江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年2月13日説教(マルコ8:27-38、十字架を担ってイエスに従う) 

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1.ペテロの信仰告白

 

・マルコ福音書を読み進めています。本日は8章後半の部分ですが、この箇所ではペテロの信仰告白とそれに続くイエスの受難予告が語られています。イエスはガリラヤでの働きを終えられ、エルサレムに向かう決意をされました。故郷ガリラヤでは人々はイエスを温かく迎え入れてくれましたが、これから向かうエルサレムは、イエスに反対する宗教指導者たちの牙城です。既にユダヤ教指導者たちはイエスを殺す相談を始めており(3:6)、イエスの師である洗礼者ヨハネは、ガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスにより殺されています(6:27)。エルサレムに行けば自分も殺されるかもしれないとイエスは感じておられました。しかし、それが神の御心であれば従おうと思っておられます。ただ弟子たちはまだその事に気づいていません。イエスは弟子たちに受難の覚悟をさせるために、ガリラヤを離れて北のピリポ・カイザリアに行かれました。

・その地でイエスは弟子たちに聞かれます「人々は私のことを何者だと言っているのか」(8:27)。弟子たちは答えます「『バプテスマのヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」(8:28)。バプテスマのヨハネは領主ヘロデを批判したために捕らえられ、殺されました。人々はイエスの業を見て、「バプテスマのヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」(6:14)と噂しました。エリヤは世の終わりの時に再び来ると言われていた預言者です。人々はイエスの業の中に神の力を見ました。弟子たちの答えを聞いて、イエスは再度訊ねられます「では、あなた方は私を何者だと言うのか」(8:29)。

・イエスの問いかけに、ペテロが答えました「あなたはメシアです」。メシア=油注がれた者です。イエスの時代、ユダヤはローマの植民地として、苦しめられていました。人々は、神がメシアを遣わされ、ユダヤから外敵を追い出し、再びダビデ時代のような繁栄の王国を作って下さると待望していました。彼らは、ダビデの子孫からメシアが生まれると信じていました。エルサレムに入城されたイエスを、民衆が「ダビデの子」(11:10)として歓迎したのも、解放者を求めていたからです。

・このペテロの告白が最初に為された正しい信仰告白とされ、平行箇所のマタイでは、このペテロに対してイエスが「あなたこそペテロ=岩であり、あなたの上に教会を建てる」と言われたと伝えます(マタイ16:18)。しかし聖書学者の大半はマタイの言葉は、後の教会が挿入したものと理解しています。何故ならば次に続く出来事が、ペテロが生前のイエスを正しく理解していなかったことを明らかにしているからです。

 

2.ペテロへの叱責

 

・イエスは弟子たちに、これからエルサレムで起きるであろうことを伝えられます「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」(8:31)。ペテロは自分の耳を疑いました。神から遣わされたメシアが十字架で死ぬ、そんなことがありえようか。「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(8:32)とマルコは記します。「いさめる」と訳された言葉は、原語では「エピティマオー=叱責する」という強い意味を持ちます。ペトロはイエスに「馬鹿なことを言ってはいけません。あなたはエルサレムで王位につくべきだ。そんな弱気になってどうするのですか」と叱っているのです。イエスは、そのペトロに対して「サタンよ、引き下がれ」と激しい言葉を浴びせられます。新約学者・滝澤武人氏は「ペトロはイエスを大声で叱りつけた」と訳します。弟子が師を叱るという異常事態が起こったのです。当然イエスの応答も穏やかではありません。滝澤訳では、イエスはペトロに、「黙れ、サタンめ、でしゃばるな、俺の後ろにひっこんでいろ」とします。師と弟子の間にすさまじい怒鳴り合いが展開されたことを、マルコは隠さずに記述しています。

・しかし、後の教会は、このイエスとペトロの激しい言葉のやり取りを受入れることが出来ず、ルカ福音書では、「サタンよ、引き下がれ」という言葉が全て削除されています(ルカ9:21-27)。初代教会の中心人物ペトロが、かつてイエスから「サタン」呼ばわりをされたとは信じられなかったからです。マタイも出来事の衝撃を和らげるために、「あなたこそメシアです」というペトロの告白に対して、イエスの祝福を付け加えます「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ・・・私はあなたに天の国の鍵を授ける」(マタイ16:17-19)。この個所は、先に見たように、ペテロへの叱責を緩和するために、後の教会が挿入したものです。現代と同じような「忖度」がここに働いています。

・この記事は弟子たちのメシア理解とイエスの自己理解が食い違っている事を示します。弟子たちは「栄光のメシア」を求めました。自分たちを助け、自分たちの夢を実現してくれるメシアです。現代でも大勢のキリスト者は栄光のメシアを求めます。しかし、イエスの示されたメシアは、「苦難のメシア」、他者の為に自分を捨てるメシアです。弟子たちはこれを受け入れることが出来ず、イエスから「サタンよ、引き下がれ」と大声で叱られます。神への信仰がいつの間にか、自己の利益に執着するサタンの信仰になってしまうことを、この箇所は明らかにします。弟子たちのキリストへの信従は、復活のイエスとの出会いの後に生まれます。

・だからイエスは弟子たちに言われます「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救う」(8:34-35)。イエスの死と復活の後に成立した教会は、当初はユダヤ教からの迫害を、後にはローマ帝国からの迫害により、弟子たちは次々に殺されていきました。ペテロもヤコブもパウロも処刑されて命を失っています。その迫害の中で動揺する信徒たちに対して、マルコは、「イエスの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従うのだ。イエスは殺されたが復活されたではないか」と励ましています。教会はイエスの十字架と、後に続く弟子たちの十字架の上に立てられているのです。そしてマルコはイエスの言葉を記します「私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた・・・その者を恥じる」(8:38)。自分の信仰を隠すな、公にせよと命じられています。

3.十字架を負って従う

 

・今日の招詞にマルコ10:42-44を選びました。次のような言葉です「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。偉い人=ギリシャ語メガス、ラテン語マイヨールです。このマイヨールとは大いなる者、ローマ皇帝の別称です。ここでイエスが言っておられるのは、「支配者とみなされているローマ帝国は諸民族の上に君臨し、皇帝が諸民族に対して権力を振るっている。だがあなたたちは決してそうであってはならない」ということです。

・この世で、上に立つためには、生存競争を勝ち抜く必要があります。また仮に競争を勝ち抜いて上に立った後も、いつ地位が覆されるかわからないため、自分に取って代わる可能性のある者を排除していく必要があります。イエスが生まれた当時のユダヤ王ヘロデは、自らの権力の座をおびやかす者をことごとく殺していきました。彼は、妻、妻の兄、妻の母を殺し、妻の叔父と自分の叔父を殺し、さらに三人の息子まで殺しています。現代でも形を変えた権力闘争が様々な組織の中で行われていることは周知の事実です。イエスはこのような生き方を変えよと言われます「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。歴史家は歴代のローマ皇帝の多くは自然死以外の死因で死んでおり、死因のトップは暗殺、次が自殺だと言います(ギボン「ローマ帝国衰亡史」)。この時、イエスの言われた「人の上に立ちたい者は支配するのではなく、仕えなさい」という言葉の意味が見えて来ます。聖書は私たちに、世の支配者になるということは、「暗殺や自殺で終わるような人生を歩むことだ」と示すのです。
・イエスの受難予告を通して明らかになることは、弟子たちの上昇志向です。彼らはイエスがエルサレムで王になられ、その時は自分たちも特権的な地位につきたいと願っているから、イエスに従って来たことが明らかにされます。彼らはイエスの苦しみを理解することなく、自分たちのことだけを考えています。私たちもまた「上昇志向」の中にあります。競争に勝ち抜いて上に立ち、人に評価され、賞賛されるようになりたいのです。名古屋の高校生は、成績が下がってこのままでは東大医学部に入れないことを悲観し、東大前で受験生に切りつけ、死のうとしました。私たちはこのような異様な社会に住んでいるのです。カトリック司祭の英隆一郎は語ります「現代社会においては絶えず勝ち続けなければならない。子どもたちは偏差値で評価され、高校は東大に何人入ったかで評価される。企業は絶えず売り上げを伸ばし、株価を上げることが至上命令である。勝ち組は少数で膨大な負け組を生み出し続けている。街からは競争に敗れた個人商店や小売業はなくなった。雇用も増えているのは非正規雇用者のみである。このような競争レースから降りることの方が人間的な生き方に戻る道ではないか」(英隆一郎「黙示録から現代を読み解く」)。

・メシアとしてのイエスの生涯を駆り立てるものは苦しむ人々への共感です。私たちがイエスの後に従いたいのであれば、「上に立つ者となりたい」との生き方は修正を迫られます。私たちは「人生は時には苦痛に満ちたものであり、物事は私たちが望む方向に進むとは限らない」ことを知っています。それぞれが与えられた十字架を背負って生きます。すべての人が死ぬ存在である限り、人生が悲しみや苦しみに満ちているのは当然なのです。この社会で起きる様々な不正や悲惨から目を背けず、出来事を見つめ、その中で自分に何が出来、何が出来ないかを考え、出来ることを行い、出来ないことを祈っていく。そのような生き方が十字架を背負う生き方です。ボンヘッファーは語ります「イエス・キリストの生涯はこの地上ではまだ終わっていない。キリストはそのご生涯をキリストに従う者たちの生活の中で更に生きたもう」(D.ボンヘッファー「キリストに従う」P354)。私たちもまたイエスの十字架を背負って生きていくのです。

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