江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年2月6日説教(マルコ13:32-37、主の再臨を待ち望む)

投稿日:2022年2月5日 更新日:

 

1.弟子たちへのイエスの遺言

 

・今日読みますマルコ福音書13章は、「マルコの小黙示録」と呼ばれ、終末についてのイエスの言葉があります。イエスは十字架を前にして、エルサレム神殿の崩壊を預言されました(13:2「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」)。それから40年が経ち、紀元70年の今、神殿崩壊が起ころうとしています。当時、ユダヤはローマと戦争しており、ローマ軍がエルサレムを包囲し、都の陥落は時間の問題でした。イエス生前からローマに対する反乱の動きはありましたが、死後それが加速し、メシアを自称する多くの扇動者が現れてローマに対する武装蜂起を呼びかけ、また世界的な飢饉や大規模地震が多発し、世情は不安定化していました。そのような中でユダヤ人たちの不満が対ローマ戦争という形で燃え上がります。66年に始まった戦争では当初はユダヤ側が優勢に立ちますが、ローマ軍の反撃により次第にユダヤ側は追い詰められ、70年にはエルサレム城内にローマ軍が侵攻し、街は破壊され、神殿も燃やされてしまいます。

・その危機の中で、イエスの教え(剣を取る者は剣で滅びる)を信じて、キリスト信徒たちは戦争に加わりませんでした。彼らは同胞ユダヤ人からは裏切り者と非難され、迫害の中で揺らいでいました。その人々にマルコは復活のイエスの言葉を伝えます「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら・・・そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない」(13:14-16)。「憎むべき破壊者」、ローマの軍隊がエルサレム神殿を包囲するのを見たら、「何を置いても逃げよ」とのイエスの言葉をマルコは聞いたのです。

・ユダヤ人の多くはエルサレム神殿に立てこもって、最後の闘いに備えていました。その時、復活のイエスは弟子たちの群れに、「混乱があなた方を巻き込むが、まだ終末ではない。エルサレム神殿に立てこもって最後まで戦おうという偽メシアの誘いに乗るな、死ぬな、生きよ」と呼びかけます。そしてマルコは語ります「終末とはこの世が滅びる時ではなく、神の国が完成する時だ」と。エルサレムにいたキリスト者たちはマルコの勧めに従い、戦乱の都を逃れて、ヨルダン川東岸のペラに逃れ、滅亡をまぬかれました。イエスの教えに従い、民族滅亡の迫る中で、卑怯者、裏切り者と同胞に言われながらエルサレムを去ったキリスト者によって、福音は守られ、保持されたのです。

 

2.目を覚ましていなさい

 

・マルコは「私たちはイエスの十字架と再臨(神の国の完成)の間にいる。イエスは不在だが帰ってこられる、その時に備えて今を生きよ」と語ります。それが32節以下にあります「目を覚ましていなさい」という教えです。マルコは語ります 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」(13:32-33)。マルコは説明を続けます「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである」(13:34-35)。主人はいつ帰ってくるかわからない。だから目を覚まして、主人の帰りを待てと言われます。「主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」。

・イエスご自身、終末の接近を強く感じておられました。(マルコ9:1「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」)。初代教会の人々もキリストの再臨がすぐにも来ると思っていた。その中で、この13章の言葉「目を覚ましていなさい」が語られています。初代教会の人々はイエスの復活に接して、終末は既に始まったと考えていたからです。パウロも、自分が生きている間に主の再臨があると考えていました。テサロニケ教会への手紙の中でパウロは語ります。「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」(第一テサロニケ4:15-17)。

・しかし、弟子たちの生存中にはキリストの再臨はありませんでした。初代教会の信仰がこの再臨(終末)遅延によって揺らいだことはペテロの手紙も証言しています(第二ペテロ3:8-10)。その後の歴史においても、社会が乱れると、「世の終わりが来た」として終末預言がなされ、多くの人々が混乱の中に巻き込まれました。しかし預言はいつも成就しません。終末がいつ来るかは人間の知るものではないからです。マルコが語る通りです「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(13:32)。

・イエスやパウロの再臨預言から、2000年の時が流れました。宇宙は崩壊せず、人の子が再臨することもありませんでした。今日の教会は再臨信仰をなくしてしまいました。しかしマルコはそのような私たちに「目を覚ましていなさい」と警告します。「主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない・・・目を覚ましていなさい」(13:36-37)。この警告は今でも有効なのでしょうか。仮にそうだとすると、「目を覚まして待つ」、どのような生きかたなのでしょうか。

 

3.目を覚まして待つ

 

・今日の招詞に第一テサロニケ5:16-18を選びました。次のような言葉です「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。テサロニケの信徒たちは迫害の中にあり、イエスが一日も早く来られて、その苦しみの時を終わらせてくれるように祈っていました。パウロも主の再臨の日=終末を待望していますが、それがいつかは知りません。終末は神の出来事であり、私たちの時ではないからです。私たちにとって最初に来る終末は自分の死です。しかし信仰者は死を恐れる必要はありません。信仰者にとって、死は慰めであり、救いの時だからです。個人の終末=死とはキリストと共にいる生活に入ることであり、心配したり、歎いたりする時ではありません。だから「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する」のです。私たちは主イエスの復活を通して、死が終りではないという希望を与えられています。

・しかし、私たちはここで考えるべきです。個人の救い、家族の救いということだけであれば、受難と復活があれば十分です。しかし聖書はイエスの再臨、神の国の完成を語ります。何故でしょうか。聖書の語る救いは個人の平安を超えたもの、共同体の救いを意味します。マルコは戦争が起こって、多くの同胞が殺され、教会の信徒が迫害される中で「主よ、来たりませ(マラナタ)」と祈りました。現代の私たちも救いを私や家族だけでなく、もう少し広い視野で考える必要があります。シリアやアフガニスタンでは、戦火の中で、多くの人々が故郷から追われ、逃げ惑っています。その中で私たちが自分たちだけの幸いを祈っているとしたら、それは「目を覚まして生きる」生き方ではありません。十字架の贖いと復活による救いは、キリスト教信仰の中核にありますが、それと同時に、キリストの再臨を待ち望む終末信仰もまた聖書の教えの中核に位置します。その時、信仰が「私から私たちの救いへ」と変革していきます。

・「目を覚ましていなさい」、この社会で起きる様々な不正や悲惨から目を背けず、出来事を見つめ、その中で自分に何が出来、何が出来ないかを考え、出来ることを行い、出来ないことを祈っていく。そのような生き方が「目を覚ましている」生き方です。パウロはテサロニケの人々に言いました「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい」(第一テサロニケ5:14)。テサロニケ教会への手紙では、「兄弟」と言う言葉が繰り返し、用いられています。教会は「神の家族」であり、教会員は相互に兄弟姉妹なのです。この「神の家族」の形成こそ、神の国の到来のしるしです。今日の教会は再臨信仰をなくしてしまいました。しかし、イエスは既に教会に来られています。神の国は、実はもう「教会」の中にあるのです。福音はイエス・キリストの復活において終末が既に到来したことを伝えます。終末はいつか来る世の終わりの出来事ではなく、キリストを信じ、キリストに従って生きる者は、既に終末の現実を生きているのです。

・「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない・・・これらは産みの苦しみの始まりである」(13:7)。癌末期を宣告され、残された命がいくばくもないことを知らされた人は、「まだ世の終わりではない」(13:7)という言葉を慰めの使信として聞くでしょう。事業に失敗して破産し、債務者に責めたてられている人は、「これらは産みの苦しみの始まりである」(13:8)との言葉を励ましとして聞きます。そして慰められ、励まされて立ち上がった人々は、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13:13)との救済宣言を聞きます。すべての苦難は「世の終わりではなく、産みの苦しみの始まり」なのです。そしてキリスト者はイエスの約束の言葉を聞きます「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(マルコ13:30-31)。イエスの福音は私たちを生かす言葉なのです。

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