1.クリスマスと旧約の預言者
・10月30日になりました。先日クリスマスキャンドルを注文しました。クリスマスを前に、私たちは旧約聖書・エレミヤ書を読んでいます。何故私たちはこの時期に旧約聖書を読むのでしょうか。それは「クリスマスとは何か」の意味を問うためです。Christmas の語源は、「Christ・mass」(キリストのミサ)、キリストの降誕を記念しお祝いする祭日です。キリストはヘブル語マーシアハ=英語Messiahのギリシャ語訳ですから、キリストが来られたということは、旧約の時代から長く待望されたメシヤが来られたことを意味しています。そのキリストはイエスという名前で来られましたが、イエスとはヘブル語イェシュア=主は救いを意味しています。この「主は救い」と呼ばれた人こそ、旧約聖書で待望されたメシヤの名前です。エレミヤは語ります「彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は『主は我らの救い』と呼ばれる」(23:6)。
・何故エレミヤはメシヤを待望したのでしょうか。エレミヤは23章の冒頭で主の言葉を叫びます。「『災いだ、私の牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは』と主は言われる」(23:1)。牧者とはイスラエルを支配する王たちです。イスラエルの王たちは民のために働かず、そのため民は散らされたと非難されています。この非難を理解するためには、イスラエルの歴史を知る必要があります。イスラエルはダビデ・ソロモンの時代に王国の繁栄期を迎えますが、ソロモン死後、王国は南北に分裂し、北王国イスラエルはアッシリヤの侵略を受けて滅ぼされます。南王国ユダは何とか危機を脱しますが、アッシリヤに代わるバビロニヤ帝国が地中海地域の支配権を握ると、バビロニヤは南王国に対して朝貢(ちょうこう)を要求します。ヨシヤ王の子エホヤキムの時、ユダ王国はバビロニヤへの従属を拒否し、バビロニヤ軍がエルサレムに攻めて来ました。エホヤキム王は攻防戦の中に死に、子のエホヤキンが新しい王になります。しかし、バビロニヤの軍事力に抵抗できず、エルサレムは陥落、エホヤキン王は高官たちと共にバビロンに捕虜として連行されます。紀元前598年、第一回バビロン捕囚です。その時、1万人の人が捕囚になったと聖書は伝えます。ただエルサレムそのものは破壊を免れ、バビロニヤは新しいユダの王として、エホヤキンの叔父ゼデキヤを立てます。
・ゼデキヤ王は当初こそバビロニヤに忠節を尽くしますが、やがてエジプトの支援を得て反乱を企て、エルサレムはバビロニヤ軍によって再度包囲されます。エレミヤ23章の預言はこの時に為されたものと言われています。相次ぐ戦乱の中で国民は疲弊しているのに、王たちは自分たちの宮殿を増築したり、戦費調達のために新たな税を課したりしています。その悪政が国を衰退化させ、民を困窮させました。神はこのような不法を放置されないとエレミヤは預言します「あなたたちは、私の羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。私はあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる」(23:2b)。王は民を養うために立てられているのに、あなたがたは自分を養うばかりで、民のことを気にもかけないではないか。だから私はバビロニヤを用いてあなたたちを倒すと主は言われるとエレミヤは伝えます。エレミヤは国の興亡の中に神の意思を見ているのです。
・預言は前586年に成就します。列王記は記述します。「王は捕らえられ、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行かれ、裁きを受けた。彼らはゼデキヤの目の前で彼の王子たちを殺し、その上でバビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った・・・バビロンの王の家臣、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、主の神殿、王宮、エルサレムの家屋をすべて焼き払った」
(列王記下25:6-9)。王は目の前で自分の子供たちを殺され、自身も目をくりぬかれて捕虜となり、エルサレムの神殿も王宮も火の海になりました。町は廃墟となり、目の前には数千、数万の死体が散乱しています。人々は呆然自失してその光景を見詰めています。その中にエレミヤもいました。
・エレミヤは国の滅亡を神の裁きと受け止めています。しかし神はイスラエルを滅ぼすために裁きを為されたのではない、神はイスラエルが悔い改めて立ち戻るために裁かれた。エレミヤは預言します。「この私が、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者を私は立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもないと主は言われる」(23:3-4)。神はタビデの切り株から新しい牧者を立てられる、その方こそメシヤだと彼は言います。「見よ、このような日が来る、と主は言われる。私はダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は『主は我らの救い』と呼ばれる」(23:5-6)。神は民を省みることをしなかったダビデ王家を倒されるが、その切り株のなかから新しい若枝を起こし、イスラエルは再び平安を与えられる。エレミヤはこの言葉に将来の救いを見たのです。
2.主こそ我らの救い
・今日の招詞として、私たちはルカ1:30-33を選びました。次のような言葉です「すると、天使は言った『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない』」受胎告知の場面です。主の使いはマリアに言います「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。先に見ましたように、このイエスとはヘブル語イェシュアで、「主は救い」を意味しています。エレミヤの待望した「主はわれらの救い」、メシヤこそイエス・キリストなのだ、イエスはダビデの若枝としてお生まれになった、ヤコブの家=イスラエルに救いが来たとルカは信仰を告白しています。
・マタイもまたイエスこそメシヤであることを告白します。マタイは冒頭の系図の中で記述します。「ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを(もうけた)」(マタイ1:11-12)。ヨシヤ王の孫が最後のユダ王エホヤキン=エコンヤです。このエホヤキンは捕囚としてバビロンに囚われますが、バビロンの地でシャルティエルが生まれ、その子ゼルバベルの時に許されてイスラエルに帰国します。そのゼルバベルの家系につながる者こそ、イエスの父ヨセフであるとマタイは言います。倒されたダビデ家の切り株から、イエスという若枝がお生まれになったことをマタイもまた信仰告白をしています。
3.主に従う者として
・約束された救い主、イエスが来られました。イエスご自身もメシヤとの自覚を持って、宣教を始められました。イエスは宣教の始めに、故郷ナザレでイザヤ書を読まれました「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4:18-19)。エレミヤ書でも、最も貧しい人々のために裁きと憐れみが行われるべきであると語られています。「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない(エレミヤ22:3)。イエスはイザヤやエレミヤ等の預言者の心を継承する方だったのです。
・しかし人は言います「イエスが来て何が変わったのか。人々は相変わらず憎み合い、殺しあっているではないか。人類の歴史は戦争と人殺しであふれている。どこにキリストの平和が実現したのだ」。その言葉に対して私たちは答えます「違う、私たちがいる。私たちは右の頬を打たれた時、左の頬を出す。イエスがそうされたからだ。自分自身が襲われても私たちは報復しない。イエスは十字架の上で、自分を殺す者たちのために祈られたからだ。殴られても殴り返さない、ののしられてもののしり返さない、悪に対して悪で報復しない、私たちを通してキリストの平和は実現するのだ」と。現実の私たちはもっと臆病で、このようなことを言う資格はありません。事実、私たち自身には何も誇るものはありません。
・しかし、私たちには希望が与えられています。エレミヤは捕囚になってバビロンにいる人々に手紙を書きました。「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、私はあなたたちを顧みる。私は恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。その時、あなたたちが私を呼び、来て私に祈り求めるなら、私は聞く」(エレミヤ29:10-12)。
・「あなたたちが私を呼び、来て私に祈り求めるなら、私は聞く」。この約束を信じて、バビロンの捕囚民は50年の時を生き残り、約束の地に戻ってきました。それから2500年、ユダヤ人は民族の同一性を保っています。北イスラエルを滅ぼしたアッシリヤ人は歴史の中に消えました。アッシリヤを滅ぼしたバビロンも滅亡し、その後を継いだペルシャも、ギリシャも、ローマも、今はどこにもいません。しかし、ユダヤ人は生き残りました。何故イスラエルのみが生き残ることが出来たのでしょうか。彼らには希望が、どのような時にも主は共におられ、闇を光に変えて下さるとの信仰があったからです。この信仰はバビロン捕囚という苦しみの中で与えられました。苦難が弱いイスラエルを強くしたのです。
・人生は過酷であり、時には悲惨です。会社が倒産すれば、従業員は路頭に迷います。親が離婚すれば、子どもたちは大きな傷を受けます。老親が寝込めば介護地獄が待っています。愛する人が死ねば大きな喪失があります。人生は苦難の連続のようです。しかし、苦難が弱いイスラエルを強くしたことを知った時、私たちはどのような苦難も災いも、神からの賜物として受け止めることが出来ます。捕囚という絶望的な出来事が、「平和の計画であって、災いの計画ではなかった」ことを知るからです。神の業は私たちに見えようが見えまいが、働いています。そして私たちは、神の業がイエスの降誕により成就したことを見ました。ですから、現実の生活がいかに過酷であっても、出口の見えない闇の中でも、私たちは希望を持ち続けることが出来ます。クリスマスとはこの希望を確認する時なのです。