1.神は天地を創造された
・今日から創世記を読んでいきます。創生記は全体で50章ある長い物語で、その中で1-11章は原初史と呼ばれ、天地創造の物語が語られています。その後、12章からアブラハム物語が始まりますが、今回はこの原初史に限定して7-9月の三か月にわたって読んでいきます。創世記のこの部分は紀元前6世紀のバビロン捕囚時代に最終編集されたと言われています。イスラエルは紀元前587年、祖国をバビロニア帝国に滅ぼされ、指導者たちは異国の地バビロンに捕囚となります。自分たちは「神の選ばれた民である」という誇りを持っていたイスラエル民族にとって、この亡国・捕囚の出来事は衝撃的でした。自分たちの神ヤハウェはメソポタミアの神に敗れてしまったのか、自分たちはこの異国の地で滅び去るのか、もう故郷エルサレムに戻ることはできないのかと捕囚の民は苦悩しました。その中で彼らは、祖先から伝えられた伝承を調べ、その記録がやがて創世記にまとめられていったとされています。
・この原初史の冒頭が創世記1章、天地創造の記事です。「初めに、神は天地を創造された」(1:1)。そこでは「世界は神によって創造された」と記されています。この世界は偶然に存在するのではなく、神の創造によって存在するに至ったことが宣言されています。そして創世記1章2-3節は創造前の世界がどのようであったかを記しています「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。神が天地を創造される前には、「地は混沌であって闇が全地を覆っていた」、世界は闇の中にあって、混沌としていた。そこに「光あれ」(1:3)という神の言葉が響くと光が生まれ、混沌(カオス)が秩序あるもの(コスモス)に変わっていったと創世記著者は語ります。
・創世記については多くの人が、「この世界はどのようにして創造されたか」を記す書だと考えています。第一日目に「光」が創造され、二日目には大空=宇宙が造られ、天と地が分かたれ、三日目には地球が造られ、海と陸が分けられ、生物が生きる環境が整えられていきます。そして植物が造られ、魚と鳥が造られ、最後の六日目に動物と人が創造されたと語られます。ある人々は、世界は創世記に記述する通りに創造され、従って自然科学の説明する宇宙の生成や人間の進化は間違いだと主張していますが、そこには大きな誤解があります。創世記は「この世界がどのようにして創造されたかを宇宙論的に説明する」ものではなく、あくまでも「この世界が創造されたことにどのような意味があるのか、私という人間が存在する根拠は何か」を追求した書であるからです。
・そのことは創世記を構成する文書がどのようにしてできたかを文献学的に調査していけばわかります。創世記は、創造前の世界は「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と記しますが、この「混沌」と言う言葉、ヘブル語「トーフー・ワ・ボーフー(口語訳:地は形なく、虚しかった)」は、創世記以外ではイザヤ34:11、エレミヤ4:23に出てきます。いずれも紀元前6世紀のバビロン捕囚時の預言です。文献学的研究によれば、創世記1章は紀元前6世紀に書かれた祭司資料からなります。イスラエルはバビロニア帝国によって征服され、首都エルサレムは壊滅し、王族を始め主要な民は、捕虜として敵地バビロンに連れて来られました。この捕囚地での新年祭にバビロニアの創造神話が演じられ、イスラエル人は屈辱の中でそれを見ました。そのバビロニア神話が、創世記のモデルとなったとされています(例えばノアの洪水物語はバビロンのギルガメシュ叙事詩を原型としています)。
・捕囚地でバビロニアの創造神話を聞いたイスラエルの民は、「何故神は私たちイスラエルを滅ぼされ、敵地バビロンに流されたのか」を問い続けました。捕囚期の預言者エレミヤは歌いました「私は見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった」(エレミヤ4:23)。全地は荒れ果て、天地は創造以前のカオスに戻ってしまったと預言者は嘆いているのです。第二イザヤは叫びました「主は天地に荒廃をきたらせる計り縄を張られた」(イザヤ34:11)。この「混沌」や「荒廃」が「トーフー・ワ・ボーフー」です。「自分たちは神に捨てられた」、絶望の闇がイスラエル民族を覆っていました。しかし、神が「光あれ」といわれると光が生じ、闇が裂かれた。そこにイスラエルの民は救いを見ました。現実の世界が闇に覆われ、絶望的に見えようと、神はそこに光を造り、闇を克服して下さる方だとの信仰を与えられたのです。そのような祈りが創世記1章冒頭の言葉「神が『光あれ』と言われると光があった」の中に込められています。
・創造の業は続きます。二日目には大空=宇宙が造られ、天と地が分かたれました。「神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ』。神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である」(2:6-8)。聖書において水は混沌・カオスの象徴です。水はすべてのものを押し流し、破壊する恐ろしい力です。繰り返し体験した洪水や津波の恐ろしさがここに語られています。その荒れ狂う水を神は大空と海に封印し、管理してくださった。その結果、人の住める陸地が現れました。「神は言われた。『天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ』。そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた」(1:8-9)。
・海と陸が分けられことによって、生物が生きる環境が整えられていきます。そして植物が造られ、魚と鳥が造られました。そして最後の六日目に動物と人が創造されます。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された」(1:26-27)。全ての創造の業が終えられた時、「神はお造りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1:31)。創造の業が「極めて良かった」という神の肯定の中で終えられています。この「良かった」、「良しとされた」という言葉が、創世記1章の中に7回も出てきます。
2.苦難の中で神の言葉を聞いたイスラエル
・イスラエルは捕囚の苦しみの中で、「現在が良しとは言えない」状況の中にありました。その中で創造の神の、「良し」という言葉を聞いたのです。私たちは良きものとして神に創造された、しかし罪を犯したために、今は「良し」とは言えない状況の中にある。神はこのような私たちを赦し、再び「良し」という中に戻して下さるという信仰の告白がここにあるのです。「地は形なく空しかった」が、「神の霊が水の面を覆っていた」、神はバビロンの地にもおられた。そのことの中に捕囚のイスラエルの民は希望を見出しているのです。
・横浜指路教会の藤掛順一牧師は説教します「創世記1章の創造物語は、紀元前6世紀に、イスラエルの人々に向けて語られました。イスラエルの民が国を失い、多くの者たちがバビロンに捕囚された時代です。バビロニアとの戦争の中で多くの兵士たちが死に、エルサレム籠城の中で女性や子供たちは飢えに苦しみ、死んだ。そしてついに町が陥落した時には虐殺や暴行、強姦を受け、財産は奪われ、捕虜としてつながれて敵の地に引いていかれ、凱旋行進のさらし者にされるという筆舌に尽くしがたい苦しみをした。そのような苦しみの中で、自分たちはこのまま滅びてしまうかもしれないと誰もが思い、絶望していた」。
・説教は続きます「この天地創造の物語はそういう人々に向かって語られました。神があなた方のために、あなた方が生きることの出来る所として、この世界の全てを造り、整えて、そしてそれを『良し』とされた。この世界は、今苦しみ、悲しみに満ちており、絶望せざるを得ない状況にあっても、基本的には良い所なのだ。人生は生きる価値のあるものなのだ。そういう慰めのメッセージをこの天地創造物語は伝えているのです」(横浜指路教会、創世記講解説教2004年2月15日説教から)。
・創世記1章は捕囚の苦しみの中で生まれてきたものです。私たちが今生きているこの世界、この現実、そこには「混沌」があり、「闇」があり、救いようのない「絶望」があっても、私たちを創造された神は、そのような状態に私たちがいることを望んでおられないし、私たちが希望をもって立ち上がる日を待っておられる、そのような信仰のもとに書かれた、「励ましと慰めの書」なのです。
3.励ましと慰めの書として創世記を読む
・創世記1章が「励ましと慰め」の書であれば、それは現在の私たちの課題をも解決する力を持っています。今私たちにとって大きな課題の一つは、地球温暖化の中で繰り返される台風の大型化、集中豪雨による洪水や津波被害の頻繁化という異常気象の問題です。それを考える手がかりとして、今日の招詞にエレミヤ4:23-27を選びました。次のような言葉です「私は見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった。私は見た。見よ、山は揺れ動き、すべての丘は震えていた。私は見た。見よ、人はうせ、空の鳥はことごとく逃げ去っていた。私は見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり、町々はことごとく、主の御前に主の激しい怒りによって打ち倒されていた。まことに、主はこう言われる『大地はすべて荒れ果てる。しかし、私は滅ぼし尽くしはしない』」。
・創世記の創造物語は「地は混沌であった」から始まり、この混沌という言葉がエレミヤ書に使われていることを見てきました。その言葉を詳しく見たのが今日の招詞です。10年前の東北大震災で私たちが見たのも「山は揺れ動き、すべての丘は震えていた」、そして「実り豊かな地は荒れ野に変わり、町々はことごとく打ち倒されていた」姿です。エレミヤの描く混沌は、人間の罪に対する神の怒りと審きによって、地は混沌となり、形なく、虚しくなった現実です。エレミヤを始めとする預言者たちは、このような滅亡の苦しみが自分たちを襲ったのは、この民が代々に亘って犯してきた罪への神の怒りと審きによるのだと語りました。エジプトから民を救い出し、約束の地カナンを与えて下さり、守り導いてきて下さった主なる神を捨てて、他の神々に心を向け、それらを拝むようになったイスラエルの民の裏切り、忘恩の罪が、このような悲惨な国の滅亡と捕囚をもたらした」と預言者は語りました。
・バビロンに捕囚となった民は、エルサレムでの戦争で家も土地も失くし、家族からも切り離されて、数千kmも離れたバビロンの地に強制連行されました。当初彼らは早期に帰還できると期待しましたが、希望は断たれ、絶望の闇の中に閉じこめられました。その中で彼らは預言者からの神の言葉「大地はすべて荒れ果てる。しかし、私は滅ぼし尽くしはしない」を聞きました。自分たちは何もかも無くしてしまったがまだ生きている、生かされている。捕囚の民は「自分が今ここに生かされている」ことの中に希望を見出し、その希望が創世記1章を書かしめました。私たちも、10年前の地震と津波を通して、大きな悲惨を経験しました。まさに「地の基が揺れ動く」体験をしました。しかし、その中で主は言われます「私は滅ぼし尽くしはしない」。
・東北大震災について私たちは、天災と人災を区分して考える必要があります。日本列島は地震と津波と台風のリスクに常にさらされています。天災は私たちにとって不可避の運命です。だから、私たちは「天災にどう対処すればいいのか」を文化として知っており、私たちはそこから立ち直ることができます。しかし、今回の大震災の問題点は原子力発電所の被災とそれに伴う放射能汚染を回避できなかった人災にあります。イスラエルの滅亡と捕囚も人災でした。避けようと思えば避けられた。今回の原発事故において明らかになった点は、人間は自ら制御できないものを制御できると過信したのではないのかという点です。
・この時、創世記の言葉が私たちを捕えます「神は言われた『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』」(創世記1:26)。人間は神によって造られた被造物に過ぎませんが、同時に神の創造された自然を管理する存在として造られたことの意味です。人間は管理者に過ぎないのに、「何故神になってはいけないのかと問いかけてきた」、私たちが制御しえない「核物質」を制御できると考えたその傲慢さが、今回の原発事故につながっているような気がします。
・先に話しましたように、天地創造の物語は昔この世界はどうだったかということを語っているのではなく、私たちが今生きているこの世界、この現実、そこに何が起っており、これから何が起るのかという、極めて切実な問いを聖書は投げかけています。その問いに対して創世記1章の著者に与えられた答えが、「初めに、神は天地を創造された」という言葉だったのです。滅亡と捕囚の現実の中で、混乱と空虚の世界の中で、しかしそれは神が創造されたもの、神のご意思によって創られたものであり、この世界が存在し、私たちが生きているのは、神のみ心とみ力によるのだという信仰が1章の意味でした。そしてその世界の中に、「光あれ」という神の言葉が響くと光があった。闇に覆われた世界であっても、そこに希望と秩序が回復する、聖書は私たちにそう語りかけます。