江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年7月28日説教(創世記28:10-22、苦難の意味)

投稿日:2024年7月27日 更新日:

 

1.故郷から追われるヤコブ

 

・創世記を読んでいます。先週、私たちは、ヤコブが長子権を兄エソウから騙し取り、更には父イサクを欺いて家督相続の祝福さえも盗んだ記事を読みました。創世記に描かれたヤコブは利己的で、自分勝手で、周囲の人々と揉め事を起こす「争う人」です。しかし、そのヤコブが、アブラハムやイサクへの祝福を継承し、イスラエル十二部族の祖になっていきます。その背景には神の選びと祝福がありました。神は何故ヤコブを選ばれ祝福されたのか、それは私たちにとっても大事な問題です。私たちもヤコブと同じように、「利己的で、自分勝手で、周囲の人々と揉め事を起こす」存在ですが、それにも関わらず、今日礼拝に招かれています。ヤコブの問題は私たちの問題でもあります。

・ヤコブは兄エソウから族長の祝福を盗み取り、そのためエソウはヤコブを憎み、殺すことを誓います。エソウの殺意を知った母リベカは、ヤコブを自分の実家ハランに一時的に逃げさせることとし、ヤコブの旅が始まります。ヤコブはハランに向かって旅立ちました。「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来た時、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった」(28:10-11)。カナン南部のベエル・シェバからメソポタミヤのハランまでは1200㎞離れています。かつて祖父アブラハムが神の召しに応えて希望を持って歩いた道を、今、孫のヤコブが故郷を追われて、逆にたどっています。出発してから数日後、彼はルズと呼ばれる町の近くまで来て、そこで日が沈みましたので、野宿の支度をします。彼は真っ暗な荒野で石を枕に野宿します。いつ盗賊に襲われるかもわからないし、野獣の鳴き声も遠くに聞こえていました。彼は不安の中にありました。彼は故郷で兄を騙して逃れてきました。彼の後ろには恐怖と後悔があります。これから行くハランで親族として受け入れてもらえるかわからないし、無事にハランまで行ける保証もない。彼の前には未知と不安があります。恐怖と後悔が後ろに、未知と不安が前にある中で、ヤコブは一夜を迎えようとしています。

・彼は眠りに落ち、夢を見ました。「彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(28:12)。当時の人々は神の住まれる天と、人間の住む地は繋がっており、神の使いたちが天から降りてきて神の命令を執行するために各地に赴くと考えていました。夢のなかで神からの声が響いてきました。「私は、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、私はあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(28:13-15)。

・ヤコブは命を狙われて、逃げています。逃亡先で受け入れられる保証もない。共にいてくれる人はいず、完全な孤独の中にいます。人間関係に破れ、右も左も前も後ろも閉じている、しかし、そのヤコブが見出したのは上が空いていたということです。天が開けた。私たちは横の人間関係の中で生きています。家族や親戚や友だち、会社の同僚や地域の人々、それらの人々との人間関係が破綻して閉じ、誰も私たちのことを気にかけないし心配もしない、その時、私たちは生きる場がなくなります。しかしそこに垂直の関係が生じた、神との出会です。それを聖書は信仰体験と呼びます。信仰とは信じて仰ぐ、上を仰ぐことです。ヤコブはその信仰体験をここでしたのです。

 

2.ヤコブの梯子

 

・ヤコブの見た梯子は「天から地に向かって伸びていた」と創世記は記します(28:12)。人間は「地から天に伸びる梯子」を想像します。だから天にまで届くような高い建物を造って(バベルの塔やカトリック寺院の尖塔は天を目指しています)、その梯子を昇って天に行きたいと願っています。しかしこの梯子は天から地に向かって伸びていた。神の使いが地上に下るために、神が地上の人間と交わりを持つために造られた梯子だと創世記記者は主張しています。救いとは人間が天への梯子を昇っていく(善行を積み重ねて天国に行く)ことではなく、天から降りてこられる方と出会い、その方が共におられることを信じることにあります。この梯子はそれを象徴しています。

・不安と孤独の中にいるヤコブに神は言われます「私は、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える」。祖父アブラハムを導き、父イサクを守られた方が、今ここにヤコブと共におられる。すべての人から見捨てられたと思っていたヤコブに、「私は見捨てない」と神は言われたのです。将来に不安を覚えていたヤコブに「あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり広がっていく」との預言が為されます。ヤコブがこれから行く地で受け入れられ、家族が与えられる約束です。

・そして最も大事な約束が次に語られます。「私はあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」。「私はあなたと共にいる」、「あなたは一人ではない」、この約束をいただいた者はどのような困難の中でも生きる力が与えられます。聖書の福音は極言すればこの一言、「私はあなたと共にいる=インマヌエル」の使信です。

・彼は全身で畏れを感じました。生まれて初めて経験する深い感情でした。眠りから覚めると、ヤコブは枕にしていた石を記念碑として立て、その先端に油を注いで、祭壇とし、その場所をベテル(ベート・エル=神の家)と名づけて、礼拝を行いました。そして神の前に誓願します「神が私と共におられ、私が歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主が私の神となられるなら、私が記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたが私に与えられるものの十分の一をささげます」(28:20-22)。ヤコブは今まで自分の知恵と行動力で野心を一つ一つ果たしてきました。兄を出しぬいて長子権を獲得し、父を騙して家督相続の祝福を奪い取りました。彼は神を仰ぐことも、祈ることもない、極めて世俗的な人間でした。しかし人生の危機における神との出会いを通して、彼の人生は変えられていきます。

・変化は始まりました。かつて長子権と祝福をだまし取ったヤコブが、今は「食べる物と着るもの、旅の安全」というささやかなものを求める存在になっています。しかし、まだ利己的な祈りに留まっています。「主が私の神となられるなら」、無条件の信頼ではなく、まだ「取引」しています。人々は幸福を願って神を求めます。「病気を治してください」、「事業を成功させてください」、「幸せな家庭を与えてください」、多くの人々は、それが宗教であり、信仰だと考えています。確かにそれは信仰の出発点ではあります。ただ不十分です。自己の利益を求める信仰はやがて崩れていきます。願い通りに物事は進まないからです。崩れない信仰を持つには鍛錬の時が必要です。だからヤコブはこれから20年間の苦難の人生を与えられます。

 

3.苦難の意味

 

・ヤコブは砂漠で神と出会いました。私たちの多くも、聖書の言葉との出会いで人生を変えられていきます。私自身を振り返ってみても、節目、節目に御言葉を与えられ、人生の方向が変えられてきました。今日の招詞に選びました哀歌3:28-30との出会いもそうです。次のような言葉です「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ」。

・哀歌はエルサレム滅亡の中で読まれた歌です。イスラエルは神に背き、その結果神から裁きを受けます。その裁きはバビロン軍の侵攻、首都エルサレムの陥落、王国滅亡、民の離散として、目の前の現実となりました。町は焼かれ、民は殺され、主だった人々は敵の都バビロンに捕虜として連れて行かれました。その絶望の只中で書かれた記事が哀歌です。人々は全てを失い、食べるものもなく、町をさまよっています。著者は絶望の中で神の名を呼び、祈り続けます。その祈りの中で絶望が次第に希望に変わっていきます。国の滅亡という裁きを受けたが、神は私たちを見捨てられない、あわてふためき騒ぎ立てることをせず、静かに神に信頼して与えられた軛を負っていこう、この困難もまた神のご計画の中にあるものなのだからと。「塵に口をつけよ」、「打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ」、何故ならば「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあってもそれが御心なのではない。」(3:31-33)。現実がどのようであれ、御心ならそれを受入れて行こう、哀歌の著者はそう歌います。

・この言葉が私に与えられたのは、23年前でした。私は45歳の時に、長男との不和が原因で自分の信仰を問われ、夜間神学校である東京バプテスト神学校に通い始めました。3年が経った時に、転勤で福岡へ行きました。幸いなことに福岡は日本のバプテスト発祥の地で、そこにもバプテスト神学校があり、勤めをしながら学びを継続することが出来ました。東京・九州両神学校の学びが終わった時、ちょうど50歳になり、勤めを辞めて、牧師になる決心をしました。同時に学びが十分でないという意識がありましたので、東京神学大学に入り、牧師と神学生という二足のわらじを履いて新しい生活が始まりました。

・赴任した教会は宣教師に育てられた教会で、信仰は福音主義的、保守的でした。赴任してしばらくすると、一部の教会員の方から、私の説教が自由主義的でバプテスト的ではないという批判が起こりました。私の聖書理解は歴史的事実と信仰的事実を区分します。例えば、天地創造の記事は信仰的事実であり、創世記は歴史書ではないと考えます。ですから現代科学が教える「進化論」や「ビッグバンによる宇宙の創造」をそのまま受入れます。それは保守的な人から見れば危険思想に見えたのかもしれません。当初はお互いがもっと知り合えば誤解は解ける、と考えていましたが、誤解は解けず、批判は高まって行き、その中で一部の方から「あなたが牧師を辞任するか、私たちがこの教会を去るか」という迫りを受けました。

・聞く人たちが批判的な時に、説教を語り続けることは難しいことです。毎日が地獄のようでした。何度も神に問いかけました「あなたの召しを受けて牧師になったのに、何故その牧師職を辞めるように導かれるのですか」。神学校の友達にも苦難を訴えて慰めを求めました。その一人からの返書の中に、この哀歌がありました。「軛(くびき)を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵(ちり)に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ」。もらった当初は何故こんなに冷たい聖句をくれたのだろうかと思いました。ただ心に残る言葉でしたので、葉書を机の前の壁に飾り、毎日見ていました。そうしましたら次第に言葉が強く迫ってくるようになりました「主は、決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。繰り返しその言葉を聴いているうちに決心が促され、翌年3月に牧師を辞任しました。苦しい1年でしたが、振り返ってみれば、この時の経験が現在の自分の基礎になっているように思います。特に信徒と牧師の違いを思い知らされました。信徒は批判し、批判が入れられなければその教会を去ればよいですが、牧会を委ねられている牧師にはそのような自由はありません。牧師になるとは、自分を捨てて仕える覚悟がないと勤まらないと知らされました。牧師を辞任した後の1年間は神学大学の学びに没頭し、やがて卒業と共にこの教会の牧師に迎えられ、それから23年が経過しました。この経験は自分にとっては、「天からくる神の梯子」でした。

・ヤコブは自分さえよければ良いという人物でした。彼は他の人間を騙したり利用したりすることを平気でします。しかし神はそのヤコブを選び、彼を祝福されました。主はベテルでヤコブに言われました「地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」(28:14)。ヤコブは祝福を受ける者に留まるのではなく、「祝福を運ぶ者になるために」選ばれているのです。ベテルのヤコブはまだ祝福を受ける信仰に留まっています。ヤコブは変えられなければいけない、だから20年間の労苦の時が与えられます。人を騙してきたヤコブが親族から騙され(29:35,30:35)、最愛の妻からは子が出来ないことをなじられ(30:2)、親族の家から命からがら逃げ出す経験を彼はこれからしていくのです。その経験を通して彼は鍛錬され、神の器となっていきます。

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