江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年10月22日説教(イザヤ27:1-13、新しい葡萄畑の歌)

投稿日:2023年10月21日 更新日:

1.新しい葡萄畑の歌

 

・イザヤ書を読んでいます。今日の説教箇所はイザヤ27章ですが、イザヤ書24-27章はイザヤ黙示録と呼ばれ、イザヤの後継者たちが、自分たちの置かれた時代の中でイザヤ書を再解釈したものと言われます。24章は世界審判を歌い、25-27章はその回復を歌います。最終章の27章はユダを苦しめたアッシリア(逃げる蛇レビヤタン)やバビロン(曲がりくねる蛇レビヤタン)、エジプト(海にいる竜)の滅亡を描きます。「その日、主は厳しく、大きく、強い剣をもって、逃げる蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、また海にいる竜を殺される」(イザヤ27:1)。

・イザヤはかつて「実を結ばない葡萄畑の歌」を歌い、神に不実なイスラエルを批判しました。「良い葡萄を植えたのに、実ったのは酸っぱい葡萄であった」との有名な歌です。「私の愛する者は、肥沃な丘に葡萄畑を持っていた。よく耕して石を除き、良い葡萄を植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良い葡萄が実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱい葡萄であった・・・私がこの葡萄畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、私はこれを見捨てる」(イザヤ5:1-7)イスラエルの家は主の葡萄畑であるはずなのに、正義の実を結ばなかった故に滅ぼすと宣言されています。

・預言の通り、ユダは主に撃たれ、国は滅亡し、住民はバビロンに捕囚となりました。その捕囚の地でイスラエルの民は、「主はなぜ自分たちを撃たれたのか」を深く思い起こし、その悔い改めの中から創世記を筆頭にした聖書が編集され、やがて彼らは主の言葉を記した聖書を持って生きる民となります。その歴史を知るイザヤの後継者たちは、この滅ぼされた葡萄畑が主によって回復されると預言します。それが今日の個所です。「その日には、見事な葡萄畑について喜び歌え。主である私はその番人。常に水を注ぎ、害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。私は、もはや憤っていない。茨とおどろをもって戦いを挑む者があれば私は進み出て、彼らを焼き尽くす。そうではなく、私を砦と頼む者は私と和解するがよい。和解を私とするがよい。時が来れば、ヤコブは根を下ろし、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、地上をその実りで満たす」(イザヤ27:2-6)。主に見捨てられて、茨やおどろが生い茂った葡萄畑が、見事な葡萄畑に生まれ変わると27章は預言します。イザヤ27章の預言はイザヤ5章滅亡預言の再解釈です。歴史は目の前の出来事を見つめるだけではわからない。歴史(His Story)は100年後、200年後にわかると預言者は伝えます。主はユダを苦しめたアッシリアを撃たれ、ユダを滅ぼしたバビロンを滅ぼされ、イスラエルは回復を与えられました。主の恵みを見よと預言者は歌います。

 

2.イザヤ黙示録とは何か

 

・イザヤ24-27章は、紀元前2~3世紀のイザヤの弟子たちがイザヤの預言を再解釈し、ここに編入したもので、イザヤ黙示録と呼ばれています。24章は神の世界審判の預言です「見よ、主は地を裸にして、荒廃させ、地の面をゆがめて住民を散らされる。民も祭司も、僕も主人も、女の僕も女主人も、売る者も買う者も、貸す者も借りる者も、債権者も債務者も、すべて同じ運命になる。地は全く裸にされ、強奪に遭う」(イザヤ24:1-3)。裁きは全ての人に襲い掛かり、それは旱魃による飢饉、戦争による荒廃等として現実化します。「地は乾き、衰え、世界は枯れ、衰える・・・ 新しい酒は乾き、葡萄のつるは枯れる。心の朗らかだった人々も皆、ため息をつく。太鼓の音は絶え、陽気な人々の騒ぎは終わり、竪琴の音も絶えた・・・混乱の町は破壊され、どの家も閉ざされ、入る者もない。・・・ 都には荒廃だけが残り、騒ぎのうちに城門は打ち倒された」(イザヤ24:4-12)。創造の秩序が破られ、地は混沌となりました。それは人々が主との契約を破り、罪を犯したゆえだと預言者は語ります。「地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り、永遠の契約を棄てたからだ。それゆえ、呪いが地を食い尽くし、そこに住む者は罪を負わねばならなかった。それゆえ、地に住む者は焼き尽くされ、わずかの者だけが残された」(イザヤ24:5-6)。

・人間の罪の故に、天の水門は開かれ(大洪水が来る)、地の基は震え動く(大地震が起こる)と預言者は述べます。「地に住む者よ、恐怖と穴と罠がお前に臨む・・・天の水門は開かれ、地の基は震え動く。地は裂け、甚だしく裂け、地は砕け、甚だしく砕け、地は揺れ、甚だしく揺れる。地は、酔いどれのようによろめき、見張り小屋のようにゆらゆらと動かされる。地の罪は、地の上に重く、倒れて、二度と起き上がることはない」(イザヤ24:17-20)。新しく建てるために古いものは壊されたと預言者は語ります。

・ドイツの神学者パウル・ティリヒは、第二次世界大戦直後、イザヤ24:18「地の基ふるい動く」という言葉を手掛かりに説教を行いました。「これらの言葉を真剣に取り上げないで過ごした数十年、否、数世紀さえもがあった。しかし、そうした時代は過ぎ去った。今やわれわれは、こうした言葉を真剣に考えなければならない。なぜなら、彼らの言葉は、人間の大多数が今日経験し、またおそらく余り遠くない将来において全人類が嫌というほど経験することであろうこと、すなわち、『地の基がふるい動く』ということを目の当たりに見るように描いているからである。預言者の幻は、今や現実的な可能性となり、歴史的現実にさえなろうとしている。『地は全く砕け』という言葉は、もはや単なる詩的形容ではなく、厳しい現実である。これこそ、今や、われわれが足を踏み入れた時代の宗教的意義である」。イザヤが預言した災いこそが、私たちにとっては、二度の世界大戦であったのではないかとティリヒは語ります。

・「神は新しい世界を創造されるために、旧い世界をひとまず破壊された。二度の世界大戦で多くの人が死に、広島やアウシュヴィッツの悲劇を人間は味わった。そこからどのようにこの世界を再建して行けばよいのか、私たちは真剣に神に尋ねるべきだ」とティリヒは語ります。19世紀は「進歩と希望の時代」でした。科学技術の進歩により生活は豊かになり、「明日は今日よりも良くなる」と人々は信じていました。そしてもう神などいらない、人間はこの様な素晴らしい世界を作り上げることができたのだからと人々は語りました。その楽観主義を打ち砕いたのが第一次世界大戦でした。キリスト教国同士が殺し合い、犠牲者は1000万人を超えました。第二次世界大戦はそれ以上の5000万人の犠牲者を生みました。「人は何故戦争を止めることができないのか」、「これからどのようにこの世界を再建して行けばよいのか」。その私たちにイザヤは語ります。「主よ、あなたは私の神、私はあなたをあがめ、御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された・・・強い民もあなたを敬い、暴虐な国々の都でも人々はあなたを恐れる。まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰となられる」(イザヤ25:1-4)。「主は奢る者を懲らしめ、貧しい者を引き揚げて下さった」というイザヤの言葉は新約聖書に継承されます。受胎告知を受けたマリアの賛歌はイザヤ25章を基本にしています。「(主は)権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」(ルカ1:52-54)。

 

3.回復の喜びを歌え

 

・今日の招詞にヨハネ黙示録21:3-4を選びました。次のような言葉です「その時、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。ヨハネ黙示録の幻はイザヤ25章8節の引用です。「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる」(イザヤ25:8)。ヨハネはキリストが来られてすべてが新しくされたことを、イザヤの預言を引用しながら語ります。イザヤ書は難解だと言われますが、驚くほど多くの示唆を新約聖書に与えています。新約聖書はある意味でイザヤ書の新たな解釈の書だとも言えます。

・イザヤ26章12節では平和を求める祈りが為されています。「主よ、平和を私たちにお授けください。私たちのすべての業を成し遂げてくださるのはあなたです。」(イザヤ26:12)。この平和の祈りをキリストへの信仰で再解釈したのがフランシスの祈りです。「主よ、私を平和の器とならせてください・・・ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください・・・それは、私たちが、自ら与えることによって受け、許すことによって赦され、自分の体をささげて死ぬことによって、とこしえの命を得ることができるからです」。

 

4.回復から救済へ

 

・イザヤ黙示録では最後に、散らされた民が集められる預言が為されます。それがイザヤ27章です。アッシリアに追い払われたイスラエルの民も、バビロンに捕囚になったユダの民も、エジプトに逃れた民もまたエルサレムに連れ戻されると預言者は歌います「その日が来ると、ユーフラテスの流れからエジプトの大河まで主は穂を打つように打たれる。しかし、イスラエルの人々よ、あなたたちは、一人一人拾い集められる。その日が来ると、大きな角笛が吹き鳴らされ、アッシリアの地に失われて行った者もエジプトの地に追いやられた者も来て、聖なる山、エルサレムで主にひれ伏す」(イザヤ27:12-13)。イザヤの預言はアッシリアによる支配、バビロン捕囚の困難を乗り越えて継承されてきました。その中で人々は継承されてきたイザヤ書を再解釈し、今の自分たちへのメッセージを聞こうとして編集してきました。それが現在残されているイザヤ書です。

・ヘルムート・ティーリケは、第二次大戦中、空爆された都市の教会で、聴衆に語り、その説教を記録した本が「主の祈り―世界を包む祈り」として出版されています(新教新書)。「人と人とが殺しあう戦争の最中に、神を信じること、祈ることにどんな意味があるのか」を考察した書です。エミール・ブルンナーは第二次世界大戦が勃発した1939年に、スイス・チューリヒのフラウミュンスター教会で語った説教を「我は生ける神を信ず~使徒信条講解説教」(新教新書)として公にしました。彼は、「危機の時にこそ、弱い者を強くし絶望する者に希望を与える生ける神を固く信じ生きるべき」ことを示します。その中で私たちは現代の世界の出来事を理解していきます。イスラエルとパレスチナの戦争が突然に始まり、当初被害を受けたイスラエルは圧倒的武力でガザ地区を包囲し、電気や水道の供給を止め、エジプト側への通路もふさいでいます。そのためガザにいる200万人の人々の命が脅かされています。これはかつてアッシリアがユダに対して行った封じ込み作戦そのものです。そこにはイザヤ書が克服したはずの「民族間の憎悪の爆発」があるだけです。イザヤ書は2000年前に民族間の戦いを克服し、全ての民の救いを唱えます。それなのに何故イスラエルは歴史に学ばないのか、イスラエルは自分たちの聖典であるイザヤ書を読まないのか、イスラエルがアッシリアになりつつあることを私たちはどう考えたらよいのか。私たちはもう一度イザヤ書から聞き直す必要があります。聖書はどのような時にも絶望から立ち上がる力を私たちに与えます。何故なら、私たちたちは、歴史は神の経綸の中にあり、神が歴史を導いておられることを信じるからです。また私たちには「苦しむ能力」が与えられています。どのような不条理が目の前にあっても絶望しない能力です。信仰は「苦難から逃れる力」を私たちに与えるのではなく、「苦難の中で立ち上がる力」を私たちに与えるものなのです。

-

Copyright© 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.