1.捕囚帰国民の直面した困難
・私たちは8月から第二イザヤ書を読んできましたが、今日から第三イザヤ書に入ります。イザヤ書は40章から55章までが第二イザヤ、バビロンに捕囚となっていたユダヤ人に与えられた解放の預言です。50年間も異国の地に捕囚されていた民に、「祖国に帰る」との希望が語られます。そしていよいよ帰国の時が始まり、人々はイスラエルを目指して帰国します。しかし、帰国した民を待ち受けていたのは、飢饉や先住民たちの敵意でした。故国に戻ればすべてが良くなると考えていた人々は、現実を見て、「約束されたパラダイスはどこにあるのか」と不満を募らせました。その帰国民に語りかけたのが、第三イザヤと呼ばれる預言者で、その預言がイザヤ56章以下の記述です。
・帰国した人々が最初に行ったのは、廃墟となった神殿の再建でした。帰国の翌年には、神殿の基礎石が築かれましたが、工事はやがて中断します。先住の人々は帰国民を喜ばず、神殿の再建を妨害しました。また、激しい旱魃がその地を襲い、飢餓や物価の高騰が帰国の民を襲いました。神殿の再建どころではない状況に追い込まれたのです。そして人々はつぶやき始めます。そのつぶやきが59章にあります「私たちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」(59:9)。約束が違うではないか、どこに楽園があるのか。帰らなければ良かった、バビロンに残った方が良かったと帰国民は言い始めているのです。
・イスラエルの民は50年ぶりに帰国しました。帰ってみると、住んでいた家には他の人が住み、畑も他人のものになっていました。50年はそれほどに長い年月でした。彼らは「主が廃墟を楽園にして下さる」との励ましを受けて帰国しましたが、直面した現実は予想以上の厳しさです。彼らは言います「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(59:1)。主は何をしておられるのか、彼らの信仰が揺らぎ始めています。それに対して、「そうではない。問題は主にあるのではなく、あなたがたにあるのだ」と言って立ち上がった預言者が、第三イザヤです。彼は語ります「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(59:1-2)。そして預言者は現実を超えた希望を語り始めます。
・61章からの新しい預言です。「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(61:1)。主は、困難の中にあるあなたがたを慰めるために私を立てられた、良い知らせを伝えるために私に言葉を与えられた。「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」(61:3前半)私は立てられた。良い知らせ(福音)は、灰(悲しみ)を冠(喜び)に変える。主は悲しんでいるあなた方に、喜びの冠を与えると言われる。主はあなた方を通して、この廃墟をエデンの園に変えられる。あなた方こそまさに、「とこしえの廃墟を建て直し、古い荒廃の跡を興す者」なのだ(61:4)。
・中断された神殿工事は、やがて再開され、前515年に神殿は完成します(第二神殿)。帰国後20年が経っていました。しかし神殿が完成しても経済状態は改善せず、先住民との争いも再燃し、人々は異邦人排斥を主張します。神殿を喪失した捕囚の民は、「安息日を守り、割礼を受ける」ことに、民族のアイデンテティーを求めて、捕囚の時代を乗り越えてきました。帰国後、彼らは割礼を受けていない異邦人やサマリヤ人、宦官たちを共同体から排除していきます。律法(申命記)には共同体に入れない人々が列挙されています「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない。混血の人は主の会衆に加わることはできない・・・アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない」(申命記23:2-4a)。
・その混乱の中で、第三イザヤは第二イザヤの教えた「正義と公平」を取り戻せと人々に訴えます。それを記したイザヤ56章からの言葉が本日の主題です。「主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。私の救いが実現し、私の恵みの業が現れるのは間近い。いかに幸いなことか、このように行う人、それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人、悪事に手をつけないように自戒する人は」(56:1-2)。第三イザヤは「主は全ての民を救済される」として、民族を超えた救済に人々を導きます。「主のもとに集って来た異邦人は言うな、主は御自分の民と私を区別される、と。宦官も、言うな、見よ、私は枯れ木にすぎない、と」(56:3)。宦官も異邦人も救いの中にあると彼は宣言します。
2.絶望の中で再び希望を
・第三イザヤは「主なる神はユダヤ人だけの神ではなく、全世界の神である」として、継承された律法(申命記)の書き換えを要求します。聖なるテキストの撤回を求めて、宦官も異邦人も主の民になりうると彼は主張します。「主はこう言われる。宦官が、私の安息日を常に守り、私の望むことを選び、私の契約を固く守るなら、私は彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、私の家、私の城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない」(56:4-5)。宦官を同胞の民として受入れなさいとイザヤは人々に勧めます。これは申命記律法の書き換えの要求です。さらに無割礼の異邦人をも受け入れよとイザヤは語りますが、これもまた申命記の書き換えの要求です。「主のもとに集って来た異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、私の契約を固く守るなら、私は彼らを聖なる私の山に導き、私の祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物と生贄をささげるなら、私の祭壇で、私はそれを受け入れる。私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(56:6-7)。
・救いは身体に障害を持つ人にも及び、全ての民族に解放されます。ここに民族の枠を超えた救済論が初めて成立しました。ある意味で、旧約聖書を越えた福音が語られています。まさに革命的な言葉です。その福音が新しい流れを生みます。使徒言行録によりますと、エチオピア人の宦官は神殿の礼拝に参加しましたが、宦官であり異邦人である彼は仲間から歓迎されず、失意のうちに故国に帰ろうとしていました。その時、イエスの弟子フィリポは彼に語りかけよとの主の命令を受け、ガザに至る道に行き、帰国途上の宦官に出会います(使徒8:26)。彼は馬車の中でイザヤ書を読んでいました。フィリポは宦官に語りかけ、宦官は質問します「どうぞ教えてください。預言者(イザヤ)は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」。「異邦人で、なおかつ宦官である私も救われますか」と彼は訊ねたのです。フィリポは口を開き、「聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った『ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか』。フィリポが『真心から信じておられるなら、差し支えありません』と言うと、宦官は、『イエス・キリストは神の子であると信じます』と答えた」(使徒8:34-37)。第三イザヤにおいてキリストにつながる福音が既に述べられ、その福音が500年の年月を経て一人の魂を救いました。そしてこのバプテスマにより、エチオピアにもキリストの群れが生まれていきます。
3.新しいイスラエルの創造
・今日の招詞にルカ4:18-19を選びました。次のような言葉です「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。この言葉はイエスが宣教のはじめに故郷ナザレの会堂で読まれたイザヤ61章1-2節の引用です。イエスは第三イザヤの言葉を、ご自分の宣教の旗印とされたのです。イエスはこの言葉を読まれた後、人々に宣言されました「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」(ルカ4:21)。救いの業が始まったと宣言されたのです。
・律法主義の下にある人間関係の基本は差別です。割礼を受ければ救われると信じるユダヤ人は、無割礼の異邦人を救いから除外しました。女性は、結婚前は父親の、結婚後は夫の財産でとして、一段低いものとみなされており、救いの対象外でした。奴隷も、人権などなく、救いの呼びかけはなされませんでした。律法主義の下にあっては、人は属性により、順位付けられていました。しかし、福音は律法の束縛からの解放をもたらします。パウロは語ります「キリストにあってはユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない」(ガラテヤ3:26-28)。キリストの十字架を通して、私たちは、律法の束縛から自由になり、信仰によって神の子とされた。だから「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは・・・もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。
・今日の世界において、依然、民族や性別や身体的な差別があり、女性は男性と同権ではなく、障がい者は卑しめられています。世の中にはまだ優劣概念、律法主義が根強く残っているからです。私たちの社会はいまだ律法の軛から解放されていない。だから、私たちは、キリストの福音を宣べ続けなければいけないのです。イザヤの時代から2500年、イエスの時代から2000年、時代が変わっても、本質的な問題は何も変わっていません。人々は現在の生活に不満を持ち、明日の生活に不安を持っています。その中で唯一変わった事は、預言者の言葉に耳を傾け、イエスの言葉を受け止める人々が生まれたことです。私たちはその流れの中にいます。
・イザヤの預言は、キリストによって新しい力を与えられ、パウロやルカを通して、私たちにも伝えられました。イザヤは語りました「私の選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと」(イザヤ58:6-7)。シリアでは11年以上の内戦により国民生活は崩壊し、イエメンやレバノンでは殺し合いが続き、飢餓で多くの人々が命を失っています。その中で、「貧しい人を家に招き入れ、裸の人に衣を着せかけ、同胞に助けを惜しむな」と語られた私たちは、何かをすることが求められています。私たちは集められ、神の言葉を聴き、神の国完成のために働きます。私たちはイザヤやイエスに励まされて、神の国建設のために行動を行う者となるのです。