- イエスとサドカイ人の復活問答
・マルコ福音書を読んでいます。今日は12章18節以下、「復活についての問答」の個所です。そこで展開される事柄は、私たちがこの地上の生を終えた後、「私たちはどこに行くのか」です。人は死んだらどうなるか、これは私たちが最も知りたいことですが、これまで誰も納得できる証明をした人はいません。おそらくこれからもないでしょう。死は人間にとって永遠に未知の領域です。その未知の領域について聖書はどう語るのかを今日は学びます。
・イエス時代のユダヤの人々は、「死後の命はあるのか」を真剣に議論していました。ファリサイ派の人々は「復活はある」と言い、サドカイ人は「復活などない」と考えていました。サドカイ派と呼ばれる祭司たちは、金持ちで豊かなでしたので、現状に満足し、保守的になり、現実主義的になるのでしょう。そのサドカイ派の人々が、イエスに「復活はあるのか」と質問をしたことで、今日の聖書箇所は始まります。
・彼らはイエスに質問しました「先生、モーセは私たちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』」(12:19)。ユダヤでは、「兄が子をもうけずに死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の後継ぎをもうけねばならない」(申命記25:5-10)と規定されていました。家系を絶やさないための規定で、レビラート婚と呼ばれています。サドカイ人たちはこの規定を持ち出して、イエスを困惑させようとしています。「七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」(12:20-23)。
・七人の兄弟が次々に一人の女性と結婚した。「もし死者が復活した場合この女性は誰の妻になるのか」、という問いです。この問いを通して彼らが言いたいのは、「死人の復活などという愚かなことを信じるから、おかしな話になる」ということでしょう。サドカイ派は、死んだ後などもうない、生きている間だけが全てなのだと考えています。イエスは、このサドカイ派の主張に対して、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから思い違いをしている」と言われます(12:24)。
・イエスは言葉を継がれます「死者の中から復活する時には、娶ることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(12:25)。イエスは「復活の時には、娶ることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」と言われました。「娶ることも嫁ぐこともなく」、地上における人間関係が、そのまま天に持ち込まれるわけではない。死や復活を、この世の人生の延長として考えてはならないということです。
・では、聖書は、神の力について、どのように語っているのでしょうか。イエスは言われます「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」(12:26-27)。アブラハムに祝福を約束された神が、今、モーセに祝福を約束されたのであれば、アブラハムは生きていることになる。アブラハムが天に生きているとしたら、神は、「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」ではないかとイエスは言われます。「アブラハムを愛し、モーセを導いた神が、今私たちを生かして下さる」。
- 死後の命をどう考えるか
・死後の命をどう考えるべきか、聖書は多くは語りません。それは神が、「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」だからです。今をどう生きるべきかを求め、死後のことは神に委ねよと聖書は語ります。聖書が唯一語る死後の命は、「イエス・キリストが復活されたのだから、あなた方も復活する」ということです。イエスの復活については四つの福音書がそろって記述していますが、その記述は様々です。ただ、復活を信じることが当時の人々にもいかに困難であったかについては、各福音書とも共通して伝えています。
・しかし、この出来事が世界史を変えていきました。イエスが十字架で死なれた時、弟子たちは逃げました。その弟子たちが、数週間後には、神殿の広場で「あなたたちが十字架で殺したイエスは復活された。私たちがその証人だ」と宣教を始め、逮捕され、拷問を受けても、主張を変えませんでした。弟子たちの人生を一変させる「復活のイエスとの出会い」があったからだと聖書は語ります。使徒パウロは言います「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」(ローマ14:9)。神は「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」であり、今をどう生きるべきかを求め、「死後のことは神に委ねよ」とイエスは言われます。
・パスカルはパンセの中で語ります「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者の神にあらず、イエス・キリストの神、わが神にして汝らの神」。パスカルは物理学者、数学者として有名ですが、31歳の時に回心を経験し、その回心体験を述べた言葉が、「哲学者の神にあらず、イエス・キリストの神」という言葉です。神は人間の思索で把握できる存在ではない、だから「哲学者の神ではない」。ただある時、彼は気づきます「私は自分がどこから来たのかを知らないし、どこに行くのかも知らない。ただイエスを死からよみがえらせた方が、今自分を生かして下さる「わが神」である」。今を生かして下さる神を信じることができればそれで十分ではないかとパスカルは語ります。
3.私たちにとっての復活
・今日の招詞にローマ10:9を選びました。次のような言葉です「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」。「復活」は、本当に起こったことを証明することはできない出来事です。復活はあくまでも私たちがそれを信じるかどうかにかかっているできごとであり、そして、復活を信じるかどうかは、私たちが現在をどう生きていくかを決定します。サドカイ人は死後の命を信じませんでした。彼らは来世を信じませんから、あくまで現世的に生きていました。まるで現代の日本人と同じで、地上の生が、彼の最大関心です。この世でいかに幸せになるのか、いかに出世するか、いかに金持ちになるかが彼の関心事になります。そして死の事はできるだけ考えまいとする。しかし彼にも必ず死ぬ時が来ます。それまで考えなかった故に、死は彼の全存在を破壊する衝撃を持ちます。復活を信じることが出来ない時、その生涯は「死がいつ来るかを怯えて待っている」死刑囚のような人生です。
・ある女子中学生が「死について」という新聞投稿をしました。彼女は語ります「死んだら、どうなるんだろう。私はよく、そんなことを考える。天国や地獄という死後の世界が本当にあって、そこで存在し続けることができるのなら、そう願いたい。けれども、死によって私の意識も、心も、何もかもが永遠に消え失せてしまうとしたら。いま、これを書きながらも私は、底なし沼に沈んでいくような恐怖に襲われている。そして、「まだ私は若いから」と思考を中断するのだ。他の人はどうだろう。私が敏感なのかと思ったが、まわりの友人に聞いてみるとやはり、恐ろしくて考えるのをやめるという。この恐怖からどうやって逃げたらいいのだろう。大人になったら、怖くなくなるのだろうか」(2022年2月7日朝日新聞投稿から)。切実な問いかけがここにあります。
・「死は大人になっても怖い存在」です。復活や永遠の命を信じきることは信仰者でも難しいからです。西片町教会の牧師、鈴木正久氏は、肝臓癌のために1969年に亡くなられましたが、最後の病床から教会員に三つのテープを残され、その内容が著作集に収められています。その一つ「キリスト・イエスの日に向かって」というテープの中で彼は語ります「この病院に入院した時、私には、「明日」というのは、治ってそしてもう一度、今までの働きを続けることでした。そのことを前にして、明るい、命に満たされた「今日」というものが感ぜられたわけです。所が娘からある日、「お父さん、もう手のつくしようがない」と聞いた時には、ショックでした。今まで考えていた「明日」がなくなってしまった。「明日」がないと「今日」というものがなくなります。そして急になにやらその晩は暗い気持ちになりました。胸の上に何か黒いものがのしかかってくるような、そういう気持ちでした」。牧師の彼も死ぬことが怖かったのです。
・しかし祈り続ける中で、平安が与えられます「その時祈ったわけです。ただ「天の父よ」というだけではなく、子どもの時自分の父親を呼んだように「天のお父さん、お父さん」、何回もそういうふうに言ってみたりもしました。それから、「キリストよ、聖霊よ、どうか私の魂に力を与えてください。そうして私の心に平安を与えてください」、そうしたらやがて眠れました。明け方まで眠りました。そして目が覚めたら不思議な力が心の中に与えられていました。もはや恐怖はありませんでした」(鈴木正久著作集第四巻から)。
・アップルの創業者ステーブン・ジョブズは2011年に56歳で死にましたが、彼は生前語りました。すい臓がんに侵されていることを知った時です。「誰も死にたくない。天国に行きたいと思っている人間でさえ、今、死んでそこに行きたいとは思わないでしょう。しかし死は我々全員の行き先です。死から逃れた人間は一人もいない。それはあるべき姿なのです。死はたぶん、生命の最高の発明です。それは生物を進化させる担い手であり、古いものを取り出し、新しいものを生み出すのです」(2005年5月、スタンフォード大学卒業式スピーチ)。ある意味で、人間が死ぬことは、神からのプレゼントなのかもしれません。死を意識する、時間が限られていることを知るからこそ、神を求め、与えられた時間を大事にして生きることができるのです。
・フランスの画家ゴーギャンが人生の最後に書いた絵の題名は「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」。それに対してパウロは語ります「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」(ローマ11:36)。我々は神の元から来て、今を神によって生かされ、死ねば神の下に帰る。現在を生かされていると信じるゆえに、死後も神に委ねることができる。死後の命を神に委ねることのできる人は幸せだと思います。その幸せは100歳まで長生きすることより、この世で総理大臣になることより、価値あることです。私たちはキリストの復活を信じる故に、自分の命を神に委ねることができます。「世と世の出来事は過ぎ去る、過ぎ去らない命を神からいただいた」、それだけで私たちの人生は十分ではないでしょうか。