1.罪の始まり
・創世記を読み続けています。本日は創世記3章を読みますが、3章は2章から連続する物語です。創世記2章では人間が男と女に創造され、園の中で暮らしていた事が書かれていました。3章では、人間が誘惑に負けて神の戒めを破ってしまい、その結果、園を追放されるという、有名な「失楽園物語」が描かれています。教会は伝統的に創世記3章に「罪」の問題を見てきました。パウロはローマ教会への手紙の中で語ります。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマ5:12)。一人の人アダムが「神の戒め」を破ったゆえに、罪が人間の中に入り、人は死ぬものとなったとの理解です。この理解は正しいのか、私たちは今日、この創世記3章を通して、「罪とは何か」、「人間は何故罪を犯すのか」を考えていきたいと思います。
・3章冒頭では蛇が誘惑者として女の前に登場します。創世記は語ります「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか』」(3:1)。神は人間に言われました「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(2:16-17)。「園のすべての木から取って食べなさい」、人間に与えられたのは自由でした。ただしその自由は「善悪の知識の木からは食べてはならない」という制約の中の自由でした。人間にはそれで十分でした。何故ならば「善悪の知識の木」から食べなくとも、多くの食べ物があり、不足はなかったからです。
・しかし蛇はこの自由を逆転させて、不自由を全面に押し出すようにして人を誘惑します「園のどの木からも食べてはいけないと神は言われたのか。あなたはかわいそうだ、全く自由がないではないか」と。蛇は聖書では知恵の象徴です。伝統的神学ではこの蛇をサタンとし、人間はサタンに誘惑されて罪を犯したとします。しかしこの物語が示すのは人間に与えられた知恵が、「なぜ食べてはいけないのか」とささやき、人は内心のささやきの命じるままに行為したことです。蛇のつぶやきは人間の心の中にある抑えられない欲望を象徴しています。
・女は語ります「私たちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」(3:2-3)。蛇は言葉を続けます「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(3:4-5)。ここでは、「人間が神のように賢くなることを神は嫌っておられる」という悪意ある解釈がなされています。そして女も神の禁止命令は「不当だ」と考えるようになります。物事の善悪を見極めることがそんなに非難されるべきことなのか、人の心の中の不満が増します「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」(3:6)。女は我慢できなくなって食べ、一緒にいた男にも渡したので、男も食べました。
・ここに人間の罪の本質が見事に映し出されています。人間には「制約の中の自由」が与えられていました。「善悪の知識の木からは食べてはならない」、人は制約なしには共同生活を営むことができないからです。共同生活を営む人間にとって、自由は制約があってこそ初めて成り立ちます。「人を殺してはいけない」という制約のない社会では、人は欲望のままに相手を殺し、混乱と無秩序がそこに生まれます。「姦淫するな」という制約がなければ、家族は互いに疑い合い、憎み合う存在になるでしょう。「共に生きる」には制約が不可欠です。しかし人間は制約、あるいは限界が置かれると、その限界を不自由だと思う存在です。哲学者のエマニュル・カントは語ります「アダムとエバが善悪の木の実を食べた時、人間は理性に目覚めた」。ある意味でこの物語は「人が幼子から成人になるためにたどる原体験」を暗示しています。
・その木が「善悪を知る木」と名付けられているのは象徴的です。ここでいう「善悪」は、「善と悪に至るすべての知識の総称」を意味し、木の実を取って食べることは、「善悪」のすべての知識を、自分を基準にして自由に決定づけることを意味します。「その実を食べるな」という禁止は、「私は神の判断を仰がずに、自分で判断する」という人間の主権宣言に対して、神が「自由は責任を伴うことを覚えなさい」と警告された言葉です。「責任を負えるのであれば食べよ、そうでなければ食べるな」と、創世記は人間の自由意志とその責任の重さを、エデンの園の中央に置いているのです。この物語は決して、歴史上の出来事を述べたものではなく、「悪がいかにしてこの世界に入ってきたのか」の説明では当然なく、ましてや原罪としての「死の起源」を述べたものでもありません。
2.罪の本質
・男と女は禁断の木の実を食べました。「善と悪を分別できるようになって何が悪いのか」、「賢くなることによって新しい可能性が開けるではないか」という内心の声に、二人は勝つことができませんでした。女は実を食べ、共にいた男にも与えたので彼も食べます。男は蛇が女を誘惑する時、そこにいました。女が木の実を食べた時に制止することはなく、女から勧められると何も言わず食べました。エデンの園の悲劇は女が蛇に欺かれたことで始まり、その場に居合わせた男がそれを受け入れたことで拡大していきます。男も女と同罪なのです。しかしテモテ書は語ります「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は許しません・・・なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました」(第一テモテ2:12-14)。
・私たちの母教会であるアメリカ南部バプテスト連盟では女性牧師を認めないことを2000年度に決定しましたが、その根拠として挙げられたのが創世記のこの記事でした。彼らは語ります「アダムはだまされなかったが、女はだまされた」(第一テモテ2:14)。だから「婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われる」(第一テモテ2:15)。このような創世記の解釈を根拠に女性牧師を禁止することは明らかに誤った読み方です。創世記を忠実に読む限り、男もまた誘惑に負けた。それ以上にここに書かれているのは人間の堕罪物語ではなく、楽園に住む無知な幼子たちが、楽園を出て責任ある大人になる、人間成長が象徴的に描かれている物語なのです。
・森本あんり牧師(ICU副学長)は語ります。「知恵の木の実を食べることで得られる“善悪の知識”は人間が人間として生きるためにどうしても必要な知識だった。善悪を知ることなしに自立した責任主体となることはできない。楽園の生は、いわば歴史以前の“夢見る無垢”の時代、園における本質主体としての人間は、子供と同じで罪を知らない。しかし人間は罪を犯すことで初めて現実の人間となり、大人となる・・・人間は現実の歴史に生き始めるために、神話の園の外に出て行かなければいけない。堕罪により、この反逆により、人間は神との関りに行き、神の前に生きる存在とされたのである」(森本あんり「現代に語りかけるキリスト教」から)。
・禁断の実を食べた結果、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人は無花果の葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(3:7)。神のようになりたいと思って禁断の木の実を食べた二人に起こったことは、「自分たちが裸であることを知った」ことでした。今まで神の方を向いていた視線が自分の方を向くと、自分の汚れが見え、その汚れを隠そうとした。「アダムと女は、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れ(た)」(3:8)。人間の視線が自己を向いた、その瞬間から人間は神から身を隠すようになった、そこに人間の罪の姿があると創世記は語ります。
3.罪からの解放
・今日の招詞にエゼキエル33:14-15を選びました。次のような言葉です「また、悪人に向かって、私が、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない」。禁断の木の実を食べた人に対し、神は呼びかけられます「あなたはどこにいるのか」(3:9)。人間は神からの呼びかけによって神に背く自分の姿を認識します。そのような人間を見て神は問われます「取って食べるなと命じた木から食べたのか」(3:11)。その問いかけに男は答えます。「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3:12)。
・「あの女が取って与えた。悪いのはあの女です」と彼は言います。「あの女」とは、彼の妻です。神が彼女を連れて来て下さった時、「私の骨の骨、私の肉の肉」と感動の叫びをあげた相手です。その相手を「あの女」と呼び、自分の罪の責任をなすりつけようとしています。さらには「あなたがあの女を与えた」と責任を神に拡げています。責任を問われた女は「蛇が騙したので、食べました」と責任を蛇に押し付けます。「蛇を造ったのはあなたではないか」という神への責めも女の言葉に含まれています。これが、自由を獲得して、自分が主人になって生きようとした人間の姿です。自分のしたことの責任を自分で負うことをせず、ひたすら他の人のせいにしていく、それが人間の求めた自由だったと創世記記者は語っています。
・ここに罪の本質があります。もし人がここで自分の責任を認めたら、神は間違いなく人間を赦されたでしょう。それを示すのが招詞の言葉です。「彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら・・・彼は必ず生きる。死ぬことはない」。つまり、「神の戒めを破った、禁断の木の実を食べた」、そのことに罪の本質があるのではなく、「罪を認めようとせず、自己弁解し、他者に責任を押し付けようとした」、さらには「神に責任を押し付けようとした」、そこに罪の本質があると物語は語っています。パウロは「人が禁断の木の実を食べたから罪がこの世に入った」と理解しますが、そうではなく、罪を罪と認めることのできない人間の傲慢さこそが、創世記で語られているのです。この物語は遠い過去において私たちの祖先に起こったことではなく、現在すべての人間が直面する課題を描いているのです。
・神を信じる人とそうでない人は何が違うのでしょうか。共に罪を犯します。神を信じる人は罪を犯した時、「あなたはどこにいるのか」と神に問われ、裁かれ、苦しみます。その苦しみを通して神の憐れみが与えられ、また立ち上がることができます。神を信じることの出来ない人々は犯した罪を隠そうとします。「私が悪いのではない」と言い逃れをするために、罪が罪として明らかにされず、裁きが為されません。裁きがないから償いがなく、償いがないから赦しがなく、赦しがないから平安がない。罪からの救いの第一歩は、罪人に下される神の裁きなのです。
・「私は罪を犯しました」と悔改めた時、神の祝福が始まります。私たちは今、楽園の外の「弱肉強食の世界」に生きています。この社会は「万人の万人に対する闘争」(ホッブス)の世界です。その中で私たちは、「自分の責任を隣人に押し付ける」生き方ではなく、「自分を愛するように隣人を愛する」(マルコ12:33)生き方を選び取っていくのです。その時、私たちは再び楽園に、神の平和に招かれるのです。失楽園を描いたミルトンは語ります「眠れ、幸福な二人。もしお前たちがこれ以上の幸福を求めず、分を知って今以上に知ろうとしなかったら、どれほど幸福であったことか」。