒されました。「私をお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」。今日でなければいけなかったのです。イエスは律法を犯すことが死の危険を伴うことを承知の上で、安息日に人を癒されます。その結果、それまでイエスを知らなかった人がイエスの前にひざまずき、「主よ、信じます」という信仰告白をします。この人がその後どのような生涯を送ったのか、聖書は記しません。おそらくは彼はイエスの生涯を証しする伝道者になったと思われます。彼は単に肉の眼が開けられただけでなく、使命という新しい霊の目の開眼を体験したのです。

・イエスは言われました「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。盲の男性は見えなかったが心の目でイエスがどなたかが見えるようになった。彼は「主よ、信じます」という信仰告白をします。その一方で「見える」と言っているファリサイ人たちは、「盲人が癒されたことを喜ぶよりも、安息日を守らないことに怒っています。彼等こそ、神の御心、真実が見えなかったのです。先ほど讃美した「いかなる恵みぞ」の原題はAmazing graceですが、作詞家ジョン・ニュートンは語ります「I once was lost, but now I am found ;Was blind, but now I see」.「かつては見えなかったものが今は見える」と彼は歌います。

 

3.神の業が現れるために

 

・今日、全世界では人口の10%の方が何らかの障害を持って生まれ、日本でも数百万の方々が障害をお持ちです。聖書の中にも、多くの盲人やろう者の物語が記されています。2千年前から、人々は障害故に苦しみ、その中である人はイエスと出会い、癒されてきました。ヨハネ9章ではイエスは驚くべき言葉を言われました「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(9:3)。イエスは「神の業がこの人に現れるため」、因果応報という当時の宗教的境界線を踏み越えられたのです。

・ヨハネ9章の物語では盲人の方はイエスの力により、眼が見えるようになりました。「神の業がこの人に現れるために」とは、障害が治癒されることを意味したのでしょうか。しかし、現実の生活では、生まれつき盲の方の、あるいは中途失明した方の目が開けられることは、ほとんどありません。それにもかかわらず、多くの視覚障害の方々がこのイエスの言葉に慰められて、洗礼を受けています。それは、イエスの言葉を通して、「障害を与えられたことの意味」を教えられたからだと思います。

・キリスト教会では盲というハンデをお持ちのままで牧師になられた方も大勢おられます。その中の一人が玉田敬次牧師です。彼は神学校を卒業して宮城県の教会に牧師として赴任しますが、全盲の自分が晴眼者ばかりの教会に赴任して十分に仕事が出来るだろうかという不安を持っていました。その彼に恩師が語ります「教会は牧師一人が働くところではなく、役員や会員が一緒になって奉仕する場所である。ところが目に見える牧師はつい自分一人でやっていくことが多い。しかしあなたは目が見えないから、嫌でも信徒の手助けを借りなければならない。その方が真の教会の姿である」。その時、玉田牧師は「神の業がこの人に現れるためである」ということの真意を理解したと言います。

・玉田牧師はやがて故郷に戻り、芦屋三条教会の牧師になりますが、その教会から育った信仰者の一人が小森禎司さんです。小森さんも全盲でしたが、励ましを受けて明治学院大学で英文学を学び、やがて桜美林大学の教授となり、ジョン・ミルトン研究に生涯を捧げられました。ジョン・ミルトンは「失楽園」を書いたピューリタン詩人として有名ですが、41歳の時に過労で失明しています。盲目の中で口述筆記を通して「失楽園」を書いたミルトンを紹介する事こそ、自分に与えられた天命だと小森先生は思われました。玉田牧師の信仰が小森先生の働きを支えました。まさに「神の業がこの人に現れた」のです。

・聖書は障害があることを不幸とはとらえていません。障害を賛美するわけではありませんが、障害を賜物として受け入れた時、より良いことができることを示します。福音書には多くの病気癒しの記事がありますが、そのほとんどは治癒を示す「イオーマイ」という言葉ではなく、手を置くという意味の「セラペオ-」というギリシア語が用いられています。手を置く、苦しい思いに共感し、その結果、癒しの業が為された。それは治癒というよりも「寄り添い」です。マザー・テレサが行ったのも、死に行く人への寄り添いであり、病気の治癒ではありませんでした。神の業が現れるとは、「心の目が開かれる」ことを意味するのです。盲人の方のクリスチャン比率は、晴眼者より圧倒的に高い。肉の目が見えないことによって、心の目が開かれ、信仰に導かれる人が多いことを意味しています。

・人は苦しみを通して、自分が生きているのではなく、生かされていることを知ります。人は苦しみや悲しみを通じて、神に出会い、神との出会いを通じて平安が与えられます。このことに気づくために、私たちに苦難が与えられます。それは私たちを生かすためです。この苦しみを経験しないと本当の喜びはないのではないか。三浦綾子さんは語ります「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ。その時、文字どおり天から一閃の光芒が放たれたのを感じた。神を信じる者にとって、神は愛なのである。その愛なる神が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとはいえないのではないか。“神の下さるものに悪いものはない”、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」(三浦綾子「泉への招待」)。ここに信仰の力があります。病も死も神がお与えになる、もう十分に生きたから休む時が来た、それは祝福なのだと受け止めていく信仰が、人を生かしていきます。三浦綾子さんの最後の言葉は「私には死ぬという大切な仕事があります」というものでした。

・過酷な運命を与えられた人は必然的に自分の生まれたことの意味を問われます。その時、「不条理もまた神与えたもう」、不条理の中に意味を見出した時、運命が使命に変わっていきます。イエスは運命を使命として受け取られたゆえに十字架で死なれた。生まれつき盲の人は伝道者としての人生が与えられた。病気や障害が癒されることが神の業ではなく、病気や障害を持ちながらも使命に生かされていく人が現れることこそ、神の業の現れなのです。由木康牧師は語ります「どんなに社会が完全になっても、死や病気や離別からくる苦しみはなくならない。また、不幸や苦難の原因をいくらほじくり返しても人は救われない。必要なことは、不幸や苦難の現実を、信仰によって神の御業の現れる機会とすることである。それだけが不幸や苦難を完全に克服する道である」(由木康、イエス・キリストを語る)。

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