江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年1月2日説教(マルコ1:14-20、弟子への招き)

投稿日:2022年1月1日 更新日:

 

1.弟子への招き

 

・新しい年を迎えました。2022年度前半は、マルコ福音書を通じて、イエスの宣教の業を学んでいきます。イエスはヨルダン川でバプテスマを受けて、公の生涯を始められました。ヨハネ福音書によれば、イエスはバプテスマを受けられた後、しばらく、洗礼者ヨハネの下に留まっておられました。その後、ヨハネはユダヤ当局から危険人物として逮捕、投獄され、イエスはそれを契機に、ご自分の活動する時が来たことを悟られ、故郷のガリラヤに戻って、宣教を始められます。宣教の開始にイエスが言われた言葉がマルコ1:15にあります「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。「時は満ちた」、この時は「カイロス」と言う言葉です。通常の時(クロノス)ではなく、「神の国が来る、その時(カイロス)が近づいている」とイエスは宣教を始められました。

・イエスが最初になされたことは、弟子の招きでした。「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは『私について来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた」(1:16-17)。イエスが「ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時」、シモンとアンデレが漁をしているのをご覧になった。その出会いは突然であり、また偶然であったとマルコは強調しています。シモンは学問があるから、アンデレは有能そうだから、二人を招かれたのではなく、たまたま出会った、たまたま彼らと顔を合わせられたから、招かれたとマルコは語っています。私たちの人との出会いの多くはそうです。そして、出会いが、私たちの人生を決定的に変えることがあります。シモンとアンデレは招きに応えて従いました。彼らは網を捨てて従います。網を捨てる、職業を捨てた。何故、そこまでして従ったのか、マルコは何の説明もしません。

・ヨハネ福音書によれば、ペテロとアンデレは、バプテスマのヨハネの呼びかけに応えて、ヨルダン地方に行ってバプテスマを受けており、そこにおられたイエスの言葉を聞いています(ヨハネ1:40-42)。ガリラヤに戻ってからも、イエスの説教や行われた業を見たり、聞いたりしていたのでしょう。日頃から、この人こそは真の預言者かもしれないと思っていたから、「ついてきなさい」というイエスの言葉に、すぐに従うことが出来たのかもしれません。その後、イエスはヤコブとヨハネが舟の中で網の繕いをしているのをご覧になり、彼らも呼ばれました。二人も、舟と父親を残して、すぐに従いました。ここでマルコが語ることは、弟子とは「呼ばれて」、「従う」者だということです。彼らは、網を捨て、舟を捨てて、家族を捨てて、イエスに従いました。

・イエスの言葉はいつも招きです。招きはそれを聞いた人々の中に、応答を引き起こします。ある人はそれを拒絶し、別な人はそれを受け入れます。拒絶した人の人生は変わりませんが、受け入れた人の人生は大きく変わります。前に、イタリアのローマを訪問したことがあります。ローマの中心部にバチカンがあり、そこにローマで殉教したペテロを記念したサン・ピエトロ教会(聖ペテロ教会)があります。教会の入り口にペテロの銅像がありましたが、像の足の部分は磨り減り、指を判別できませんでした。人々が癒しを求めて、ペテロの足に触れ、そのために足の部分が摩耗したのでしょう。何千、何万と言う人が、救いを求めて、ペテロの銅像の足に触れたのです。ペテロは人から請い求められる、「人間をとる漁師」に変えられたと実感しました。

・ペテロはガリラヤの漁師でした。イエスの招きに従わなければ、彼はガリラヤの漁師として、その生涯を終えたことでしょう。彼はイエスの招きに従いました。その結果、イエスの福音を伝える者となり、最後にはローマで死にました。そのペテロが死んだとされる場所の上に、聖ペテロ教会が立てられ、多くの人がペテロの徳を慕って集まります。その生涯が人間的には幸せだったかどうかはわかりません。捕らえられ、鞭打たれ、最後には殺されました。しかし、ペテロは喜んで死んで行きました。このことが語りますことは、弟子たちは幸せな人生を送るために招かれるのではなく、偉大な人生を送るために招かれているということです。神の救済の業に参加するよう、招かれています。

 

2.イエスの招きに応えて

 

・マルコ3:13-15にはイエスの弟子任命の記事があります。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」。イエスが十二弟子をお選びになった時の記録です。イエスは「神が行動されたのだから、その恵みを受け入れなさい」という福音、良い知らせを伝えていくように、弟子を選ばれました。具体的には、「宣教し、悪霊を追い出す」働きを弟子たちに委託されました。ここに教会の働きが集約されています。言葉だけではなく、「言葉と行い」による宣教です。宣教する、あるいは教えることはどの教会でもなされています。多くの教会で不足しているのは、最後の部分、「悪霊を追い出す」という行為です。病気の人を癒し、悲しむ人を慰める、その働きです。言葉だけでは、福音は伝わりません。他者の苦しみを受け入れ、分かち合う行為、すなわち癒しが必要なのです。

・教会=エクレシアの語源は、呼ばれた=エカレオーです。私たちは、呼ばれて、教会に集められた。「人間をとる漁師になる」(1:17)ためです。自分の救いだけではなく、他者と痛みを共有し、それを自分の出来事とする、癒しの業を行うように呼ばれています。宮沢賢治が「アメニモマケズ」で歌ったように、です「ヒガシニビョウキノコドモアレバ、イッテカンビョウシテヤリ、ニシニツカレタハハアレバ、イッテソノイネノタバヲオヒ、ミナミニシニソウナヒトアレバ、イッテコハガラナクテモイイトイヒ、キタニケンクワヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイウ」。宮沢賢治が熱心に聖書を読んでいたことは有名です。彼は洗礼を受けていませんが、立派なキリストの弟子です。彼のような弟子になりたいものです。

 

3.信徒から弟子に

 

・私たちは、最初は福音を聞く者として招かれます。イエスは言われました「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。私たちは自分の悩み、悲しみをイエスのもとに持ち込んで、慰めてもらいました。しかし、そこに留まったままではなく、次に与える者になることが期待されています。私たちは、最初は信徒としてイエスに従いますが、次に弟子として招かれます。その招きがマルコ8:34、今日の招詞です。「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」。私たちは招きを聞き流すことも出来ます。「しばらく待って下さい」と猶予を願うことも出来ます。私たちはある時、自分の罪を認め、悔い改め、水に入り、バプテスマを受けました。しかし水のバプテスマを受けても信仰から離れていく場合もあります。水のバプテスマだけでは、必ずしも「新生」が起きないことを示唆しています。水のバプテスマを受けた私たちが信仰の歩みを続け、イエスの弟子として十字架を担う。「その時(カイロス)」が来た時に、聖霊のバプテスマが与えられ、このバプテスマを受けることによって、人は新しく生まれ変わります。この生まれ変わりが人を献身に導きます。

・弟子になるとは、完全な者になることではありません。十二弟子たちさえ「誰が一番偉いのかで争った」とありますし(マルコ9:34)、イエスが捕らえられた時、怖くなって逃げました。それでも彼らはイエスを離れず、復活のイエスに出会って、聖霊のバプテスマを受け、変えられました。ある人は語ります「キリストはその生涯をキリストに従う者たちの生活の中で、更に生きたもう」。キリストは私たちの中に生きておられます。私たちは、キリストの業に参加するように招かれています。

・「キリストの業に参加する」、いろいろな参加の在り方があります。現在の日本は社会の高齢化が進み、教会もその大波の中にあります。日本では二人に一人は癌になり、三人に一人は認知症になります。日本人の平均寿命は80歳ですが、健康寿命は75歳とされています。75歳を超えると、働けなくなったり、病気になったり、あるいは老人施設に入所する人が多くなります。その時にも、なお私たちはキリストの業に参加できるのでしょうか。カルメル修道会の中村博道司祭は尊敬していた先輩修道士が認知症になり、何もわからなくなったことを見て、語ります「先輩や親のような存在が認知症になる時、それは私たちにとって大きな失望になる。しかしキリスト教の人間理解にとって、認知能力は人間のさまざまな内面の能力のごく一部でしかない。そういうものが過ぎ去っても、人格は残る。人間は最後にはすべてがはく奪されて行き、そして神のみが残って行く」。

・昨年末に神学校の冬期講座「がん哲学外来」が開かれ、講師の病理学者・樋野興夫先生は語りました。「病気であっても病人ではない。癌も自分の個性であると考えることができれば、悩みの解決はなくとも解消はできる」。癌を認知症に置き換えれば、次のようになります「認知症は完全な治癒はできないが、それを神の与えたものと受け止めれば、問題を解決しなくとも解消することができる」。命は私たちの所有物ではありません。私たちは神から与えられた命を生きればよい。基本的な生き方はヤコブが語るように、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」(ヤコブ4:15)となります。ペテロは殉教してその信仰を証ししました。別の人は認知症になっても礼拝を続けることで、その証しを立てていくことができます。高齢の方が礼拝を続けられるように、教会として何ができるか、礼拝の送迎サービスとか、出張晩餐式とか、いろいろできることはあります。それを模索していく一年でありたいと願います。

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