1.復活の証人の話を聞く
・イースター礼拝の今日、ルカ福音書から御言葉を聞いています。今日の聖書個所はルカ24章、「エマオへの道」と呼ばれる所です。ルカは、十字架に死なれたイエスが三日目に復活されて、エマオに向かう二人の弟子たちに現れたと記します。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」(24:13-14)。この日、週の始めの日、イエスが十字架で亡くなられて三日目の日でした。エマオまでの道のりは60スタディオン、11キロ、歩いて三時間の道のりです。弟子の一人はクレオパ(24:18)、もう一人はその妻マリアであったと言われています(ヨハネ19:25「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」)。イエスの十字架死を目撃したクロパの妻マリアがここにあるクレオパの妻であったかもしれません。二人の家はエマオにありました。彼等は過ぎ越しの祭りにイエスがエルサレムに来られるとの連絡を受けて、一家でエルサレムに行きました。そこでイエスの十字架死を目撃し、失意の中に、エマオに帰るところであったと思われます。
・その二人にイエスが近づいて来られ、一緒に歩き始められましたが、二人は「目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(24:16)とルカは記します。イエスは二人に「何を話していたのか」と問われました。クレオパが暗い声で答えます「この人こそ救い主と信じて従ってきた方が、十字架で殺され、しかもその遺体さえどこにあるのかわからなくなっているのです」。彼らはイエスと話しているのに、イエスがわかりません。悲しみと失意で心を閉ざしている人には、復活のイエスは見えないのです。彼らは過去にこだわっています。「この人は行いにも言葉にも力があった」、「私たちはこの人に望みをかけていた」、「この人は十字架につけられた」、「それからもう三日がたった」、「婦人たちが墓に行ったが遺体は見つからなかった」、「弟子たちも行ったが、見つからなかった」、全て過去形です。過去にとらわれ、そこから出ることが出来ません。
・その彼等にイエスは語りかけられました「物分りが悪く、心が鈍い者たち」(24:25)。十字架に直面した弟子たちは、怖くなって死刑場から逃げ去りました。そして今「イエスは生きておられる」(24:23)との使信が「からの墓」を目撃した婦人たちを通して伝えられましたが、弟子たちは「愚かな話と思い」(24:11)、信じることができませんでした。二人もイエスの体が取り去られたことを不思議に思いながらも、イエスが復活されたとは信じていません。まさに「(彼らは)物分りが悪く、心が鈍い者たち」だった。それでもイエスはそれら不信仰の弟子たちに現れ、彼等の目が開かれることを期待されます。ですから、彼等に聖書の解き明かしをされ、「メシアは苦難を通して栄光を受けると書いてあるではないか」と語られます(24:26)。
・彼等の目はまだ開かれません。しかし、彼らは旅人の話にただならぬものを感じました。だから、目的地のエマオに着いた時、先を急ごうとする旅人をしいて引き止めます。ルカは記します「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」(24:28-29)。彼等が引き止めなかったら、イエスは先に行かれ、彼らはその人がイエスであることはわからなかった。二人の弟子はイエスを強いて引き止めたから、イエスに出会いました。イエスは求める者には、その姿を現されますが、求めない者はイエスに出会うことはありません。
・その情景を歌った賛美歌が今日の応答讃美歌478番「共にいませ、わが主よ」です。一番は歌います「日の陰は薄れゆき、暗き闇身を囲む。助け無きこの我と共にいませ、わが主よ」。英語では「Abide with Me」、作詞はスコットランドの聖公会信徒ヘンリー・フランシス・ライトです(1847年)。彼は結核を患っており、亡くなる3週間前に死の床でこの歌を作詞したと言われています。死の床にある「助け無きこの我」と、どうか「共にいてください」と詩人は祈ります。二番は歌います「生くる日の暮れ近く、世の栄え、移れども、変わらぬはただ主のみ、共にいませ、わが主よ」。「生くる日の暮れ近く」、死を前にした切々の思いが歌詞に込められています。三番「いざないの迫る時、主を常に呼び求む。曇る日も照る日にも、共にいませ、わが主よ」。死後に天の御国に入れるのか、だれも確信を持てません。だから誘いの疑念が心に浮かびます。四番は歌います「闇に照る十字架を、閉ずる目に仰がしめ、生くる日も、死の時も、共にいませ、わが主よ」。信仰者も死が怖い。詩人は主の十字架死を思い浮かべながら、死の時を迎えようとしています。私たちにもいつか死の時が来ます。その時、イエスがそばに寄り添ってくだされば、どのように心強いでしょう。「共にいませ、わが主よ」と歌いながら死んで行ければどのように幸いでしょう。
2.二人はやっとイエスが分かった
・イエスは二人の求めに応じて、家に入られ、食事の席につかれました。そして、イエスが「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」時に、「二人の目が開き、イエスだとわかった」(24:30-31)とルカは記します。「パンを取り、祝福して裂き」、イエスはかつて五つのパンで五千人を養われた時、イエスは「パンを取り、祝福して裂き」、配られました(9:16)。二人はその時、その場にいたのかもしれません。ルカは語ります「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(24:30-31)。ここに最初の聖餐式があります。私たちは聖餐式を通じて主とお会いするのです。二人がイエスを見出した時、イエスの姿が見えなくなりました。しかし、二人はお互いに言います「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」(24:32)。そして二人は「時を移さず出発してエルサレムに戻った」(24:33)。
・彼等がエマオに到着したのが夕暮時、食卓を囲んだのが午後七時頃、それからエルサレムまで三時間の道のりです。彼らがエルサレムに着いたのは真夜中近くであったと思われます。二人は「心が燃えて」じっとしておれませんでした。「復活の主に出会った」ことを友に語らずにはいられなかった。そのため、彼らは食事をとることも忘れてエルサレムに急ぎました。心が燃えて語らずにいられない、良い知らせは分け合うのです。その思いが私たちを伝道に駆り立てます。
・イエスの時代、多くの自称メシアが出て、一時期人々の注目を集め、弟子たちが集まったと歴史書は記します。多くは自称メシアの死により、運動が終っています。イエスの場合も十字架で死なれた時、弟子たちは逃げ去り、それで終るはずでした。ところが、逃げ去った弟子たちが、やがて「私たちは復活のイエスに会った。そのことによって、私たちはイエスが神の子であることを知った」と宣教を始め、信じる者たちが増やされていくという出来事が起こりました。
・復活が実際に起こったかどうかは歴史的に証明できませんが、「私たちは復活の主に会った」と弟子たちが証言を始め、殺されてもその証言を曲げなかったのは歴史的事実です。復活は理性で認識できる事柄でもありません。現に弟子たちも自分たちの前にイエスが現れるまでは、「愚かなこと」と復活を信じていません。しかし、失意の中にエマオに戻る途上のクレオパと妻が、エマオに着くや否や、食事をとることも忘れて、喜び勇んでエルサレムに戻っていったのは歴史的な事実です。マルコもその出来事を記しています(マルコ16:12-13「その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった」)。
3.復活信仰に動かされて
・今日の招詞に第一コリント15:58を選びました。次のような言葉です「私の愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。復活とは再び生きることです。私たちが絶望し、自分の力ではどうしようもなくなった絶望の底から、神の働きが始まる事を見ることです。その時、死は終わりではなくなります。その時、不慮の事故で死んだ人の過去も無駄ではなく、中絶で闇から闇に葬り去られた胎児の命も無駄ではありません。復活の信仰を持つ者には、失敗の生涯はありません。何故なら、死が終わりではないからです。だからパウロは言うのです「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。
・悲しむ人は人生の半分しか見ていません。イエスの十字架死を見て「もう終わりだ」と嘆く二人の旅人も、人生の半分しか見ていません。しかし、人生にはもう半分があります。神が私たちを愛し、私たちが絶望の中に沈む時に、再び立ち上がることができるように手を貸して下さるという事実です。そのしるしとしてキリストが復活されました。そのことを知った時、私たちは変えられます。復活とは単に死んだ人が生き返るという生物学的な現象ではなく、死を超えた命が示される出来事なのです。それは、神がこの世界を支配しておられることを信じるかと問われる出来事なのです。私たちは「たまたま生まれ、たまたまここにいる」のではなく、「人生には意味があり、生かされている」ことを確認する出来事なのです。
・復活のキリストに出会ったのは、すべて弟子たちであることに注目する必要があります。復活のキリストは信仰がないと見えないのです。エマオに向かう二人の弟子も、自分たちの悲しみで心がふさがれている時にはイエスがわかりませんでした。二人がわかったのは、イエスがパンを裂いて祝福された時、すなわち彼らの信仰の回復をとりなして祈られた時です。マザー・テレサはカルカッタの修道院で教師をしていましたが、ある日、路上に捨てられて死につつある老婆の顔の中にイエスを見て、教師の職を捨て、奉仕の仕事につきました。しかし、他の人には、その老婆は、ただの死につつある人にしか過ぎませんでした。同じものを見ても、心の目が閉じている人は見えないのです。
・二人の旅人は十字架のあるエルサレムから逃げて来ました。現実から逃げていく時、そこには悲しみしかありません。しかし、その悲しみにイエスが同行され、力を与えられ、彼らはまた、現実の中に戻って行きます。この物語が私たちに示すことは、救いとは「死んで天の御国に行く」ことではなく、「生きている現在に神の国に招かれ、絶望が希望に変わり、逃げてきた現実に再び戻り、その現実を変えるために働き始める」という事実です。この二人の生き方は変えられた。それが復活の主に出会うことの意味です。
・神は求める者には応えて下さる。二人の弟子たちはイエスを引き止めたから、イエスは共にいてくださった。私たちも神の名を呼ぶ時、目が開けて、イエスが共にいてくださることを知ります。その時、私たちは新しい命を受けます。新しい命を受けた者は次の者に命を伝えていきます。二人の弟子は沈んだ心で、エマオに向かっていました。その弟子たちが復活のイエスに出会い、心が燃やされました「道で話しておられる時、また聖書を説明して下さった時、私たちの心は燃えていたではないか」(24:32)。そしてすぐにエルサレムに戻りました。三時間かけて歩いてきた道を、夜遅くにもかかわらず、疲れているにもかかわらず、引き返したのです。自分たちの知った喜びを、仲間たちと語り合わずにはおられなかった。このようにして復活の主に出会った二人の体験が、シモン・ペテロの顕現体験(24:34)や弟子たちの顕現体験(24:36)と結びつき、教会全体の復活の証しとして伝えられていきます。この体験を私たちもします。悲しみと絶望の中にあった私たちが復活のイエスとの顕現体験を通して、喜びと讃美に満ちた存在に変えられます。