1.エペソからエルサレムへ
・使徒言行録を読んでおります。パウロは三度の宣教旅行を行い、コリントやテサロニケやエペソに異邦人教会を設立し、異邦人教会は母体のエルサレム教会を上回るほどの大きな群れに育って行きます。しかし、同時に、異邦人教会とエルサレム教会との亀裂が目立ってきました。信仰の形が違うのです。エルサレム教会はユダヤ教の影響下にある保守的な教会で、それに対して異邦人教会はギリシア文化を土台にしたリベラルな教会群でした。その結果、異邦人教会とエルサレム教会との不和が拡大し、パウロは両者の和解を勧めるために、異邦人教会に呼びかけて、財政的に逼迫しているエルサレム教会への献金運動を進めていました。「ローマ人への手紙」の中で、彼は語ります「異邦人はその人たち(エルサレム教会)の霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」(ローマ15:27)。
・福音はエルサレムからローマ帝国の各地に広がっていきました。異邦世界に広がっていった福音は、もはやユダヤ教という狭い枠を抜け出した新しい教えになっていました。しかし、まだユダヤ教の影響下にあったエルサレム教会の人々は、ユダヤ教の中核である「律法」からの自由を唱え、「割礼も不要だ」と語るパウロの教えに、反感を持っていました。エルサレム教会では「割礼なしに救いはない」と信じる人々が多数派だったのです。このままではエルサレム教会と異邦人教会は分裂すると危惧したパウロは、両者の和解のために異邦人教会から献金を募り、それをエルサレム教会に捧げようと運動してきました。
・そして必要な献金が集まり、パウロはその献金を携えてエルサレムに戻ろうとしています。諸教会の代表もまたパウロに同行しています(19:4)。彼は設立した諸教会に別れを告げるために、ピリピ、テサロニケ、コリントを訪問し、ミレトスから船でエルサレムに帰る計画を立てます。ミレトスはエペソ近郊の港町です。そのミレトスにパウロはエペソ教会の長老たちを呼び、最後の別れの時を持ちます。使徒言行録20章は、そのミレトスで為されたパウロの「告別説教」です。
・ルカは記します「パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した『アジア州に来た最初の日以来、私があなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです』」(20:17-18)。パウロはエペソに3年間滞在しました。エペソでは異邦人たちの暴動に巻き込まれ(19:23-40)、命の危険にさらされた事もありました(1コリント15:32「エペソで野獣と戦った」、2コリント1:8「アジア州で被った苦難」)。彼は続けます「自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました」(20:19)。
・彼はエペソの人々に語ります。「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです」(20:20-21)。しかし今やエルサレムに戻るべき時が来ました。パウロはエルサレムに戻れば、投獄や迫害が起こることを予期しています。過激なユダヤ教徒たちは、ユダヤ教を捨てキリスト教の伝道者となったパウロを裏切り者として、その命を狙っていました(20:3)。それでも彼は、霊に促されてエルサレムに戻る決意をしたとルカは記します「私は霊に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」(20:22-23)。
・「霊に促されて」、パウロはエルサレムに向かいます。神は、必要な時には、私たちに試練を与えられます。それは試練なしには、私たちは神に従う者となることは出来ないからです。エルサレムはユダヤ教の中心の地です。パウロはかっては熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教徒の迫害者でしたが、その彼がキリストと出会い、キリストの宣教者に変えられました。エルサレムのユダヤ教徒たちは、パウロを裏切り者としてその命を狙っています。また、エルサレム教会の指導者たちも、律法に囚われず、割礼を無用のものとするパウロの異邦人伝道を快く思っていません。彼がエルサレムで危険に出会っても、エルサレム教会の保護は期待できません。パウロは死を覚悟しています。「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」(20:24)。
・「たとえ死の危険があろうとも主が行けと言われるのであれば私は行く」とパウロは語ります。キリシタンが禁止され、迫害された江戸時代初期、多くの外国人宣教師たちが、見つかれば殺されるという状況の中で日本に潜入し、殺されていきました。人々には牧会者が必要だとの信念に突き動かされてです。遠藤周作の描く「沈黙」(1966年)はそれを題材としています。パウロはその後エルサレムで捕縛され、カイザリアで投獄され、ローマに移送され、そこで処刑されて死にます。使徒言行録の著者ルカはそのことを知っており、その殉教の生涯をここに反映させています。
2.残される者たちへの決別の言葉
・パウロは、牧会者なしに残されるエペソ教会の人々のことが気がかりです。彼は長老たちに群れを委託します「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」(20:28)。パウロは「自分が去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、私には分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」(20:29-30)と語ります。「だから、私が三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」(20:31)。
・パウロの心配は杞憂ではありません。テモテ書をみると、パウロの懸念通りのことがエペソ教会で起きたことを伝えています(1テモテ1:3-6)。エペソ教会を混乱させたのは「グノーシス」と呼ばれるギリシア的福音でした。彼らは語ります「神が世界を支配しておられるのに、世界には悪が満ちている。この悪は人間が肉体を持ち、肉の欲を持つことから生じている。だから私たちは肉を捨て、霊に生きなければならない」。肉を捨てる、具体的には、断食し、性的交わりを避けることを彼らは勧めます。さらに彼らは肉を否定する余り、キリストが肉を持って来られた、つまりイエスという人間として来られたことさえ否定し、十字架の死も復活をも否定するようになります。教会が伝えた福音とはまるで異なる教えにエペソ教会は襲われ、混乱します。だからパウロは「目を覚ましていなさい」と語ります。最後にパウロは「あなた方は監督者として、あなた方自身と群れ全体に気を配り、私が教えたことを守りなさい」と語り(20:31)、そして「今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」と語ります(20:32)。
・イエスが来られたのは「新しい哲学」を教えるためではありませんでした。イエスは弟子たちに「新しい生き方」を教えられたのです。だからパウロも語ります「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました」(20:35)。イエスの教えの真実性は、彼に従って生きた人々の生き方の真実性によって証明されます。言葉が伝道するのではありません。私たちの生き方、「受けるよりは与える方が幸い」という生き方が、「福音とは何か」を指し示します。コヘレトも同じ趣旨の言葉を語ります「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう」(コヘレト11:1)。「見返りを求めず、必要なものを他者に与えよ、神は必ず報いて下さる」とコヘレトも語りました。「受けるよりは与える方が幸いである」、それは自分のためではなく、他者のために生きる生き方です。この世的な「勝ち組」を目指さない生き方です。
3.教会に集められて
・今日の招詞に使徒言行録28:30を選びました。次のような言葉です「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」。ローマにおけるパウロの獄中生活を描いた箇所です。パウロはどのようにしてローマに行ったのでしょうか。使徒20章のパウロはエペソの港町ミレアスにいて、そこからエルサレムに向かいます。そのエルサレムで、パウロはユダヤ教過激派の人々に襲われ、投獄され、2年間をカイザリアの牢獄に幽閉されます。エルサレム教会はパウロ助命のために何の努力もしませんでした。長い、失望の時が流れましたが、パウロはあきらめません。彼は獄中からローマ皇帝に上訴し、裁判を受けるためにローマへ移送されます。その結果、パウロは夢にまで見たローマに行くことが出来ました。但し、「拘束された囚人として」です。今日の招詞はそのローマにおけるパウロの様子を描いています。使徒言行録はここで突然に終わり、後のパウロがどうなったかは記されていません。歴史家は、パウロがこの後、ローマで処刑されたと考えています。
・私たちは聖霊の加護を祈りますが、その聖霊は私たちを世の危険や苦難から救出するのではなく、危険や苦難を通して、神の業を実現させるために働きます。パウロはかつて語りました「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(第二コリント7:10)。悲しみが御心に適ったものになる時とは、私たちが人の思いを捨て、神の思いに従った時です。パウロは聖霊に促されてエルサレムに行き、エルサレムに行くことを通してローマへの道が開けました。
・パウロはローマで殉教しました。人間的に見れば無念の死です。しかし、人にとって最も大事なものは何でしょうか。事業の成功でしょうか。華々しい成功をおさめることでしょうか。生前のパウロは、現在のような「大使徒」との評価を受けていませんでした。パウロの評価が高まったのは、紀元70年にエルサレムがローマ戦争の結果壊滅し、エルサレム教会が消滅した後です。エルサレム教会消滅後、教会の主力はコリントやエペソ等の異邦人教会となり、異邦人伝道に尽くしたパウロの評価が高まり、その書簡が集められ、編集されて、新約聖書の中核になって行きます。神は殉教したパウロを再び用いて下さったのです。これが神の御業、人間には知ることの出来ない摂理です。私たちは使徒言行録や手紙を通して、パウロの生き様や信仰を知り、パウロと出会い、その出会いが人生を変える出来事になっていきます。