1.慰めの書としてのエレミヤ書
・エレミヤ書を読んでおります。エレミヤは紀元前626年に預言者として召されますが、彼が繰り返し述べたのは「北から災いが来る。悔い改めなければイスラエルは滅びる」という裁きの言葉でした。北からの災い、その言葉が実現したのは紀元前597年、最初の預言から30年後でした。バビロニア帝国の軍隊がユダ王国を占領し、王や指導者10,000人がバビロニアに捕囚とされたのです。しかしこの第一次捕囚時には、ダビデ王家はゼデキヤにより継承が許され、またエルサレム神殿も無傷で残されました。王と神殿がある限り、人々は国の回復と神の保護を期待することが出来ます。従ってこの時、ユダの人々は本気では悔い改めませんでした。その彼らにやがて本物の災いが臨みます。第一次捕囚から10年後、前587年、反乱を起こしたユダ王国にバビロニア軍が押し寄せ、この度は、エルサレムは徹底的に破壊され、王は殺され、エルサレム神殿も滅ぼされます。その廃墟の中で、エレミヤに新しい救済預言が与えられます。それが今日読みます、「新しい契約」の預言です。
・エレミヤ30-31章は「慰めの書」と呼ばれます。エルサレム滅亡後、エレミヤは自らの預言を弟子バルクに口述筆記させ、それをバビロニアの地の捕囚民に送りました。捕囚地の人々はエレミヤの預言をむさぼるように読み、仲間に回覧しました。神は何故自分たちが滅ぼされたのか、人々はそれを知ることを心から求めていたのです。国を滅ぼされた民族は通常は消滅しますが、ユダ民族は50年間の捕囚生活の中で、生き残りました。エレミヤやエゼキエルの預言を通して、回復の希望を持ったからです。
・その手紙がエレミヤ書30章からにあります「イスラエルの神、主はこう言われる。私があなたに語った言葉をひとつ残らず巻物に書き記しなさい。見よ、私の民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。私は、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる」(30:1-3)。赦しと回復の預言です。回復の慰めは審判の苦しみを通して与えられます。苦難を通してしか、真の悔い改めは生じないからです。エレミヤは主の言葉を捕囚民に書き送ります「その日にはこうなると万軍の主は言われる。お前の首から軛を砕き、縄目を解く。再び敵がヤコブを奴隷にすることはない」(30:8)。そしてエレミヤ書のハイライトである、新しい契約の預言が31章31節から語られます。
2.新しい契約の告知
・その預言は次の通りです「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる」(31:31)。第一次捕囚時(前597年)にはダビデ王家は残され、神殿も無傷でした。しかし、このたびは、エルサレム市街は破壊され、王家は断絶し、神殿も壊滅し、人々は希望のかけらをも持つことが出来ない状態まで追い詰められています。神とイスラエルの旧い契約は破棄された。旧い契約とは、イスラエルの民がエジプトから救い出された時に結ばれた契約です。神はイスラエルを守り、イスラエル人は神の戒めである律法を守るという内容でした。しかし、旧い契約は民の不従順により破綻しました。その時、新しい契約の約束が語られました。エレミヤは主の言葉を伝えます「この契約は、かつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出した時に結んだものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる」(31:32)。エジプトから救い出され時に、神がモーセと結ばれたシナイ契約はここに破棄されたのです。
・文字で書かれた旧い契約は破棄されました。何故ならば、罪に囚われている人間は契約を守ることが出来ない。契約を更新しても、また人間の側から破るでしょう。救済は神の恩恵以外にはありえません。従って、新しい契約においては、「神が語りかけ、人が聞く」と言うこと自体が廃止され、神の意志は直接人の心に置かれます。「来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」(31:33)。
・イスラエルは「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)と命じられました。しかし彼らはそうできませんでした。その結果がこの破滅です。もはや、人間の側からの救いはない、だから「神がその律法を人間の中におき、心に記す」(31:33)ことが起きます。エレミヤは国の滅亡、捕囚を、民の回心のためと理解しています。「私はお前を正しく懲らしめる」(30:11)。人は砕かれないと悔い改めず、悔い改めなしには救いは来ないのです。悔い改めた時に何が生じるのか、エレミヤは言葉を続けます「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、主を知れと言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主は言われる。私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(31:34)。
・聖なる都と呼ばれたエルサレムが破壊され、神の住まう宮と崇められたエルサレム神殿も灰燼に帰し、民の多くは殺害され、生き残りの者たちもまた異国の地に散らされようとしている、正にその絶望の中で、「私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」という神の宣言がなされます。それは一方的な、無条件の赦しです。民は新しい契約を結ぶ準備も心構えもない。悔い改めもしていない。しかし神の側から一方的に恵みが、救済が約束されています。哲学者カール・ヒルティーは述べました「赦すとは忘れることである。赦しはするが忘れはしないというのは、赦してもいないことである」。神は人の罪を忘れられた、それが赦しなのです。そしてこの赦しがイスラエルを回復させる原動力になります。
3.教会は新しい契約はイエスの血により締結されたと理解した
・捕囚の民は、エレミヤの預言を真剣に受け止め、捕囚地において新しい共同体を形成しました。やがてその地で創世記や出エジプト記、預言書等を始めとする旧約聖書の主要部分が書かれ、編集されて行きます。イスラエルは王と領土を失いましたが、その代わりに聖書を持つ民に変えられていきました。国を失った捕囚民が信仰共同体として再生した背景には、エレミヤ31章「希望の使信」の影響が大きかったと言われています。そして、エレミヤ31章はその後の信仰共同体の形成にも大きな働きをしています。
・今日の招詞にルカ22:19-20を選びました。次のような言葉です。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた『これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』。食事を終えてから、杯も同じようにして言われた『この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である』」。イエスが最後の晩餐に時に言われた言葉です。エレミヤが預言した新しい契約が、イエスの血において成就したと福音書記者は理解しました。モーセに与えられた古い契約は過ぎ越しの羊の血で調印されましたが、新しい契約はイエスが十字架で流された血で調印されました。パウロもこの新しい契約がキリストの十字架により成就したと理解しています。彼は記します「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(第二コリント3:3-6)。
・エレミヤは30年間預言してきました。それは一貫して、「神の怒り、神の裁き」の預言でした。その裁きの預言がユダ王国滅亡後は、「赦しと回復の預言」に変わっていきます。その大転換がなされたのは何故か。聖書学者北森嘉蔵はエレミヤ書31:20を見よと示唆します。「エフライムは私のかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに、私は更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り、私は彼を憐れまずにはいられないと主は言われる」(31:20)。「彼のゆえに、胸は高鳴り」、ルター訳ではこの箇所は「彼のゆえに私の心臓は破れる」となっています。神はエフライム、イスラエルの民が殺され、捕囚となってバビロニアの地に連れ行かれ、あるいは奴隷として売られていく様を見て、「心臓が張り裂けるばかりの憐れみを感じられた。そこに怒りを克服する愛、神の痛みがあった」と北森先生は受け止めます(北森嘉蔵、エレミヤ書講話)。
・「神の痛みが無条件の赦しをもたらした」、これがエレミヤ書の示す真理です。ここに示される神の愛とは「無条件の赦し」、ルカ15章に描かれる「放蕩息子の父親」の愛です。放蕩息子は親の財産を金に替えて家を飛び出し、贅沢の限りを尽くして遊び暮らし、やがて生活に困窮し、食べるものもなくなると、「雇人の一人にして食べさせて下さい」といって帰ってきました。父親は、その息子を、何も言わず抱きしめ、良い服を着せ、足に履物を履かせ、手に相続人のしるしである指輪をはめ、帰還を祝って祝宴を開きます。この「無条件の赦し」が、放蕩息子を真の悔い改めに導きます。この「アガペーの愛、無条件の赦し」こそが、死んだ者を生き返らせる愛です。神の愛によってイスラエルは捕囚時代を耐え忍び、帰国後、国を再建することが出来ました。しかし時間の経過と共に、また民の堕落が始まります。貧富の格差は拡大し、貧しい者は生きるのも難しい状況に放置されたのです。
・その中で、イエスは「神の国が来た」とその宣教を始められ、自らの生き方を通して、神の愛、無条件の赦しを伝えようと決意されました。イエスのなされた業をルカは次のような言葉でまとめます「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(ルカ7:22)。人々はそのイエスを十字架に殺します。イエスの弟子たちは最後の晩餐の時にさえ「誰が一番偉いか」を論争していました(ルカ22:24「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった」)。彼らも未だ救われていない。そのような人間を救うためには神の子自らが血を流されたのです。この十字架の血こそ、新しい契約の調印の血です。
・弟子たちは十字架を前に逃げ去りましたが、復活のイエスに出会い、根底から変えられていきます。変えられた弟子たちは、十字架で流されたイエスの血こそ、神の愛を地上にもたらす新しい契約のしるしと理解しました。この信仰を私たちも継承します。私たちが「イエスを主と信じて洗礼を受ける」というのは、この新しい契約の中に招かれることを意味し、主の晩餐式はそのことを確認するために執り行われます。私たちは「無条件に他者を赦す神の愛を通して、神の国を立てる」という契約を、イエスの名において結んだのです。「無条件に赦す」とは自分に為された悪や嘲りを一切忘れることです。「やられてもやり返さない」ことです。それを実行するとはどういうことでしょうか。
・創世記1章によりますと、最初の人間に食べ物として与えられたのは「種を持つ草と種を持つ実」です(1:29)。しかし人間はそれに満足できず、肉食を求め、神はノアの洪水後、それを認めます。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」(創世記8:21)。そして言われます「産めよ、増えよ、地に満ちよ・・・動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。私はこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」(創世記9:1-3)。神の譲歩によって肉食を赦された人間は、さらに他者の命をも求め、神はそれに対して拒絶されます「人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」(同9:6)。「やられてもやり返すな。もしやり返したらあなたの命を代償として支払え」と言われています。その神の言葉の中で、今の日本が行おうとしている防衛費の増額、こちらから敵に先制攻撃ができるように憲法を変えようという試みをどう考えるのか。「殺すな」と命じられた神の声をどう具体化していくのかは、私たちキリスト者の役割です。「私たちが為す赦しを通して、この地に回復をもたらすために今何ができるか」。それを考えるために、私たちは毎週、教会に集められ、神の言葉を新たに聞くのです。