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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年7月23日説教(創世記2:4-9、15-25、創世記から学ぶ結婚の意味)

投稿日:2023年7月22日 更新日:

 

1.人間の創造

 

・創世記を読み続けています。今日私たちは創世記2章を読みますが、そこには1章と異なる別の創造物語が記載されています。創世記1章では光の創造から始まり、天地が創造され、植物や動物が造られ、最後に人間が創造されて物語が締めくくられます。そこにあるのは「天と地の創造」です。他方、創世記2章では、まず人が土の塵から創造され、神の命の息が吹きこまれて生きる者になり、人のために植物や動物が創造されたと描かれています。そこにあるのは「地と天の創造」です。創世記2章は紀元前10世紀ダビデ・ソロモンの王国時代に書かれたと言われています。国土が拡張され、産業が興り、国は豊かになった、しかし同時に人々は驕り高ぶり、自分たちは何でもできるように思い、人間の力を過信するようになっていた。その同時代人に著者は、「人間は土の塵から造られ、神が命の息を吹き入れて下さって初めて生きる者となった」と語ります。世界を創造し、保持しておられるのは神であって、人間ではないと語ります。

・新しい創造物語は2章4節bから始まります。「主なる神が地と天を造られた時、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった」(2:4-5)。創世記2章では、物語の焦点が「天」ではなく、「地」にあります。創造前の世界は水がなく、また土を耕す者もいないため、荒涼の世界であった。大地は水が与えられ、耕す者がいて、初めて収穫をもたらします。その大地に主は水を与えてくださった(2:6)。あと必要なものは耕す人です。それ故に神は人間を創造されたと創世記は語ります。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(2:7)。ここに二つのことが語られています。一つは神が「土の塵」で人を創造されたこと、二つ目は神が「命の息(霊)」を吹き込まれて人は生きる者となったということです。土から創られたことは、人は神の前では土くれのような、はかない存在に過ぎないことを示します。しかし、その無価値な存在に、神は「命の息」を吹き込まれ、人は生きるものになった。肉体は土でできていても精神は神の霊で構成されている、人間はそのような存在だと創世記2章は語ります。

2.向き合う存在としての他者の創造

 

・人を創造された神は、園の中央に「善悪の知識の木」を置かれたと著者は書きます(2:9)。そして、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(2:16-17)と言われました。人は創造されましたが、共に生きる者が居ません。そこで神は言われます「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(2:18)。人は一人でいるべき存在ではなく、他者との出会いと交わりの中に生きる存在です。神は人のために動物を創造されますが、動物はその役割を果たさなかった、動物は人との人格的関係を持てなかったからです。そして最初の向き合う存在=他者として女が造られます。「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた」(2:21-22)。

・人と共に生きる存在として女性が創造されました。「男=イシャーから取られたものだから女=イシュと呼ぼう」と名づけられます(2:23)。一つの体から造られた故に、男と女は本能的に相手を求め合い、その結果として二人は一つになり、それが子どもという新しい命を生み出していくという理解です。「こういうわけで男は父母を離れ、女と結ばれ、二人は一体となる」(2:24)。結婚によって家族が形成され、それが社会の基本単位を構成していきます。

・創世記2章は紀元前10世紀のダビデ・ソロモン時代に書かれました。当時の支配階級は一夫多妻で、ダビデもソロモンも多くの妻を持っています。族長時代のアブラハムもヤコブやモーセも複数の妻を持っています。共同体を継続させるために複数の妻を持つことが、家父長制社会では当たり前でした。その中で創世記2章の著者は、「人はその妻と向き合って家族を形成するのであり、一夫多妻は人間本来のあり方ではない」と批判しています。当時の家父長制社会では女性は子を生むための道具と考えられ、子が生まれなければ別の女を娶っても良いとされていました。そのような風潮に対し、彼は「夫婦関係こそ社会の基本単位であって、離婚は創造の秩序を破るものだ」と主張しています。

・女が造られることによって、人は一人ではなく、共に生きる者となります。しかし、この関係が罪を犯すことによって変化していきます。人は「善悪の知識の木からは食べてはならない」と命じられますが、その禁じられた実を食べ、神から譴責されます。その時、人の犯した最大の罪は、戒めを守らなかったこと以上に、神が与えて下さった恵みを捨てたことです。人は妻が与えられた時、「私の骨の骨、肉の肉」と呼び、これを愛しました。しかし、自分の責任を問われるようになると、人は「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3:12)と責任を妻に転嫁し、やがて責任を神につき返します「あなたが妻を与えなければこのような罪を犯さなかった」。「私が悪いのではない、あなたが悪い」、その主張は他者を捨てると共に、神をも呪う行為です。神との関係が断たれた時、他者との関係も断たれ、人は楽園から追放され、荒れ野を生きる存在となります。その荒れ野をますます生きにくいものとしているのは、私たち一人一人が持っている罪です。その罪の結果として、婚姻関係は破綻します。「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」という祝福が、罪によって壊されていくのです。

 

3.結婚の意味を学ぶ

 

・今日の招詞としてマルコ10:6-9を選びました。次のような言葉です「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。当時の律法では離縁が許されていました(申命記24:1「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった時は、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」)。夫が妻を嫌になればいつでも離縁することが出来た。それに対してイエスは、「それは間違っている」と言われた。それが今日の招詞の言葉です。

・結婚は神の創造の秩序に属しますが、人は、己の欲望によってその秩序を破壊します。それゆえに神は、「結婚が破綻する」場合に備えて、弱い者が守られるようにモーセに指示されました。離縁状は妻に再婚の自由を認める制度であり、夫の勝手を許すものではありません。神が望んでおられることは、「二人が一体となって生きる」こと、「神の前に対等で平等な存在として生きる」こと、だから「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(10:9)のです。イエスは、「男の身勝手な行為によって経済的、社会的困窮に妻を追いやるような離婚は許されない」と語られました。当時の女性は経済的には夫に頼って生きていましたから、夫に追い出されれば路頭に迷います。イエスは「そのような勝手を神は許されない」とされたのです。

・聖書は離婚を禁止しません。結婚の基本は夫婦の愛情にあり、それこそが「人を男と女に造られた」神の御心に沿うものであり、その結婚愛がなくなれば離婚せざるを得ないことを聖書は認めます。しかし離婚をすれば、妻や子が路頭に迷う現実があるのは、当時でも現在でも変わらない真実です。現代日本の母子家庭の貧困率は5割を超えています。阿部彩・国立社会保障・人口問題研究所調査によれば「日本の子ども(18歳未満)の貧困率は13.7%で、先進国の中では極めて高い数値です。中でも、母子世帯の貧困率は57%と突出して高い。2020年における(独立)母子世帯の平均所得金額は236万円であり、同年齢の児童のいる世帯の平均所得金額(730万円)と比較すると3分の1にしか過ぎない」。

・私たちは経済的に安定し、豊かになったと思っていますが、その豊かさは、不安定なバランスの上に成り立っています。勤めている会社が倒産し、あるいはリストラされたら、家庭の経済生活は崩れます。重い病気になったり、離婚したりすれば、もう普通の生活は送れない。私たちはイエスの時代と同じ不安定性の中に生きているのです。今の豊かさ、今の幸せは、神の摂理=護りにより、維持されていることを認識する必要があります。離婚は自由かもしれないが、そのことによって多くの不幸が生じています。どうすれば「結婚生活が永続しうるのか」を、私たちは聖書から聞く必要があります。

・結婚生活において、愛し合い、信じ合うという基本が崩される時があります。その時にどちらかが「厳しい基準で相手を裁」けば、結婚生活はうまくいかない。結婚生活の永続には和解の赦しが、十字架の愛が不可欠です。相手の罪を赦して夫婦であり続ける。それは「イエスの十字架の血によって私は赦されたから、私も相手を赦していく」という願いを持つ信仰者にこそ可能なことであり、それこそクリスチャンにふさわしい結婚生活です。パウロは言います「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(コロサイ3:13)。「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」、この言葉こそ、私たちに与えられた結婚生活の知恵の言葉です。

・創世記は、「人間は神の形に創造され」(1:26)、エデンの園には「善悪を知る木の実」が置かれた(2:9、17)と記します。人は善悪を判別できるものとして造られたのです。動物は本能の命じるままに性行為を行い、子孫を生みます。しかし人間は本能の命じるままに性行為を行う、つまり「情欲をもって相手を見る」とき、そこに悪が生じることを知る存在なのです。それが人間の人間たるゆえんです。だからイエスは、男女それぞれが役割をもって、愛し合って生きなさいと語られます。パウロはイエスの教えを受けて、語ります「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、そのほかどんな掟があっても、隣人を自分のように愛しなさいという言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ13:9-10)。神に愛された者は、人を傷つけることはもう出来ない。「姦淫するな」という禁止命令は、神を知ることを通して、「愛し合いなさい」という奨励になり、完成されるのです。

・私たちが創世記の物語を、単なる神話として聴く時、それは現在の私たちの生き方とは関わりがない、物語となります。しかし、私たちが創世記を、イスラエル人の信仰告白として聴く時、すなわち「人は何故他者を愛することが出来ないのか」、「人は何故最愛の人さえもいざとなれば裏切るのか」という私たちの本質が問われた時、本当の自分の姿、すなわち罪が明らかになります。そして「神との関係が断たれた時、他者との関係も断たれてしまう」ことを知り、関係の正常化、罪からの赦しと解放を求めるようになります。私たちは自分たちが今楽園の外にいることを知るからこそ、教会に集まり、創世記を共に読み、「他者と向き合う」ことができる存在に変えられるように、主なる神に祈ります。

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