江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年1月1日説教(ルカ2:41-52、神の家族)

投稿日:2022年12月31日 更新日:

1.イエス12歳時の聖家族

 

・新しい年を迎え、今年は元旦に主日礼拝を持つことが出来ました。与えられた聖書箇所はルカ2章41節からです。クリスマスの次の主日は、伝統的に「聖家族」の祝日です。聖家族とはイエスを中心にしたマリア、ヨセフの家族のことで、今日の聖書箇所はこの家族の日常生活の一こまを伝えたものです。この物語はルカ福音書だけが取り上げています。それが本日読みます12歳の時のイエスです。
・ルカは記します「両親は過ぎ越し祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になった時も、両親は祭りの慣習に従って都に上った」(2:41-42)。ユダヤの成人男子は、三大祭りの時には、エルサレム神殿に参拝することが命じられていました。特に過越祭は大事な祭りとされ、マリアとヨセフもそういう慣習に従ってエルサレム神殿に参詣しました。また当時のユダヤ教社会では、男の子は12歳になると一人前と認められ、成人のお祝いをする習慣がありました。両親は12歳のイエスを連れてエルサレム神殿に参拝します。
・七日間の祭りが終わって一同は帰路につきました。巡礼の旅は村人総出で行いました。集団行動ですから、ヨセフとマリアはイエスがいなくなっても気付きませんでした。最初は「一体どこにいるのだろう」くらいに思っていたかも知れません。しかし夕方になって、家族ごとに集まる段になって、イエスがいないことがわかり、両親はあわてて、エルサレムに戻ってイエスを捜します。三日後にやっと神殿の境内でイエスを発見します。この三日間の両親の気持ちは大変だったでしょう。母マリアは言います「なぜこんなことをしてくれたのです」(2:48)。その時イエスは、「神殿の境内で、学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられ」ました。また「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いて」いました(2:46-47)。
・イエスは律法の教師たちの話を聞いたり、質問したりしていました。マリアは安堵のあまりイエスを叱ります「お父さんも私も心配して捜していたのです」(2:48)。イエスは答えます「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいることは当たり前だということを知らなかったのですか」(2:49)。マリアの言葉は、原語では「あなたのお父さんも私も」となっています。「あなたのお父さんも」という言葉に対して、イエスは「自分の父の家にいる」と言われたのです。自分の父、神こそが本当の父であるとイエスは言われました。「しかし両親にはイエスの言葉の意味がわからなかった」(2:50)とルカは記します。ただわからないながらも、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(2:51)。なんとかイエスを理解しようとしていたマリアの気持ちをルカは描いています。

・この個所について、説教者及川信は大胆な解釈をします。「自分の父の家にいるのは当たり前だとのイエスの言葉は父ヨセフにとってきつい言葉です・・・彼はダビデの家系の人でした。そしてマリアを妻として受け入れ、血縁的な意味では自分の子ではないイエスを自分の子として受け入れ、育ててきたのです。そのヨセフに対して、『あなたは私の父ではない。自分の父はこの神殿を自分の家とする方だ』とイエスは言われた。これは普通の子の言うことではありません。両親がイエスの言葉の意味が分からなかったのは無理もないことです」(及川信「ルカ福音書を読もう・上巻」)。イエスはヨセフを父として立てながらも、本当の父を求めておられた。ナザレの家が自分の本当の家ではないという違和感を持っておられた。そのイエスが本当の父を神殿で見出したのではないかと及川先生は語られます。この物語はイエスの父親探しの物語でもあるのです。

・イエスはナザレ村で、「この人はマリアの息子ではないか」(マルコ5:3)と呼ばれています。父の名で呼ばれることが当然の社会で、母の名で呼ばれる。そこにはイエスは「私生児」ではないかとの推測が含まれていると作家の曽野綾子さんは記します。「マタイ福音書では、ヨセフはマリアと婚約者の関係にあったが、まだ生活を共にしないうちにマリアは身ごもった。ヨセフはマリアを労わってこのことを表ざたにせず、ひそかに縁を切ろうとしたが、天使が夢に現れてマリアは聖霊によって身ごもったと知らされ、マリアを妻として受け入れ、男の子が生まれるまで、マリアと関係することはなかった。そして子をイエスと名付けた・・・しかし村人はイエスの出生に疑念を抱き、あの子の誕生は何かおかしい。ヨセフはマリアをかばっているが、あれはヨセフの子ではないだろと噂していた・・・聖書はこの事について一言も触れないが、私はイエスの現実生活については、この周囲のさげすみがイエスの人間としての一生に深くついて廻ったと思う・・・イエスは生まれた時から最低の汚辱にまみれて生まれた。しかし、これこそが神の布石だったと思う」(曽野綾子・イエスの実像に迫る)。

 

2.聖家族も完全ではない

 

・クリスマスから正月にかけて、家族と共に集まって時を過ごすという人は多いでしょう。逆に家族と共にいられない寂しさを感じる人もいるかもしれません。クリスマスやお正月は人が自分の家族を意識する時です。現代の日本では家族の絆が弱まっています。内閣官房は、孤独・孤立問題に関する初の全国調査を2022年度に実施しました。それによれば、「孤独だと感じることがあるか」の質問に対し、「しばしば」「時々」「たまに」を合わせると3人に1人(36.4%)が孤独を感じてとあります。その中で、年収が低いほどまた、心身の健康状態が悪い人ほど孤独感が強い。さらに無職の人や派遣社員の方の孤独感が高い。当然ですが、同居人がいない人は孤独感が高く、外出の頻度が高い人の孤独感は低い。それ以上に注目すべきは、「相談相手がいない人」と回答した人の80%が、孤独を強く感じています。「相談することで解決しなくても気持ちが楽になる」という回答が71.6%もありました。こういう分野においては教会にできることがあります。教会は主イエスから「この小さき者にしたのは私にしてくれた」と命じられている共同体なのですから(マタイ25:40)。

・イエスの少年時代のエピソードは、両親の庇護のもとで、イエスが「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(2:52)少年時代を過ごされたことを示しますが、一方で、少年イエスが両親の考えを超えた行動をし、両親にはそれが理解できないという話でもあります。イエスが神殿に残っているのに気づかず帰ってしまう親たち、神殿に残ることを親に言わずに心配をかける子。3日経ってやっと見つかった子は母に言います「神殿こそ私の父の家。そこにいるのは当然でしょう」。母マリアは叱りつけます「何を言っているのか、親が心配したことが分からないのか」。分かり合うことの難しい家族。これが愛の絆に結ばれたはずの聖家族にもあったのです。この時は、イエスは両親と共にナザレに戻られ、通常の家庭生活に戻られます。しかしやがて時が来て、イエスはナザレの家族を置いて自分の道を歩まれます。その時、家族はイエスを受け入れることが出来なくなります。

 

3.神の家族を形成する

 

・今日の招詞にマルコ3:33-35を選びました。次のような言葉です「イエスは『私の母、私の兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた『見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ』」。イエスは30歳の時に郷里を出てユダに行かれ、ヨハネからバプテスマを受けられました。その後イエスは故郷に帰らずに宣教活動を始められ、人々の病気を癒し、悪霊を追い出されました。群集はイエスの癒しを見て、「神の力が働いている」と称賛し、宗教指導者たちは、イエスは「サタンの力で業を行なっている」と非難しました。その中でイエスの家族たちは、「イエスのことを聞いて取り押さえに来た」(3:21)とマルコは記します。

・父ヨセフはイエスが10代の時に亡くなったようです。父亡き後、イエスは長男として、一家の生計を担うために、大工の仕事に従事されていました。イエスには4人の弟と2人の妹がいました(マルコ6:3)。イエスは家族を養うために30歳までナザレで大工として働いておられましたが、その後ヨハネ教団に入り、ヨハネが処刑された後も、家に帰らず、巡回伝道者となられました。家族にとって見れば、長男が家長としての責任を放棄して家を飛び出し、エルサレムの指導者たちから危険人物とのレッテルを貼られている、これは何とかしなければいけないと思った。だから「取り押さえに来た」。

・イエスの母と兄弟たちはイエスのところに来ましたが、家の中に入ろうとせず、「外に立ち、人をやってイエスを呼ばせ」(3:31)ます。「外に立ち」、イエスの話を聞こうとしない家族の気持ちが現れています。「家族がイエスを取り押さえるために来た」というマルコの記事は、後に書かれたマタイやルカの福音書では削除されています。イエスの兄弟ヤコブは、やがてエルサレム教会の指導者になって行きます。そのヤコブが生前のイエスを信じなかったばかりか、宣教を妨害しようとしたことを書く事をはばかった。母マリアは後に神格化され、聖母マリアとされて行きますが、その母でさえ、生前にはイエスをメシアとは信じていなかったとは書けないからです。

・取り次いだ者はイエスに知らせます「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたがあなたを捜しておられます」(3:32)。それに対してイエスは「私の母、私の兄弟とは誰か」と答えられます。イエスは実の家族に対して、「私はその人たちを知らない」と言われたのです。その後、イエスは彼の話を聞いていた人々の顔を見つめながら言われます「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる」(3:34)、「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」(3:35)。血の繋がった者が家族ではなく、信仰で繋がった家族、「神の家族」がここにいると宣言されたのです。

・イエスの家族はイエスの生前には、彼を受け入れることは出来ませんでした。イエスはこの後、肉の家族を持たない者として生きられます。そして、従う弟子たちにも家族を捨てるように求められます「私のため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも・・・後の世では永遠の命を受ける」(マルコ10:29-30)。この厳しい言葉の背景には、実の家族に理解されないイエスの悲しみがあります。教会に十字架があるように、家庭にもそれぞれの十字架があります。聖家族もそれを抱えていました。活動を続ければやがて殺されるかもしれないと思いながら、それを果たして行く子。それを理解できない母。イエスは十字架で死なれますが、しかし、神はイエスを復活させられました。この復活を通して、イエスこそ神の子と信じる群が起こされ、彼らは教会を形成して行き、共に住み、家族として一緒に暮ら始めます。

・その家族の中に、かつてはイエスを信じることが出来なかったイエスの家族も招かれています。「彼ら(弟子たち)は都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった・・・彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒1:14)。十字架と復活の出来事が、頑なだったイエスの兄弟たちの心を砕いていったのです。十字架と復活が新しい家族を形成する、それこそが神の国のしるしなのです。
・神の家族が集う場所、地上の教会は不完全な群です。しかし、神の国を先取りしている希望の共同体です。そこでは「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」という御言葉が通用する共同体であり、罪を犯した者、一人暮らしで孤独に悩む人も招かれ、世の願望が打ち砕かれる所です。世は悪で満ち満ちています。誰もが自分のことだけに囚われ、他者のことを考える余地がない世界で暮らしています。しかし、その世界に神の国は来ました。悪がなお力を振るっている世にあって、悪に従う事を拒否する群が形成されています。私たちの教会も神の国の出先です。ここにおいては、他者の為に祈ることの出来る群が形成されています。私たちこそ神の家族であり、どのような方も招かれ、受け入れられる場所です。新年にあたり、その事を共に覚えたいと願います。

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