1.キリストにある選びを喜ぶ
・今日から私たちは6回にわたって、エフェソ書からみ言葉をいただきます。エフェソはアジア州の中核都市で、そこにはローマ総督府があり、異教のアルテミス大神殿もありました。その地にキリスト教が伝たえられたのは紀元50年頃、使徒パウロの開拓伝道により、教会が生まれました。ただ当時、キリスト教は邪教としてローマ帝国からの迫害を受けており、また教会内にユダヤ人と異邦人の争い等もあり、多くの困難を抱えるようになります。さらには、ヘレニズム文化の影響を受けて、福音が使徒たちの伝えたものから変質し、教会内に「何が正しい信仰なのか」をめぐっての争いが起こり、混乱が拡大していました。そのため、この地域のキリスト教会に責任を持つ牧会者(パウロの弟子)が、キリストの教え(福音)を再度確認するために書かれたとされています。時期は紀元80年頃とされています。
・同時代と思われますヨハネ黙示録の記述が当時の教会の状況を想起させます。「エフェソにある教会の天使にこう書き送れ・・・私は、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、私の名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、私はあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」(ヨハネ黙示録2:1-5)。エフェソの教会に異端(2:6によればニコライ派)が入り込み、それとの戦いの中で教会内にお互いを批判する動きが出て、愛し合うことを忘れた状態になったのでしょう。
・手紙の著者は、エフェソにいる兄弟姉妹たちを、「聖なる者たち=聖徒」と呼びます。神に聖別された者たちがこの地上でどのように生きるべきかが手紙の主題です。エフェソ書の特徴は壮大な宇宙的教会論があることです。牧会者は「天地創造の前から、私たちが生れる前から、私たちは神に選び出され、子とさせられた」と語ります(1:3-5)。世の多くの人がキリストを救い主として信じることが出来ない時、私たちが信じる者とされた。これは、神の選びが私たちの生まれる前からあったからだと語られます。
・人間の不幸の多くは「神から離れている」ことから来ます。ギリシャ語の罪、「ハマルティア」は真理から外れて道を踏み外す、神に背を向けるという意味です。神から離れた時、私たちは自己中心に生き、その時、他者が持っているものを妬み、自分が持っているものは離そうとしません。そして欲望が妬みを招き、妬みが争いを招き、争いが人を不幸にします。著者は語ります「神がその愛する御子によって与えて下さった輝かしい恵みを、私たちが称えるためです。私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(1:6-7)。「私たちは、キリストを知る前は、霊的には死んでいた、この私たちのために、神はキリストを立て、罪が十字架に葬り去られ、私たちは神と和解した」のです。
・何故、神は私たちを選ばれたのか、それは私たちをご自身の器として用い、私たちを通して、この地上の人々全てを救おうとされるためだと著者は語ります。そのために、私たちがまず選ばれた。「神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画を私たちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(1:8-10)。
・私たちは自分たちの救いだけでなく、他者の救いにも責任を持つ者、神の業を共に担う者とされ、私たちに与えられている聖霊はその保証です。私たちの救いは、既に手付金が払われて保証されていると著者は語ります。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、私たちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(1:13-14)。
2.牧会者の祈り
・著者の最大の願いは、人が父なる神と出会い、神の愛を知り、新しく変えられて生き始めることです。「主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いて下さるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように」(1:17-18)。神の力がどのように大きいものであるか、それはキリストを死から復活させ、天に上げられた力なのです。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」(1:20-21)。
・この力を神は教会に与えられました。教会こそ地上におけるキリストの体、やがて来る神の国の先触れなのです。「神はまた、全てのものをキリストの足もとに従わせ、キリストを全てのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、全てにおいて全てを満たしている方の満ちておられる場です」(1:22-23)。イエスに「従う」には、二つの段階があります。まず、自分が救われる、その経験を通してイエスに従う第一の段階です。しかし、この段階に止まる限り、福音は福音にならない。何故なら苦難が与えられた時、人は神を信じることをやめるからです。「信じても何もならない」と思い始めた時、人は教会から、そしてイエスから離れていきます。
・次の段階は弟子としての信従です。私たちの準備が整った時、弟子として従うように招かれます。私たちは招きを聞き流すことも出来ますし、しばらく待ってくださいと猶予を願うことも出来ます。そしておそらく、私たちが招きに応えなかった時には、呼び集められた者の群=教会から、脱落していきます。福音は「自己の救いから他者と共の救い」に発展しない限り、力を持たないのです。ボンヘッファーは語ります「キリストの生涯は、この地上でまだ終わっていない。キリストはその生涯をキリストに従う者たちの生活の中で、更に生きたもう」。私たちは神の国の建設のために働くものとして召されたのです。
3.神を知る時に人は初めて人となる
・今日の招詞にヨハネ16:33を選びました。次のような言葉です「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。エフェソ書の著者は、この世に住む私たちは「世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、不従順な者たちに今も働く霊」(2:2)の支配下にあると認識します。だから、私たちは「信仰を盾とし、救いを兜としてかぶり、御言葉という霊の剣を持って」(6:16)戦います。その戦いは困難に満ちています。しかしイエスは既に勝利されているとヨハネは証しします。
・エフェソ書で繰り返し現れる霊力はストイケア(悪魔的諸力)です。著者は語ります「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。私たちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(2:1-3)。私たちを支配する霊力との戦いをエフェソ書の著者は力説します
・神なき世界では、世は弱肉強食の、食うか食われるかの世界となります。著者はそこに悪魔的霊力(ストイケア)が働いていると見ます。そこにおいて生きることは、相手への貪りとなり、貪りは争いを生み、争いは平安を壊し、私たち自身もその中で滅ぼされてしまう世界でした。現実の世界は理性や建前ではなく、利害関係で動いています。そこでは暴力や富、恐怖や不条理、差別や嫉妬という力が人間を支配しています。それをエフェソ書の著者はストイケア(悪魔的諸力)と呼び、それと戦えと語ります。
・人は神を知る時に始めて人となりうる存在です。神を知らない人は恐れと孤独から攻撃的になります。創世記に登場するカインの子孫レメクの言葉は人間の根源的不安を言い表しています。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならレメクのためには七十七倍」(創世記4:23-24)。敵に対する恐怖がレメクを攻撃的にしています。
・アメリカのように文明の進んだキリスト教国でも人は武器(銃)を捨てることができず、銃による大量殺人事件が繰り返し起こっています。しかし、銃規制はなかなか進みません。アメリカでは3億丁の銃器があり、そのうち2億丁は殺傷力の強いライフルやショットガンです。自己防衛であれば拳銃で十分で、ライフルやショットガンは防御というよりも攻撃用です。イエスが「剣を捨てよ、剣を取る者は剣で滅びる」と言われ、それを聞くキリスト教徒が人口の半分を超えるアメリカ人でさえ、イエスに従って武器を捨てることはできません、敵に対する恐怖が人を攻撃的にしています。レメクの物語は今日でも生きているのです。それに対して、エフェソ書は語ります「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(6:10-11)。神の武具は「御言葉と祈り」です(6:17-18)。
・この世界は民族と民族が争い、人と人がいがみ合い、ののしり合う世界です。世の人々は言います「愛する人を守るためには暴力も止むを得ない。悪を放置すれば、国の正義、国の秩序は守れない。悪に対抗するのは悪しかない」。この論理は現代においても貫かれています。軍隊を持たない国はなく、武器を持たない軍隊はなく、その武器は人を殺すためにあります。襲われたら襲い返す、武力の威嚇の下に平和は保たれています。しかし、悪に対抗するに悪で報いる時、敵対関係は消えず、争いは終りません。「目には目を、暴力には暴力を」、この論理によって人間は有史以来、戦争を繰り返してきました。
・しかし、イエスはこのような敵対関係を一方的に切断せよと言われます。「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」(マタイ5:39)。殴られたら殴り返すことが正義である社会においては、仲間以外は敵であり、敵とは信用出来ない存在です。人間がお互いを信じられない時、平和は生まれません。右の頬を打たれたら左の頬を出す、それだけが争いを終らせる唯一の行為だとイエスは語られました。しかし、キリスト教国アメリカでさえそれに従えないほど、他者への恐怖が渦巻く世界の中に私たちはいます。その中で、私たちは「敵を愛しなさい」と語られた言葉を旗印に生きます。それは困難な生き方、この世では少数派の、ある意味で負け組となる生き方です。しかし私たちはそのような生き方を選びます。その私たちにイエスは語れます「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。