江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年11月5日説教(イザヤ42:1-9、叫ばず、傷ついた葦を折らない主の僕)

投稿日:2023年11月4日 更新日:

 

1.イザヤ42章の時代背景

 

・イザヤ書は40章から後半になり、第二イザヤと呼ばれます。そこでは、バビロンで捕囚になったイスラエルの民への解放の預言が詠われています。イスラエルは紀元前587年にバビロニヤにより、国を滅ぼされ、住民は捕囚として、バビロンに連れてこられました。それから、50年の年月が流れました。イスラエルを滅ぼしたバビロニヤもやがて国が傾き、前539年に新興のペルシャ帝国に滅ぼされてしまいます。ペルシャ王クロスは翌年、イスラエルの民を捕囚から解放します。イザヤ40章以降の預言はその歴史的背景の中でなされています。

・前回の宣教で、イザヤ40章を共に学びました。イスラエルの民に、「エルサレムに帰る日が来た」との慰めを伝える預言でした「慰めよ、わが民を慰めよ、・・・その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」(イザヤ40:1-2)。解放が告げられてから、実際にエルサレムに戻り、神殿を再建するまでには、まだまだ多くの苦難がありました。今日はイザヤ書42章から、バビロンからの解放と国の再建がどのようになされていったのかを見ていきます。私たちの教会も過去に長い間の無牧の時(捕囚の時とも言えるでしょう)を経て、現在に至っています。イスラエルの民が経験したことを通して、教会も回復の経験をしていきます。イザヤ書を通して、多くのことを学ぶことができると思います。42章は「主の僕の召命」として、有名な個所です

・解放の訪れを聞いた民に神の言葉が与えられます。「見よ、私の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」(42:1)。国を亡くし、希望を亡くして、50年もの間、屈辱の中に沈んできたイスラエルに、「私はあなたを捨てていない、あなたは私のものだ」と神が言われていると第二イザヤは歌います。捕囚は苦しい体験でした。

・詩篇の中には、捕囚時代の苦しさを歌ったものがあり、137編もその一つです。「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、私たちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。私たちを捕囚にした民が、歌をうたえと言うから、私たちを嘲る民が、楽しもうとして『歌って聞かせよ、シオンの歌を』と言うから。どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で・・・娘バビロンよ、破壊者よ、いかに幸いなことか、お前が私たちにした仕打ちをお前に仕返す者、お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は」(詩編137:1-9)。

・イスラエルにとって、捕囚とは、今、目の前で遊ぶバビロンの幼い子供たちの頭を岩にぶつけて粉々にしたいと思うほどの屈辱の日々でした。このような苦しみを経てきた民に、神は言われます「私はわが霊を彼に与え、諸々の国びとに道を示すため、あなたを選んだ」(42:1)と。神は、諸国民が神を知るようになるために、イスラエルを選ばれた。そして、イスラエルは本当の神の民になるために試練を与えられた。その試練こそ、国の滅びと民の捕囚であったとイザヤは理解しています。

 

2.主の僕の召命

 

・主の僕は、神の義と愛を諸国民に示すために立てられます。どのようにして示すのか、次の2-3節で述べられます。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」(42:2-3)。この世は力と力のぶつかり合う世界です。武力に優れたものが力で諸国民を制圧し、新しい支配者は彼の意志を使者に大声で叫ばせます。「支配者は叫び、声を上げ、その声をちまたに聞こえさせる」存在であり、誰もそれに異議を唱えることはできません。支配者の意志は、武力を背景にしており、逆らう者は殺されるだけだからです。バビロニヤ帝国はそうであったし、新しく支配者になろうとしているペルシャ王クロスもそうでした。

・イザヤ書41:25にクロスと見られる王の支配が描かれています。「私は北から人を奮い立たせ、彼は来る。彼は日の昇るところから私の名を呼ぶ。陶工が粘土を踏むように、彼は支配者たちを土くれとして踏みにじる」。この世の覇者とは、他の競争者を踏みつけて漆喰のようにし、陶器師が粘土を踏むように人々をねじ伏せる存在です。預言者は、神がペルシャ王クロスを使って、イスラエルの民をバビロンから解放されることを期待しています。事実、クロス王が前539年にバビロニヤを滅ぼすことによって、イスラエルは捕囚から解放されました。しかし、イスラエルの使命はクロス王のように、力で人々を制圧し、大声を上げて、その意志を強制することではありません。

・イザヤは歌います「(来たるべきメシアは)傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする・・・島々は彼の教えを待ち望む」(42:3-4)。傷ついた葦=苦難の中で弱り衰えた人々、ほの暗い灯心=希望の光をまさに失おうとする人々、そのような人々に道を伝えるためにイスラエルは立てられたと預言者は語ります。何故ならば、イスラエルそのものが50年間の捕囚を通して、傷ついた葦、ほの暗い灯心にされたからです。人々は疲れ果て、希望を亡くし、神の愛さえ信じることが出来なかった。彼らは捕囚の間、つぶやいていました「私の道は主に隠されていると、私の裁きは神に忘れられたと。」(40:27)と。この苦しみ、悲しみを知ったからこそ、イスラエルに新しい使命が与えられます。「傷ついた葦を慰め、ほの暗い灯心を励ます」神の心を伝えよとの使命です。「島々は彼の教えを待ち望む」、その救いはユダヤ人だけでなく、すべての諸国民はそれを待ち望んでいます。

・この世にあっては、折られたもの、消えつつあるものは死ななければならない存在です。古代世界にあっては、戦争で敗れた国の民は、殺されるか、奴隷として強制労働を強いられます。預言者の属するイスラエルもバビロニヤに国を滅ぼされ、民は捕囚として強制労働を課せられました。現代社会においても、競争に敗れたものは敗残者として捨てられ、子供たちは捨てられまいとして、必死に受験勉強を行い、いい大学、いい会社を目指します。大人たちも捨てられまいとして、必死で会社や家庭にしがみつきます。しかし、競争あるところ、必ず敗者が出、敗者は落ちこぼれとして捨てられます。東京では、毎日のように人身事故で電車が止まります。人身事故の大半は鉄道自殺です。電車が止まるたびに捨てられた人々の怨念が聞こえてくる世界に私たちは生きています。これは、神の望まれる世界ではありません。神は全ての人が、人間としての尊厳を以って生きられる社会を望まれています。

・それを具体化された方がナザレのイエスです。今日の招詞にマタイ福音書12章18-20節を選びました。次のような言葉です「見よ、私の選んだ僕。私の心にかなった、愛する者。この僕に私の霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける」。イエスは会堂で手の萎えた人を癒され、ご自分のことを言い触らさないように命じられました。そのイエスの姿にマタイはイザヤ42章の僕の姿を見ました。

・人々が求めていたメシアは、「剣を持ち、悪を懲らし、罪なき人を解放する」、政治的・軍事的指導者でした。ユダヤをローマ支配から解放し、ダビデ・ソロモン時代の栄華を回復するメシアを人々は望んでいました。しかし、マタイは、イザヤ書の預言を引用して、イエスはそのようなメシアではないと語ります「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことの無い」方こそメシア、救い主だとマタイは証言します。当時の人々は、重い病気や障害は神の呪いから来ると考えていましたから、病人や障害者は罪人として、社会から排除されていました。人々は病気や障害に苦しむだけでなく、社会からの疎外に苦しんでいたのです。「何故、私たちは社会から排斥されねばならないのか。何故、神はこのような冷たい仕打ちを許されるのか、神はおられるのか」。彼らは神の愛を疑い始め、信仰の火は消えようとし、生きる意欲も折れようとしていた。彼らこそまさに、「傷ついた葦であり、くすぶる灯心」でした。その彼らの病を癒し、障害を取り去ることこそが、まさに彼らを救う神の憐れみでした。マタイは「イエスの癒しの働きの中にこそ、神の救済の業が示されている」と証言します。

・イエスとファリサイ人を分けるものは、相手の苦しみに対する痛みです。イエスは悪霊追放を「争い」と言われました。癒しは戦いであり、癒す人は自分の身を削って癒す。イエスは、「彼は悪霊に取り付かれている」として排除されている人がいるからこそ、憐れまれた。障害があることはつらいことですが、それ以上に、障害ゆえに差別され、排除されることが問題なのです。イエスは片手のなえた人を癒されました。「片手のなえた人」は、当時の社会において、役に立たない、どうでも良い、目障りな人でした。イエスは片手のなえた人が、病で苦しむと同時に、社会の中で受入れられない苦しみを持つことを知り、憐れまれたのです。マタイはイエスの癒しの行為の中に、イザヤのメシア預言の成就を見たのです。

 

3.私たちへのメッセージとしてイザヤ42章を聴く。

 

・イザヤ42章の言葉を、この教会に語られた言葉として聞く時、何が聞こえてくるのでしょうか。この教会は江戸川地区の教会として立てられ、地域に伝道しましたが、より良き民として、訓練されるために、教会は分裂し、牧師が去り、大勢の教会員も去るという出来事を経験しました。牧師のいない2年を通して、この教会に残った人は強くされました。神の民に相応しいものにされました。この地域にも、傷ついて折れようとしている人、絶望してその炎が消えようとしている人がいます。その人たちに向かって、語るために私たちが選ばれ、訓練されました。私たちは苦しんだからこそ、苦しんでいる人々に語ることが出来ます。それは華々しい行いではなく、忍耐のいる行為です。呼びかけても答えがないこともあるでしょうし、失望があり、落胆があるでしょう。しかし、待ち望まれています(イザヤ42:4、「暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む」)。

・イザヤ42章では6節以下でイスラエルに与えられた使命が改めて述べられます。「主である私は、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために」(イザヤ42:6-7)。神がこの天地を創造し、今も、支配しておられる。バビロニヤもペルシャも、神の器にしか過ぎない。その中であなたがたが諸国民の光となるように選ばれた。それは、「あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった」(申命記7:7)。あなた方はバビロニヤやペルシャのような強国ではない。弱小の民族であり、それ故に苦しみ、悲しみを知る民族であった。だからあなた方を選んだ、あなた方を通して、私の義と愛とを伝えるためにと主は言われます。この教会の使命も同じです。教会も弱さを知った。弱さを知るものだけが、苦しむ人、悲しむ人を慰めることができます。

・私たちは、世界史を通じて、このイザヤ42章の預言が成立したことを知ります。バビロニヤを滅ぼしたペルシャはギリシャのアレキサンダーに滅ぼされます。そのアレキサンダーの帝国も分裂し、ローマが成立しますが、そのローマも今はありません。それに対して、政治的に軍事的に無力で弱かったイスラエルの民は2500年経った今も健在です。そして、今、私たちはそのイスラエルに語られた神の言葉に耳を傾けています。神は捕囚から解放されたイスラエルの民に言われました「あなた方は、捕囚の民として、敗残の苦しみを味わった。苦しみを知ったからこそ、他の苦しむ者のために道を示すことができる。その使命を果たすためにこそ、あなた方は捕囚を経験したのではないか」。それなのに現在のイスラエルは再び方向性を失いつつあります。イスラエルとパレスチナの戦争が突然に始まり、当初被害を受けたイスラエルは圧倒的武力でガザ地区を包囲し、電気や水道の供給を止め、ガザを支配するハマスをテロ組織と呼び、これを絶滅させるために地上侵攻し、多くの人が殺されています。「民族間の憎悪の爆発」が戦争の原因である限り、ハマスをせん滅しても新しいハマスが生まれるだけです。私たちは今こそ、「大声で呼ばわった強者たちは全て滅び、弱いと思われた神の僕だけが生き残った」歴史を見つめ、イスラエルに求められているのは「傷ついた葦を慰め、ほの暗い灯心を励ます」ことであることを想起すべき時なのです。

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