1.パウロのお別れの言葉
・ローマ書を読み進めてきました。今日が最終回です。ローマ書は15:22以下が結びの挨拶となり、パウロがどのような思いでこの手紙を書いたのか、どのような希望を持っているかが、そこに述べられています。パウロはローマに、そしてイスパニアに行きたいと願っていましたが、今までは各地の伝道に忙しく、その時間が取れませんでした。彼は記します「こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行く時、訪ねたいと思います」(15:22-24)。パウロはシリアのアンティオキア教会を拠点に、三度の伝道旅行を行い、「エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」(15:19)。イリリコン州はイタリア半島の対岸、バルカン半島の地です。ローマ帝国の東半分の主要地にはあまねく伝道したので、これからはローマに行き、さらに当時の地の果てであるイスパニア(スペイン)まで行きたいとパウロは語っています。
・しかし今はエルサレムに帰る必要がありました。「今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです」(15:25-26)。福音はエルサレムからローマ帝国の各地に広がっていきました。異邦世界に広がっていった福音は、もはやユダヤ教という狭い枠を抜け出した新しい教えになっていました。他方、ユダヤ教の影響下にあったエルサレム教会の人々は、ユダヤ教の中核である「律法」からの自由を唱え、「割礼も不要だ」と語るパウロの教えに反感を持っていました。エルサレム教会では、「割礼なしに救いはない」と信じる人々が多数派だったのです。このままではエルサレム教会と異邦人教会は分裂すると危惧したパウロは、両教会の和解のために異邦人教会から献金を募り、それをエルサレム教会に捧げようと計画していました。その間の事情が27節以降にあります「彼ら(異邦人信徒)は喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。それで、私はこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます」(15:27-28)。
・しかしパウロがエルサレムに戻ることは命の危険がありました。何故ならばパウロはユダヤ教徒たちからは、キリスト教に回心した「裏切者」として命を狙われており、また保守派キリスト者からは「律法を軽んじる異端者」として排斥されていました。使徒行伝によりますと、エルサレムへの途上でパウロはエペソ教会の人々に会い、身の危険を感じていることを語ります「今、私は、霊に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」(使徒20:22-23)。
・エルサレムに行けば危険があると予想しながら、彼はエルサレムに行きます。神から与えられた仕事があるからです。パウロはローマの人々への手紙を締めくくるに当たり、信徒たちに祈ってほしいと伝えます「兄弟たち、私たちの主イエス・キリストによって、また、霊が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、私のために、私と一緒に神に熱心に祈ってください、私がユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対する私の奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように」(15:30-31)。「ユダヤにいる不信の者たちから守られる」とはユダヤ教徒から守られることであり、「エルサレムに対する奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように」とは、エルサレム教会がパウロからの申し出(和解の献金)を受け取ってくれるようにとの願いです。そして彼は祈ります「神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように」(15:32)。パウロはエルサレムでの用を終えたら、ローマに行く予定でした。
2.それからのパウロに起きた出来事
・パウロはエルサレムに向かいました。そのエルサレムで、パウロはユダヤ過激派の人々に襲われ、投獄されて、2年間カイザリアの牢獄に幽閉されます。エルサレム教会はパウロ助命のために何の努力もしませんでした。長い、失望の時が流れましたが、パウロはあきらめません。彼は獄中からローマ皇帝に上訴し、裁判を受けるためにローマへ移送されます。その結果、パウロは夢にまで見たローマに行くことが出来ました。但し、拘束された囚人として、です。使徒言行録は記します「パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された・・・パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し・・・神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(使徒28:16、30-31)。使徒言行録はここで突然に終わり、後のパウロがどうなったかは記されていません。歴史家はパウロはこの後、ローマで処刑されたと考えています。
・パウロが夢見た「ローマを訪問し、さらにはイスパニアにも行きたい」というビジョンは、ローマの牢獄に閉じ込められることで挫折し、処刑されることで果たされませんでした。パウロの夢は破れました。パウロは挫折の内にその生涯を終えたのです。多くの人も夢の実現を見ずに死んで行きます。一人の信仰者はその挫折を次のように歌いました「大きなことを成し遂げる為に、強さを求めたのに、謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。偉大なことをできるようにと健康を求めたのに、より良きことをするようにと病気を賜った。幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった。世の人々の賞賛を得ようと成功を求めたのに、得意にならないようにと失敗を授かった。人生を楽しむためにあらゆるものを求めたのに、あらゆるものを慈しむために人生を賜った。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。私はもっとも豊かに祝福されたのだ」(「無名戦士の詩」より)。
3.万事が益となるように共に働かれる神
・今日の招詞にローマ8:28を選びました。次のような言葉です「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています」。パウロは多くの論敵との戦いの中で伝道を進めました。パウロが開拓伝道したガラテヤ教会は「割礼を受けなければ救われない」と主張するユダヤ主義者の影響で、パウロが伝えた福音を捨てました(ガラテヤ5:13-15)。コリント教会の中にはパウロの使徒性を問題にし(第一コリント1:12)、「手紙では重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と批判する人も出てきました(第二コリント10:10)。パウロの伝道活動は失望の連続だったのです。しかしパウロは希望を捨てません。自分の業は神の御心にかなっていることを信じていたからです。彼は「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように神が共に働く」ことを信じていました。
・パウロはローマで殉教しました。人間的に見れば無念の死です。しかし、人にとって最も大事なものは何でしょうか。事業の成功でしょうか。華々しい成功をおさめることでしょうか。生前のパウロは、現在のような「大使徒」との評価を受けていませんでした。パウロの評価が高まったのは、紀元70年にエルサレムがローマ戦争の結果壊滅し、エルサレム教会が消滅した後です。エルサレム教会消滅後、教会の主力はコリントやエペソ等の異邦人教会となり、異邦人伝道に尽くしたパウロの評価が高まり、その書簡が集められ、編集されて、新約聖書の中核になって行きます。神は殉教したパウロを再び用いて下さったのです。これが神の御業、人間には知ることの出来ない摂理です。私たちは使徒言行録や手紙を通して、パウロの生き様や信仰を知り、パウロと出会い、その出会いが人生を変える出来事になっていきます。画家のヴァン・ゴッホの評価が高まったのも彼の死後で、生前に売れたゴッホの絵は1枚だけで、その値段は400フラン(4万円)だったそうです。いまゴッホの絵は1枚数十億円で取引されています。ゴッホの人生は不幸だったのでしょうか。そうは思えません。
・マルティン・ルーサー・キングは、「破れた夢」という説教の中で、ローマ獄中にいるパウロの気持ちを代弁します「われわれは、ローマのキリスト教徒たちに宛てたパウロの手紙の中に希望が裏切られる実例を見出す。その希望は『イスパニアに赴く時、必ずあなた方の処へ行く』というものだった。彼は当時知られていた世界の果てである同地にも、キリストの福音をのべ伝えたかったのである・・・彼は確かにローマに連れていかれたが、囚人としてであって、そこでは小さな独房に囚われることになった・・・その独房でパウロは祈った『自分はローマの独房に閉じ込められ、スペインに行くことが出来ない。どうすればこの恥辱の獄屋を救いに至るための苦しみの避難所に変えることが出来るのか』と」(キング説教集「汝の敵を愛せ」から)。
・キングは続けます「破れた夢を創造的に処理するわれわれの能力は、神に対するわれわれの信仰によって規定される。信仰は、時を超えて聖なる方がおられ、人生の彼方に生命があるという確信をわれわれに抱かせる。われわれは自分一人ではない、独房の中にも神はわれわれと共にいて下さる。たとえわれわれが地上の約束を受け取ることなしに死んでも、神はわれわれを天の都に連れて行ってくださるだろう・・・そしてわれわれはパウロと共に喜ぶ『御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを私たちは知っています』と」。
・この世の生は未完であって良いのではないか。私たちはこの世では約束の地を目指して旅をしますが、私たちの旅は死では終らない、死も途中経過の一つに過ぎないという希望を与えられています。この希望が与えられることこそ、最大の祝福ではないでしょうか。無名戦士のように「求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。私はもっとも豊かに祝福されたのだ」と告白することが出来ればそれでよいのではないでしょうか。へブル書は語ります「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです」(ヘブル11:13-16)。