1.山上の説教を改めて聞く
・今日は8月14日、明日8月15日は77年目の敗戦記念日です。敗戦記念日を前に、私たちは「平和とは何か」を考えるために、山上の説教を読みます。山上の説教は八つの祝福から始まります。文頭に「幸いなるかな」が置かれ、次々に祝福が展開されて行きます。イエスの元に集まってきた人々は幸福を求めていました。ある者は長い間苦しめられている病気を治してもらいたいと願い、別の人は食べるものもない貧しさから解放されたいと集まって来ました。彼らはいずれも「現在の情況さえ変われば、この苦しみさえ取り除かれれば、幸福になれる」と思っていました。しかし、イエスは、「あなた方は貧しい、貧しいから幸いなのだ。あなた方は悲しんでいる、悲しんでいる者こそが幸いだ」と言われました。あなたを今、苦しめている貧困や病が取り除かれることが救いではない。取り除かれてもまた新しい災いや苦しみが来るだろう。「神があなたになぜ、このような苦しみや悲しみを与えて下さるかを考え、与えられた病や貧困を感謝して受けることこそ救いではないのか」とイエスは問われます。イエスの教えは世の教えとまるで異なります。
・イエスは弟子たちに祝福の言葉を語られます「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(5:3)。「貧しいあなた方こそ天の国に招かれている。神はあなた方の貧しさを知っておられる」、イエスは貧困で苦しむ者たちに、「天の国はあなた方のものである」と語られています。次の祝福は悲しみです。「悲しむ人々は、幸いである」(5:4)。逆境に追いやられて初めて人は、「あなたはなぜこのような悲しみをお与えになるのか」と神に問い、神から言葉をいただき、そのことを通して神の慰めと憐れみを知ります。それ故に幸いなのです。
・三番目の祝福は「柔和な人々は、幸いである」(5:5)。この世界には、ものを言うのは「力」だという信仰が根強くあります。「武器を多く持つ者が勝つ」と人々は信じ、この考えが攻撃と反撃、テロと報復の悪循環を生んでいます。イエスが私たちに教えられたのは、「殴られても殴り返さない。踏まれても踏み返さない」、そういう方法でなければ本当の平和は来ないとの教えです。「平和を創り出す」とはそのような意味です。6節では「飢え渇く人は幸いだ」と語られています。当時のユダヤでは、民衆の多くは土地を持たない小作農であり、豊作時でさえ食べていくのがやっとで、凶作になれば飢え、病気になれば死ぬばかりの生活でした。彼らはひたすら救い主を待ち望み、生活が変えられる日を待望していました。その彼らにイエスは「あなた方は満たされる」と語られました(ルカ6:21b)。
・五番目の祝福は「憐れみ深い人々」に与えられています。イエスは、「人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」(6:14)。憐れみ深い人とは、隣人の過ちを赦し、非難しない人です。自分も過ちを犯す存在であることを知るからです。六番目の祝福は「心の清い」人々への祝福です(5:8)。「心の清い者だけが神を見る」(5:8)、私たちは打算なしに神を求めているのか、それともどこかで見返りを求めているのか。七番目の教えは「平和を実現する者への祝福」です(5:9)。今日の中心課題です。祝福されているのは、「平和を愛する人」ではなく、「平和を創り出す人」です。
2.平和を実現する人は幸いである
・今日は山上の祝福の中で、第七の言葉「平和を実現する人々は幸いである」を中心に御言葉を聞いていきます。祝福されるのは「平和を創り出す人」であって、「平和を愛する人々」ではありません。「平和を愛する人々は幸いである」、「平和を願う人々は幸いである」と言われたのであれば、私たちにもできるかもしれませんが、「平和を創り出す人々は、幸いである」と言われると、難しい課題になります。マキャベリは語りました「戦争というものは、誰かが望んだ時に始まるが、しかし、誰かが望んだ時に終わるものではない」。戦争を終わらせることさえ難しいのに、「平和を創り出す」ために、「平和を実現するために力を尽くせ」と語られています。
・人間の歴史は戦争の歴史であり、私たちの国も繰り返し戦争を行ってきました。明日8月15日は敗戦記念日です。私たち日本人は8月15日を「神の審きの日」と受け止め、戦争放棄を掲げる憲法を制定し、「もう戦争はしない」と決意しました。8月15日を敗戦記念日と呼ぶ時、そこには自分たちの罪に対して神の審きが下されたという悔い改めがあります。私たちは中国や韓国やその他の国で取り返しのつかない罪を犯した、済まなかったという気持ちがそこにあります。ところが時代が移り、8月15日の意味が変わってきました。「敗戦記念日」が、いつの間にか「終戦記念日」に変わります。終戦記念日と呼び変えた時、「苦しい戦争がやっと終わった」というニュアンスに変り、「私たち日本人も戦争で苦しめられた。原爆では大勢の人が死に、空襲でこんなに被害を受けた」という被害者意識が出てきます。日本が変わり始めました。
・もう戦争はしない、戦争のための武器を持たないという平和憲法で再出発しながら、今では「自衛力を持ち、周りの国から尊敬される普通の国になろう」としています。世の人は言います「8月15日を敗戦の日と呼ぶのは止めよう、77年も前のことではないか、日本人が罪を犯したとしても、もう許されて良い。十分な時は流れた」と。しかし、私たちキリスト者はあくまでもこの日を敗戦記念日として覚えます。私たちの罪に対して神の審きが与えられた日として記念するからです。現在の私たちは、国を守るために軍隊を持ち、他国と防衛条約を結び、領土の一部を軍事基地として他国に提供しています。また唯一の被爆国であるにも関わらず、「核兵器禁止条約」に加盟することさえできていません。軍隊は国を救わないし、核の威嚇も他国との相互防衛条約も何の意味もないことを、私たちは77年前に痛いほど体験しました。私たちは国を救うのは武器や同盟ではないことを知っています。私たちはその思いを政治活動ではなく、福音の伝道を通して伝えていきます。そのために8月15日を「終戦記念日」ではなく、「敗戦記念日」、私たちの「悔い改めの日」として覚えます。
3.現実の世界情勢の中で
・今日の招詞として、ローマ12:20-21をえらびました。次のような言葉です。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」。世の人々は言います「愛する人を守るためには暴力も止むを得ない。悪を放置すれば、国の正義、国の秩序は守れない。悪に対抗するのは悪しかない」。この論理は現代においても貫かれています。襲われたら襲い返す、武力の威嚇の下に平和は保たれています。今評判になっている逢坂冬馬著「同士少女よ、敵を撃て」は、侵略してきたドイツとの祖国戦争を戦ったロシア人狙撃兵を主人公にした小説です。その中で語られています「ドイツ人を殺せ、もしドイツ人を殺さなければ、彼に殺される。ドイツ人を殺せ、ドイツ人を生かしておけば、奴らはロシア人の男を殺し、ロシア人の女を犯すだろう」(p193)。戦争の本質がここに語られています。同じことが今のウクライナでも生じています。「侵略者ロシア人を殺せ、もしロシア人を殺さなければ、彼らに殺される」と。しかし、イエスはこのような敵対関係を一方的に切断せよと言われます。
・「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」。世の人々は、イエスの語られることは理想主義的で、現実にそぐわないとします。しかし、人間がお互いを信じられない時、平和は生まれません。右の頬を打たれたら左の頬を出す、それだけが争いを終らせる唯一の行為だと聖書は言います。「敵を愛せよ、敵を愛することによって、敵は敵でなくなるのだ」と。パウロはこのイエスの言葉を受けてローマ書を書いています。それが招詞の言葉です。
・そのパウロの言葉を政治的に具体化したものが、日本国憲法です。憲法前文は次のように述べます「日本国民は、恒久の平和を念願し・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。人間の歴史、人間の本性から見た時に、「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持する」ことが出来ないことを私たちは知っています。憲法は9条2項で「一切の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」と宣言します。それはまるで、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)というキリストの言葉の具体化です。この憲法は歴史的には、日本を占領したアメリカ駐留軍の中の急進派クリスチャンたちが起草したものであり、聖書の信仰が基礎になっています。いま憲法改正の動きが出ていますが、それは当然です。非キリスト教国である国の憲法が、聖書の言葉に基づいて書かれていますから、多くの人々が違和感を持っているのです。イエスの語られた絶対平和主義が現実的ではないことを私たちは知っています。しかし同時に、報復を求める者には、絶対に「平和は来ない」ことも知っています。私たちはこの世の現実を越えた神の理想を追い求めていきたい。
・1967年キング牧師は「ベトナムを越えて」という説教をしました(NY、リバーサイド教会)。彼は語ります「何とかしてベトナム戦争のこの狂気を止めなければならない。今すぐ、止めなければならない。神の子として、また苦しんでいるベトナムの貧しい人々の兄弟として私は語る。土地を荒らされ、家を破壊され、文化が侵害されている人のために私は語る。また故国では希望が粉砕され、ベトナムでは死と腐敗の道具にされるというアメリカの貧しい人々のために私は語る・・・私はアメリカを愛する者として、アメリカの指導者に向かって語る、この戦争に終止符を打つ主導権はひとえに我々の手の中にあるのだ」(キング説教集「私には夢がある」から)。この説教は不人気でした。アメリカ人の多くは、「今はベトナム戦争のために国が団結しなければならないのに、これでは分断が深まるばかりだ」と批判しました。当時の世論調査では、白人の72パーセントと黒人の55パーセントがこの説教に不支持を表明したそうです。しかし不人気であっても語ることが必要です。
・平和を創り出すためには、中村哲さんの生き方が一つのモデルになります。バプテスト教会の先達、中村哲さんは1984に日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)から、パキスタン・アフガニスタン国境の町ペシャワールの「クリスチャン・ホスピタル」にハンセン病治療のために派遣された医師でした。しかし、いくら治療しても患者は減らない。彼は今必要なことは医療よりも、病気の原因である飢餓と不衛生な水の問題を解決することだと思い、まず井戸を掘って衛生的な水を供給し、次に水路建設を行って砂漠を農地にすることを自らの使命とし、以来30年働いてきました。彼は1000を超える井戸を掘り、15年間をかけてインダス川支流から水路を引き、かつて「死の谷」と呼ばれた砂漠が、今では緑の地に変っています。
・やがてアフガニスタンはアメリカとの戦争に巻き込まれ、水路工事を行う中村哲さんの上空を武装ヘリコプターが飛び交います。彼は語りました「彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る」。
人間は町や村を破壊し、無数の人びとを不幸のどん底に落とすことができる一方で、砂漠に水を引き、緑をよみがえらせ、無数の人々に幸福をもたらすこともできる。すべては私たちの選択にかかっています。中村哲さんは亡くなりましたが、多くの人々が意思を継いで活動しています(ペシャワール会)。そして私たちもペシャワール会への献金を通して、中村哲さんの意思をつなぎ、平和に貢献する者になりたいと願います。