江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年7月16日説教(創世記2:4-25、家族の形成)

投稿日:2023年7月15日 更新日:

 

1.人間の創造

 

・先週と先々週、私たちは創世記1章を読み、それがイスラエルの国の滅亡とバビロンへの捕囚という苦しみの中で生まれてきたものであることを学びました。私たちが今生きているこの世界、この現実の中に「混沌」があり、「闇」があり、救いようのない「絶望」があります。「地は混沌であって闇が全地を覆っていた」、しかし神の「光あれ」という言葉が響くとそこに光が生まれ、混沌が秩序あるものに変わっていった、そこに捕囚の人々は希望を見出していった、それが創世記1章であることを知りました。

・今日私たちは創世記2章を読みますが、そこには1章と異なる第二の創造物語が記載されています。創世記1章では光の創造から始まり、天地が創造され、そこに植物や動物が造られ、最後に人間が創造されて物語が締めくくられます。他方、今日読みます創世記2章では、まず人が土のちりから創造され、神の命の息が吹きこまれて生きるものになり、人のために植物や動物が創造されたと描かれています。1章と違う視点で物語が書かれています。それは資料が異なるからです。(1章は祭司資料=P資料、2章はヤハウェ資料=J資料と分類されます)。創世記1章は紀元前6世紀の捕囚時代に書かれ、創世記2章は紀元前10世紀、ダビデ・ソロモンの王国繁栄期に書かれたと言われています。2章の背景には、国が繁栄し、豊かになった、同時に人々は驕り高ぶり、自分たちだけで何でもできるように思い、人間の力を過信するようになってきた。その人々に、創世記2章の著者は、「人は土の塵から造られ、神が命の息を吹き入れて下さって初めて生きる者となった」と語ります。人は土のちりで造られ、神がその命の息を取り去られれば死んで土の塵に返っていく、そういう存在でしかない。今の命や繁栄も、神が与え、保って下さっているからである、そのことを忘れてはいけないと警告しています。

・2章の新しい創造物語を見ていきます。「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった」(2:4-5)。創世記1章の神名は「エロヒーム(神)」、2章では「アドナイ・エロヒーム(主なる神)」となっています。1章と2章では神の名が異なります。異なる資料が用いられているからです。創造前の世界は土を耕すものがいないため荒涼たる世界であった、故に神はその世界に人を創造されたと創世記2章は語ります「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(2:7)。土=アダマで創られた故に人はアダムと呼ばれます。土から創られたことは、人は神の前では土くれのような存在であることを示します。人は死ねば土に返って行きます。しかし、その無価値な存在に、神は生命の息を吹き込まれ、神の息が吹き込まれた故に、人は生きる者になった。人は神の息、霊が共にある限り人ですが、霊が取り去られると命をなくしてしまう存在だとここに言われています。
・そのような人に、神は園を耕し、管理する業を委ねられます。2章8節「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた」、15節「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」。この園がエデン(アッカド語で園)、やがてこの場所がパラダイスと呼ばれます。また耕す=アーバドは「仕える」という意味も持ちます。仕える人がいなかった時、大地は何も生まなかった。人が地に働きかけ、地を耕して行く時、地は収穫をもたらします。耕す(cultivate)時、そこに文化(culture)が生まれていくのです。ここに聖書の労働観があります。人は働くために創造され、使命感をもって働く時こそ、本当に生きる存在となるとの主張です。

・ところが、人が罪を犯す事により、労働に呪いが入ってきたと続く創世記3章は記します。労働に喜びと苦痛という両面があるのは事実ですが、本来の労働は祝福であったことを銘記すべきです。1929年の大恐慌を克服したアメリカの政策は「ニューディール」と呼ばれましたが、ニューディール(新しい仕事)、雇用創出のための事業の数々でした。雇用=労働は賃金という報酬を生むと同時に、人に生きがい、使命を与える積極的な意味を持つのです。宗教改革者ルターは労働を、「ベルーフ=召命」と呼びました。人は労働=職業を通して神の召命に応えていくという考え方です。創世記2章を根拠とする宗教改革者の職業観が、現代の資本主義社会を生んだともいわれます(M.ウェーバー「資本主義の精神とプロテスタンティズム」)。

 

2.向き合う存在としての他者の創造

 

・人は創造されましたが、共に生きる者が居ませんでした。そこで神は言われます「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(2:18)。人は一人でいるべき存在ではない、人は他者との出会いと交わりの中に生きる存在です。その他者との出会いと交わりが断たれた状態が「孤独地獄」、現代の言葉で言えば「無縁社会」です。人は一人で生きることができない。だから神は、人と向き合う者を創造されました。「人に合う助ける者」として最初に動物が創造されますが、動物はその役割を果たさなかった、何故なら動物は人との人格的関係を持てないからです。そして最初の向き合う存在=他者として女が造られます。21-22節「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた」(2:21-22)。人と共に生きる者として女性が創造されました。そして「男=イシャーから取られたものだから女=イシュと呼ぼう」と名づけられます(2:23)。一つの体から造られた故に、男と女は本能的に相手を求め合い、その結果として二人は一つになり、それが子という次の命を生み出していくという主張です。そこに家族が形成され、それが社会の基本単位を構成していきます。

・人を創造された神は、園の中央に「善悪の知識の木」を置かれたと著者は書きます。そして、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(2:16-17)と言われました。3章ではアダムとエバが戒めを破って知識の木の実を食べることが記述されます。教会ではこの物語を「堕罪物語」、あるいは「原罪の起源を説明するもの」と理解してきました。しかし、創世記の文脈からはそう読むべきではないと思います。この物語ははるか昔に起こった何かについて語るのではなく、人間の在り方について語っているのです。なぜこの世に罪があるのか、なぜ人は憎みあい、殺しあうのか、それは人が「神のために働き、仕えることに幸福と自由を見出す」生き方ではなく、「神のようにすべてを知り、自分の力で生きることにより、幸福と自由を勝ち取る」という生き方を選択したからではないかと理解し、そのことを物語として提示しているのです。神を中心に他者と共存して生きる道か、自己を中心に他者を支配する道を選ぶかが人間に与えられ、人は他者を支配する道を選んだ、だからこの世には罪が満ち溢れていると創世記著者は考えています。

・創世記2章は紀元前10世紀のダビデ・ソロモン時代に書かれたとされています。当時の支配階級は一夫多妻で、ダビデもソロモンも多くの妻を持っていました。その中で創世記2章の著者は、人はその妻と向き合って家族を形成するのであり、一夫多妻は人間本来のあり方ではないと批判しています。また当時の家父長制社会では女性は子を生むための道具と考えられ、子が生まれなければ別の女を娶って子をなしてもよいとされていました。そのような風潮に対し、彼は夫婦関係こそ社会の基本単位であって、人はそのように創造されたと主張しています。今から3000年も前に、「夫婦関係こそ家族の基本である」との主張があったことは驚くべきことです。

 

3.他者と向き合うことが出来ない存在が変えられる

 

・女が造られることによって、人は一人ではなく、共に生きるものとなりました。しかし、この関係が罪を犯すことによって変化していきます。今日の招詞に創世記3:12-13を選びました。次のような言葉です「アダムは答えた『あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました』。主なる神は女に向かって言われた『何ということをしたのか』。女は答えた『蛇がだましたので、食べてしまいました』」。エデンの園で、神は「園の中央に命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられ」(2:9)、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」(2:17)と命じられました。しかし、人は、禁じられたその実を食べ、神から譴責されます。人は禁断の実を食べたことにより罪を犯し、楽園を追い出されたと通常は理解されていますが、創世記を注意深く読むとそうではないことが明らかになります。人の犯した最大の罪は、神の命じた戒めを守らなかったことではなく、神が与えて下さった恵みを捨てたことです。人は一人では生きることが出来ない故に向き合う存在を与えられましたが、いざとなるとその存在である妻を捨ててしまったのです。

・人は妻が与えられた時「私の骨の骨、肉の肉」と呼び、これをいとしみました。ところが自分の責任を問われるようになると人は、「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3:12)と責任を妻に転嫁します。彼は自分の犯した罪の責任を取ろうとしないばかりか、その責任を神につき返します「あなたが妻を与えなければこのような罪を犯さなかった」。女も言います「蛇が悪いのです。あなたが蛇さえ創らなければ罪を犯さなかった」。「私が悪いのではない」、その主張は他者を捨てると共に、神をも呪う行為です。神との関係が断たれた時、他者との関係も断たれ、人は楽園から追放されます。人は罪のゆえに楽園から追放されて、荒れ野のような世を生きなければならなくなった。その荒れ野をますます生きにくいものとしているのは、私たち一人一人が持っている罪だと創世記2章を書いた著者は、繁栄に酔いしれ傲慢に陥っていた同時代人を批判しているのです。日本では年間12万件の人工妊娠中絶が行われますが、その二大理由は「結婚していないから」、「経済的に苦しいから」です。社会における男女関係の正常な在り方からの逸脱が悲劇を生んでいます。創世記2章はその人間の罪を告白しています。

・しかし、「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(3:21)。神は人間を裸のままに追放されたのではなく、着物を人間のために用意し、彼らを保護した上で追放されます。人は楽園を追放され、額に汗して地を耕す者になりました。人は地を耕して初めて、太陽と雨がなければ収穫はなく、それは人の力では支配できないもの、ただ神の恵みにより与えられる事を知ります。「食べれば死ぬ」と言われた罪を犯したのに、神は生きるための糧を与えてくださる事を知ります。女は苦しんで子を産むことを通して「お前たちは死ぬ」と呪われた存在であるのに、生命の継承を許してくださる神の恵みを知りました。人は楽園追放を通して、初めて神の愛を知ったのです。

・私たちはこの創世記2章の物語を、古代バビロンの創造神話や日本の古事記のような神話として聴く時、それは現在の私たちの生き方とは関わりがない、単なる物語となります。そうではなく、私たちが創世記を、イスラエル人の信仰告白として聴く時、すなわち「人は何故他者を愛することが出来ないのか」、「人は何故、骨の骨、肉の肉と呼んだ最愛の人さえもいざとなれば平気で裏切るのか」という私たちの本質が問われ、本当の自分の姿、すなわち罪が明らかになります。そして「神との関係が断たれた時、他者との関係も断たれてしまう」ことを知り、関係の正常化、罪からの赦しと解放を求めるようになります。私たちは自分たちが今楽園の外にいることを知るからこそ、教会に集まり、創世記を共に読みます。そして「他者と向き合う」ことができる存在に変えられるように、主なる神に祈るのです。

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