1.荒野の誘惑
・新しい年を迎え、今年はルカ福音書を読んでいきます。今日、与えられた聖書箇所はルカ4章1-13節「荒野の誘惑」です。イエスはヨルダン川でバプテスマを受けられましたが、その時、天からの声を聞かれました「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」(3:21)。この時、イエスはご自分が神の子として、使命を与えられて世に遣わされたことを自覚され、「神の子として何をすべきか」を模索するために、荒野に行かれます。ルカはそのことを「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(4:1)と記述します。神の霊がイエスを荒野に追い込んだ、神によってこの試練が与えられたとルカは書いています。その荒野で悪魔がイエスの前に現れます。ここでいう悪魔とは、イエスの心の中にあった思いでしょう。さまざまの人間的な思いの中でイエスは悩まれた、それが悪魔の試みとして記録されているように思えます。
・悪魔はイエスに三つのことをささやきます。第一のささやきは「石をパンに変えてみよ」との誘いです。イエスは40日の断食の後に、空腹になられました。悪魔はささやきます「お前は神の子であり、人々を救うために来たのであろう。今、多くの人々が食べるものも無く、飢えに苦しんでいる。もし、おまえがこれらの石をパンに変えれば彼らの命を救うことができるではないか」とのささやきです。これに対しイエスは言われました「人はパンだけで生きるのではない」。
・キリスト教は明治になって日本に伝えられましたが、海外から来た宣教師たちはライ病や結核にかかった病人が路傍に捨てられ、子どもたちは十分な教育を受けられない現実を見て心を痛め、本国からの資金援助で、各地に病院や学校を建てました。それから150年、キリスト教系の病院、たとえば聖路加病院(聖公会)や東京衛生病院(アドベンチスト)等は、良心的治療で、高い評価を得ています。多くのミッションスクールが立てられ、白百合や聖心、立教や青山等のミッションスクールは、今日でも熱心な教育をしてくれる学校として人気があります。150年間、多くの人たちがキリスト教系病院で治療を受け、キリスト教系学校で教育されましたが、ほとんどの人たちはクリスチャンになりませんでした。教育や医療、すなわちパンが与えられても、人々はそれをもらうだけで、与えて下さる神のことは考えなかったのです。ですからイエスは言われました「人はパンだけで生きるのではない」。パンは人を救いに導かないのです。
・次に悪魔は誘います「あなたが私にひれ伏すならば、この世の支配権をあげよう」。悪魔はささやきます「人々はローマの植民地支配に苦しんでいる。あなたが立ってローマからユダヤを解放すれば、神の国ができるではないか」。それに対してイエスは答えられました「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。キリスト教はその誕生以来、迫害に苦しんで来て、多くの殉教者が出ました。その迫害を経て、4世紀にキリスト教はローマの国教になりますが、教会が支配者側に立った途端、堕落が始まります。迫害の300年間、教会は「剣を取るものは剣で滅ぶ」というイエスの教えを守り、信徒が兵士になることを禁じてきました。しかし、教会が体制側に立つと、教会の教えは変わり、「政府は神により立てられ、全てのキリスト者は政府に従うべきで、国家の秩序を守るためであれば戦争も許される」と教え始めます。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」(マルコ12:17)、「敵を愛せ」(マタイ5:44)という聖書の教えに反する行為です。教会が地上の権力と手を結んだ瞬間から、福音が曲がって行きます。神の国はこの世にはないのです。
・第三の誘惑は神殿の屋根から飛び降りてみよとの誘いでした。「おまえが神の子であれば、神が守ってくださる。この屋根から飛び降りて、神の子であるしるしを見せれば、多くのものが信じるだろう。そうすれば神の国を作れるではないか」とのささやきです。それに対してイエスは言われました「あなたの神である主を試してはならない」。人々は繰り返し、しるしを求めました。十字架のイエスに対しても人々は言います「神の子なら自分を救え。十字架から降りて来い」(マタイ27:40)。現代の私たちもしるしを求めます。「私の病気を癒してください」、「私を苦しみから救ってください」、「私を幸福にしてください」。この後には次のような言葉が続きます「そうすれば信じましょう」。私たちは信仰さえも取引の材料にしているのです。
2.この世で試みにあう私たち
・荒野の試みの記事は多くのことを私たちに考えさせる箇所です。三つの誘惑には共通項があります。いずれも与えられた力を使って、地上に神の国を作れとの誘いです。貧しい人もパンを食べることのできる社会を作ろうという運動は、歴史上繰り返し現れて来ました。共産主義者は社会の不正構造が人々の口からパンを奪っていると考え、権力を倒し、理想社会を作ろうとしましたが、出来上がった社会は怪物のような全体主義国家でした。フランス革命も貧しい人々が立ちあがった運動でしたが、結果は血で血を洗う権力闘争に終ってしまいました。神の国はこの世にはない、あるいは人の努力では来ないのです。「人はパンだけで生きるのではなく、神によって生かされていること」を知らない限り、人間は争い続け、平和は与えられないことをこの教えは語ります。
・イエスの時代、人々がメシアに求めていたのは、ローマからの独立を勝ち取り、ダビデ・ソロモンの栄光を回復する指導者でした。多くのメシア自称者が立ち、ローマに抵抗しました。紀元66年熱心党がローマに対する武力蜂起を行い、イスラエル全土が熱狂的にこの運動に加わり、独立を目指すユダヤ戦争が始まりましたが、戦争はローマに制圧され、紀元70年エルサレムは破壊され、国は滅びました。この戦争に、生まれたばかりの教会は参加せず、エルサレムを脱出しました。「この世の支配権をあげよう」という悪魔の誘惑に従った人々は、国を滅ぼしてしまったのです。
・人々はイエスに繰り返し、しるしを求めました。十字架にかけられたイエスに対して人々は言います「神の子なら自分を救え。そして十字架から降りて来い」(ルカ23:35)。イエスは拒否され、十字架上で死なれ、その場を逃げた弟子たちは、やがて復活のイエスに出会い、従う者とされていきます。人はしるしを見て変えられるのではなく、神が自分たちを愛され、そのために行為されたことを知る時に、変えられていきます。現代の私たちもしるしを求めます「私の病気を癒して下さい」、「私を苦しみから救って下さい」、「私を幸福にして下さい」。そして言います「そうすれば信じましょう」。その時、私たちは神と取引しているのです。
3.主からの鍛錬としての試み
・今日の招詞としてヘブル12:5-6を選びました。次のような言葉です「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」。イエスは試みの中で最後まで、ご自分の力を用いようとはされませんでした。ある人は言います「キリスト者にとって最大の誘惑は、試みに会った時、自分で勝とうとする、また勝ちうると思う、更には勝たねばならないと思う時だ」と。
・カトリック教会では、祭司は独身を貫き、肉欲に打ち勝たなければいけないと勧めます。プロテスタント教会では信徒に禁酒禁煙を勧め、それが清くなることだと言います。しかし、人が自分の力で試みに勝とうとする時、そこに罪が生まれます。カトリック教会では抑圧された性欲が少年に向かい、多く性的犯罪を生みました。プロテスタント教会で禁酒禁煙を守る人は他の人がお酒を飲み、たばこを吸うことを許すことが出来ず、裁きます。人が自分で試みに勝とうとする時、その心は神から離れます。試みに負けて打ちのめされ、どうしていいかわからなくなる時、人は始めて神に生かされている自分を見出します。試みに勝つ必要はない、試みは神からの与えられる鍛錬なのです。
・政治学者の姜尚中さんは新聞社のインタービューの中で語ります「大学の非常勤講師をして埼玉県上尾市に住んでいた1980年代、キリスト教の洗礼を受けました。外国人登録法で義務づけられていた指紋押捺を拒否し、支援者のなかに牧師の土門一雄さんがいました。『すべてのわざには時がある』(コヘレト3:1)と言ってくれた土門牧師に救われました。今、時は自分にほほ笑んでいないが、その時が必ずくると。洗礼はトゥワイス・ボーン、「二度生まれ」です。自分の力ではどうしようもない宿命的な苦難のなか、これまでの自分はいったん死んで、生まれ変わるのです。2009年に長男が亡くなったことは人生が課した最も大きな試練です。自分がいなくなること以上に、愛する者がいなくなることが、こんなにもシリアスなんだ。洗礼を受けていなかったら支えきれなかったかもしれません」。
・姜尚中さんは続けます「同時に洗礼から学んだことは、不幸であるがゆえに、より強く生きがいを感じ、生きることの意味を深く詮索できることです。人生の目標は幸福にあると言われますが、違うと思う。人生の最後の1秒まで自分が生まれてきたことの意味を見つけ出すことです」。(2023年1月4日朝日新聞)。
・「自分が生まれてきたことの意味を見つけ出す」、試みや試練は私たちに人生の意味を考えることを促します。河野進牧師は50年間岡山のハンセン病病院で奉仕した人で、「病まなければ」という詩を詠みました。 “病まなければ聞き得ない慰めのみ言葉があり、捧げ得ない真実な祈りがあり、感謝し得ない一杯の水があり、見得ない奉仕の天使があり、信じ得ない愛の奇跡があり、下り得ない謙遜の谷があり、登り得ない希望の山頂がある”。自らが病むことによって始めて見えてくる世界があるのです。いろいろな試みがあります。ある人は重い病を与えられ、別の人は事業の失敗という挫折を与えられます。家庭の不和という苦しみを与えられる人もいます。しかし、苦しみの中で祈り、その祈りを通して、試みが私たちを導くために与えられたことを知る時、苦難や挫折の意味が変って来ます。
・ヘブル書は語ります「鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(12:11)。試みこそが私たちを門の外で苦難に遭われた主へ(ヘブライ13:12)、そして救いに導くのです。荒野の誘惑の記事が示しますことはそういうことでしょう。同時に教会はこの世的な繁栄を求めるべきでないことも知らされます。私たちの教会は30人ほどの小さな集まりですが、100人、200人の大教会を目指すことが大事だとは思いません。人数は少なくても、一人一人が福音を生活の中で生きる、そのような共同体を目指したいと願います。私たちはこの年にも、様々の苦しみや悲しみが与えられるでしょう。その苦しみや悲しみを通して、私たちに何が出来るかを祈り求めるように導かれるのです。