1.現在の苦しみ
・今日、私たちはペンテコステ礼拝を捧げるために、教会に集められました。ペンテコステとはギリシア語で50と言う意味です。イエスが復活されてから50日目の五旬祭の時に、聖霊降臨という出来事が起こります。弟子たちはイエスの教えに従い、聖霊を求めて祈り続け、祈りに答えて聖霊が下りました。その時の様子を使徒言行録2章が伝えますが、それによれば、イエスの十字架死の時、逃げ出した弟子たちが公衆の面前で雄弁に語り始め、聴いた人々に回心が起きました。ペンテコステはイエスの言葉を聞くだけだった弟子たちが、自ら語る者となり、その結果、信じる者が起こされ、教会が生まれた記念の日です。その日弟子たちは様々な言葉で会衆に福音を宣教したと伝えられています。
・使徒言行録は記します「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして私たちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか』」。当時の共通語はギリシア語でした。ガリラヤの漁師たちが片言のギリシア語で語り始めたのです。日本にキリスト教を伝えたのはフランシス・ザビエルでしたが、彼は道案内をしたヤジロウから教わった片言の日本語で語り始め、やがて数万人の人がザビエルや宣教師たちの導きで洗礼を受けました。ペンテコステは言葉の奇跡が起こった日です。それはザビエルの時にも起こりました。そして今、私たちが各国の言葉で主の祈りを祈るのも、鬼澤さんが週報を英語・中国語・韓国語に翻訳して、外国人来会者に備えているのも、このペンテコステの出来事が私たちの教会でも起こりますようにとの祈りです。
・エルサレムに生まれた教会は伝道を続け、やがて福音は当時の世界の中心地ローマにまで届きます。その中心になったのが使徒パウロです。パウロはキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人で、ギリシア語を話せた知識人でした。だから復活のキリストは彼を召し、異邦人のための使徒として聖別されます「行け。あの者(パウロ)は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である」(使徒9:15)。復活のキリストに出会う前のパウロは、「神の怒り」の前に恐れおののいていました。彼は神の戒め=律法を守ることによって救われようと努力しましたが、戒めを守ることのできない自分を見出し、その結果、神の怒りの下にあることの恐れが彼を苦しめ、うめかせていました。その彼がキリストとの出会いを通して変えられていきます。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(8:3)。キリストの十字架を通して自分の罪が購われた、神の子としていただいた、とパウロは感謝します。
・私たちも同じような召命体験をして、「神の子」とされました。しかし現実の私たちはまだ肉の体をまとって、地上を生きています。この地上は、イエスを十字架で殺した場所、罪が支配している邪悪な場所(使徒2:40)、世の支配原理はエゴイズムです。競争社会の中では、他者を押しのけて勝つ者たちは「勝ち組」と呼ばれ、敗者は「負け組」と蔑まれます。パウロは語ります「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」(8:5-6)。あなたがたが「肉に従って」、「この世の価値観に従って」生きるなら、その結果は死である。しかし神はイエスを死から起された。命は神と共にある。だから「神の霊があなたがたの内に宿っている限り、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます」(8:9)。
・肉の思いから解放され、霊に生きる時、世の有り様が見えてきます。パウロは語ります「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものです」(8:20)。被造物、神の創造されたこの世界が、人間の罪によって、虚無の中でうめいているとパウロは語ります。人間の欲望が森林を乱開発し、地球規模で砂漠化を進行させ、大地から掘り出された鉱物や石油が大地を汚染し、世界各地で公害や大気汚染が起きています。炭素エネルギーの過剰使用は地球を温暖化させ、異常気象を招いています。コロナウィルスはもともと森林のコウモリに宿るウィルスで、森林が減り、動物と人間の距離が近接したために、人間に感染したと言われています。人間の果てしない欲望、罪が自然を破壊し、その結果、人間を苦しめています。預言者エレミヤは語りました「そこに住む者らの悪が、鳥や獣を絶やしてしまった」(エレミヤ12:4)。コロナウィルスの感染拡大も自然破壊という人間の罪の結果です。
2.苦しみを超えて
・しかしパウロは絶望しません。人間が贖われることによって、自然もまた回復することが出来ると彼は語ります。今は「生みの苦しみ」、救済への過程にあると彼は信じます「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」(8:21-22)。パウロは続けます「被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(8:23)。私たちは霊の初穂をいただきました。救いはすでに始まりました。しかし体は肉を持つゆえに罪の虜になっており、救いはまだ完成していません。ですからパウロは、「この体が贖われるその日を待ち望んでいます」と語ります。
・今現在、私たちの救いは目に見えません。現実の世界では、苦難が繰り返し襲い、私たちは疲れ果てて祈ることさえできない。しかし神は私たちのうめきを聞きとって下さる。私たちが祈れない時には霊が共に祈って下さる「私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」(8:26-27)。
・神の霊が私たちを支えてくれるゆえに、私たちは神の約束を信じて人生を歩み続けることが出来ます。その時、私たちは「万事が益となって働く」(8:28)ことを経験します。私たちの生活は苦難に囲まれています。苦難は決して良いものではありませんが、それが私たちのために最善に用いられることを知るゆえに、苦難を喜ぶことが出来ます。この三年間、私たちはコロナウィルスの蔓延に苦しめられ、痛みを覚えた日々を過ごしました。この痛みをどのように受け止めるか。ウィルス蔓延を神からの警告と受け取る時、災害の意味が変わってきます。前に「コロナウィルスからの手紙」をご紹介しました。「私はあなたを罰するために生まれたのではありません。私はあなたの目を覚ますために生まれたのです。地球は助けを求めて叫びました。大洪水、燃え盛る火事、猛烈なハリケーン、恐ろしい竜巻、でもあなたは耳を傾けなかった。あなたはただ自分の生活を続けていた。どれだけの憎しみがそこにあろうと、毎日何人が殺されようと、地球があなたに話そうとしていることを気にかけることより、最新のiPhoneを手に入れることの方が大切だった。でも今、私はここにいます。そして、私はあなたに熱を与え、呼吸障害を与え、弱さを与えました。そして今、あなたには自分の人生で大切なものは何かを考える時間が出来ました」(ヴィヴィアン・リーチ「コロナウィルスからの手紙」より)。
・神学者の由木康はローマ書注解の中で述べます。「キリストの十字架死は、私たちのための免疫注射である。罪という病毒に侵された世界に、罪のワクチンであるキリストが入り込んで、その毒を取り去ってしまわれた」(由木康「神の前に立つ人間」p119)。この注解書は今から50年前に書かれました。しかし今読むと、まさに現代を預言しているようです。ワクチン接種がウィルスから私たちを守るように、キリストの十字架死を救いとして受け入れた時、私たちは悪に対して免疫を持つ存在に変えられるのです。
3.将来の栄光のために
・今日の招詞にローマ8:33-34を選びました。次のような言葉です「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです」。パウロの生涯は苦難の連続でした。彼は同胞ユダヤ人からは、「裏切り者」として命をねらわれていました。母教会のエルサレム教会からは、律法を無視する異端者として批判されていました。開拓伝道したコリント教会やガラテヤ教会からも、「彼は本当に使徒なのか」と疑われていました。生涯の最後に、彼はローマで処刑されます。この世的に見れば、パウロの生涯は労苦のみ多く、報いは少なかった。
・しかし、パウロ自身の認識は異なります。彼は語ります「私は、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれを私に授けてくださるのです」(第二テモテ4:7-8)。私たちの目の前には、二つの人生の可能性があります。一つは「幸福な人生」、自己実現に励み、他者からの評価を求める人生です。しかし死ねばすべて終わり、死後には何も残しません。もう一つの人生は「意味ある人生」、他者のために働く人生です。その人生は死んでも終わらない、新しい命がそこから生まれてくるからです。多くの人々がパウロの言葉に励まされ、新しい人生を生き直すことが出来ました。
・パウロは語ります。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私たちを罪に定めることができましょう。キリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです」(8:33-34)。地上においては聖霊が私たちの心の内に働いて執り成し、天上においては復活されたキリストが私たちのために執り成される。神は私たちを守って下さる、だから地上で迫害や困難があっても恐れる必要はないと彼は書き送ります。
・人が地上の出来事に目を奪われている時、彼の信仰は揺らぎます。しかし彼が天上に目を向け、すべては神の支配の中にあることを確認する時、不条理も一時的なものであることに気づきます。彼を取り巻く現実は変わっていません。悪は栄え、彼は神の栄光に預かっていない。しかし心は平安です。彼はやがて死ぬでしょう。しかし神は死を超えて慈しんで下さると信じる故に、彼の心は平和です。救いは肉体の死を超えて存在します。信仰とは、この「目に見えないものを望んでいく」ことです。パウロは述べます「私たちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(8:24-25)。現在の苦難は将来の栄光のためにあることを知った時、「苦難が苦難のままに祝福になっていく」。それが私たちに与えられた福音なのです。