1.ゲッセマネにて
・マルコ福音書から、イエスの受難物語を読み続けています。今日は14章「ゲッセマネの祈り」を読みますが、物語には弟子たちの裏切りと見捨てが暗い影を及ぼしています。マルコは記します「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った・・・ユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた」(14:10-11)。木曜日にイエスは弟子たちと過ぎ越しの食事を持たれますが、この最後の晩餐においてもユダの裏切りがイエスの心の痛みになっています。席上でイエスは語られます「あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」(14:18)。食事を終えた一行はオリーブ山に向かいますが、途上でイエスは弟子たちに「あなたがたは皆私につまずく」と預言されます(14:27)。ユダはすでに一行から離脱し、イエスは今夜にも捕り手たちが来て、その時、他の弟子たちも逃げ出すであろうと予期されています。そのような重苦しさの中で、一行はオリーブ山に到着しました。
・オリーブ山はエルサレム郊外の小高い丘で、そのふもとにゲッセマネ(油絞り)の園がありました。オリーブの油を絞る設備があったところからその名がつけられましたが、イエスは以前にもよくこの場所に来ておられました。イエスは三人の弟子を連れて、園の奥深くに進んで行かれます。マルコはその時の情況を次のように記します「一同がゲッセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、『私が祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた『私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい』」(14:32-34)。
・エルサレム入城後、ユダヤ教指導者たちとの対立は日に日に強まり、その結果殺されるかも知れないとイエスは感じておられました。そして、いざ時が近づいた時、イエスはたじろがれ、不安になられ、もだえ苦しまれました。私たちが驚くのは、イエスが心の動揺を弟子たちにお隠しにならなかったこと、またマルコ福音書がそれをありのままに記していることです。私たちが苦しみの中にある時、その苦しみを人に知られまいと隠し、自分の力で何とかしようと思います。人は他者に対して弱さを見せることを嫌がり、自分を閉じるのです。しかし、苦しみを解決できない時、その苦しみは人を押しつぶします。イエスは自分の苦しみをありのままに弟子たちに示され、共に祈ってほしいと言われます。他者に対してその苦しみを見せることは、他者に自分を開くことです。
・「私は死ぬばかりに悲しい」、この言葉を弟子たちも聞き、彼らも共に祈り始めます。イエスは祈られます「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください」(14:36a)。「この杯」、逮捕され、殺されるであろう受難の時を過ぎ去らせてくださいとイエスは祈られます。しかし、神からは何の応答もありません。イエスは神の沈黙の中に、神の御心を見られました。だから彼は続けて祈られます「しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(14:36b)。「今、死ぬことに意味があるとは思えません。私には理解できません。しかし、それがあなたの御心であれば受け入れていきます」とイエスは言われました。
・イエスは死を受け入れる決心をされると弟子たちの所に戻られます。しかし、イエスと祈りを共にするはずだった弟子たちは、睡魔に負けて眠り込んでいます。人は自分のためであれば、徹夜で祈ることができます。しかし他者の苦しみや悲しみのためには徹夜できない。イエスは人間の弱さを知っておられるゆえに、ペテロを叱責されません。イエスはペテロに言われます「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(14:37-38)。
・イエスは再び奥の方に進み、祈られます。その後、戻られると、弟子たちはまた眠り込んでいます。イエスは弟子たちを起こさないように、祈りを続けられます。三度目の祈りを終えて帰ってきても、弟子たちはまだ眠り込んだままです。イエスは弟子たちを起こして言われます「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た」(14:41-42)。下の方から、ユダに率いられた捕り手が丘を登ってくる姿が見えます。三度の祈りを通してイエスは父なる神の御心を受け入れられました。「誰かが苦しまなければ救いはないのであれば、私が苦しんでいこう」。もうイエスには迷いはありません。その決意が「立て、行こう」という言葉の中に現れています。
2.私たちを赦される主
・この物語を通して私たちは人間の弱さを見ます。最初の弱さはイエスの弱さです。イエスは「死を前におののかれた」。人は言うでしょう「ソクラテスは不当な判決であるのにそれを平然と受け入れ、毒薬を飲んで死んでいった。それなのにイエスは死を前におののくのか」。しかし私たちはイエスの弱さに慰めを覚えます。私たちもまた、苦しみの杯を飲まなければいけない時があります。重い病に冒された、生涯をかけた事業が破産に追い込まれた、愛する人が亡くなった、人生には多くの波風があります。その中で私たちは必死に祈りますが、神が答えて下さらない時があります。どうして良いのか分からず、私たちは「もだえ苦しみます」。その時、私たちはイエスさえおののかれたことを知り、慰められます。私たちのために弱さを隠されなかったからこそ、この人は私たちの友となられるのです。
・二番目の弱さは弟子たちの弱さです。ペテロはイエスが「今夜、あなたがたは皆私につまずく」(14:27)と言われた時に、大見得を切りました「たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません」(14:29)。そのペテロはイエスが血の汗を流して祈っておられた時、目を覚ましていることができずに眠りこけ、捕り手たちが来た時は恐ろしくなって逃げ出しました。イエスが大祭司の屋敷に連行された時、ペテロは後を追いますが、屋敷の人々に「おまえもイエスの仲間だ」と問い詰められると、「そんな人は知らない」と三度否認します(14:71)。イエスが十字架につかれた時も、ペテロはそこにはいませんでした。聖書はペテロが挫折したことを隠しません。
3.私たちにとってのゲッセマネ
・今日の招詞にヘブル5:2を選びました。次のような言葉です。「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです」。私たちは、何かあれば、主を裏切り、見捨てて逃げかねない存在です。私たちがユダであり、ペテロなのです。イエスへの裏切りはその後の時代においても繰り返し起こっています。初代教会はやがてローマ帝国の各地に広がって行きますが、時のローマ皇帝の宗教政策により、ある時は迫害され、ある時は容認されました。キリスト教に寛容な皇帝の下では信徒は増え、否定的な皇帝の下では信徒は散らされていきました。迫害があると多くの信徒が棄教し、迫害が止むと教会に戻ってくるという出来事が歴史上繰り返し起こっています。
・「目を覚ましている」ことができない私たちがそこにいます。「心は燃えていても肉体は弱い」、その私たちのために「キリストは弱くなられた」。イエスは苦しみの中でも自分を閉じられず、弟子たちに弱さを見せて下さった。「大祭司イエスは、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができる」、まさにそこに救いがあるのです。
・へブル書は記します「キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブル5:7)。イエスは人として本当に苦しまれた故に、「神は復活という応答を与えて下さった」と私たちは信じます。だから私たちも教会の中で、お互いの弱さを隠さず、「祈ってほしい」と言うことができます。教会は相手を批判する場ではなく、相手の弱さを受け入れる場です。教会にあって、私たちは神の赦しを受け、神との平和をいただきます。神は弱い私たちを招き、神の業に参加することを許されておられます。
・イエスは私たちと同じように生きて、同じように死の苦しみと不安を覚えられました。この事実がイエスと私たちの距離を縮めます。神の前では全てが受け入れられます。嘆き悲しむ時は嘆き悲しんでも良いのです。イエスですら死に臨み、悲鳴をあげ、絶望されたのですから、死に直面した時の私たちの弱さを神は受け入れてくださいます。ユルゲン・モルトマンはその説教集「無力の力強さ」の中で、語ります「キリスト教信仰の中心にはキリストの受難史が立っている。この受難の中心には、神に見捨てられ、神に呪われたキリストの神経験が立っている。私にとってはこれこそ真の希望のはじまりである。何故ならばそれは死を後ろに追いやり、もはや地獄を恐れる必要のない、新しい生の始まりなのである。人間が希望を失う所、無力になってもはや何一つすることができなくなる所、そこでこそ、試練にあい、一人見捨てられたキリストは、そういう人々を待っておられ、ご自身の情熱に預からせて下さる。自分から苦しんだことのある者のみ、苦しんでいる人を助けることができるのである」。
・このモルトマンの言葉は彼の原体験から来ています。モルトマンは1926年ドイツのハンブルクに生まれ、18歳で軍隊に招集され、各地を転戦し、19歳の時に戦争捕虜となり、祖国の敗戦を捕虜収容所で迎えました。一緒に召集された仲間の多くは死に、故郷ハンブルクは空襲で焼け野原となりました。彼は収容所の中で自問自答します「なぜ私は生きているのか」、「なぜ私は他の人と同じように死ななかったのか」、「神よ、あなたはどこにいるのか」。その彼がアメリカ軍のチャプレンから一冊の聖書を贈られ、マルコ15章「わが神、わが神、何故私を見捨てられたのですか」とのイエスの叫びを聞いて回心を体験します。イエスの十字架死からの復活こそが、モルトマンを絶望から蘇らせたのです。
・今日の応答讃美に新生讃美歌73番をお願いしました。D.ボンヘッファーがナチスに捕らえられた獄中で書いた詩です。彼はこの詩を書いた半年後の1945年4月9日に処刑されました。処刑の前に彼が残した言葉が担当医師により記録されています。「私にとっては、これが最後です。しかし、また、始まりでもあります」。「人は苦い杯を受け入れてこそ、永遠の命を得る」のです。この言葉さえあれば、どのような苦難や不条理をも私たちは乗り越えることができます。今、ロシアとウクライナの戦争の中で、双方の兵士たちが殺され、捕虜となっています。ウクライナ国民だけではなく、ロシア国民も苦しんでいることに私たちは配慮すべきです。まさにモルトマンの苦しみを、ボンヘッファーの苦しみを、そしてイエスの苦しみを、今苦しんでいる人々が私たちの目の前にいることを覚え、祈りたいと思います。