江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年4月11日説教(マタイ28:16-20、復活の主に出会う)

投稿日:2021年4月10日 更新日:

 

1.マタイにおける復活顕現物語

 

・イエスは金曜日の午後3時に十字架上で絶命され、アリマタヤのヨセフが用意した墓に葬られました。イエスの死から三日目、安息日明けの日曜日の朝、婦人たち香料と香油を持って、墓に向かいました。イエスの遺体を洗い清め、ふさわしく葬りたいと願ったからです。しかし、墓の入り口には大きな石が置かれ、どうすれば石を取り除いて墓に入ることが出来るか、婦人たちはわかりませんでした。それでも婦人たちは墓へ急ぎました。墓に着くと、石は既に取り除いてあり、中に天使が座っているのを見て、婦人たちは驚き、怖れます。そして婦人たちは天使の声を聞きます「恐れることはない。十字架につけられたイエスは、ここにはおられない。復活なさったのだ・・・急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』」(28:6-7)。イエスを裏切った弟子たちに「イエスはガリラヤで待っておられる」との使信が届きました。

・弟子たちはガリラヤに戻りました。ガリラヤこそ彼らの故郷であり、またイエスと共に行った宣教の出発点でした。しかし、ガリラヤに戻った弟子たちは途方にくれていました。頼りにしてきたイエスが今はいない、自分たちはイエスを見捨てて逃げた、仲間の一人は首をくくって死んでしまった、そのような思いの中で、ガリラヤに戻った弟子たちは指示されて山に登ります。山は聖なる所、神に出会う場です。マタイ28章16節は記します「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」。その山で彼らは神秘体験をします。復活のイエスに出会ったのです。この出会いを通して、弟子たちは「この方は神の子であった」という信仰を与えられ、新しく生きる者になります。

・「しかし疑う者もいた」(28:17)。ルカ福音書では、イエスに出会った弟子たちは「亡霊を見ている」と思ったとあります(ルカ24:36)。エマオに行く弟子たちも最初は同行者がイエスだとはわかりませんでした(ルカ24:16)。山に登った弟子たちもイエスに出会った時、半信半疑でした。復活はそれほどに信じることが難しい出来事なのです。しかし、この記事は私たちに希望を与えます。何故なら、私たちも確固たる信仰を持っているわけではないからです。苦しみが続くと「本当に神はおられるのか」と疑います。多くの人がバプテスマを受けますが、死ぬまでその信仰を保ち続ける人は少ないのが現実です。私たちは信仰と懐疑の中を揺れ動いている存在です。しかしその不信仰の私たちにもイエスの方から近寄って下さる。弟子たちにそうされたように、です(28:18a)。

・イエスは言われました「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、全ての民を私の弟子にしなさい」(28:18b-19a)。イエスを裏切った弟子たちに、宣教の使命が与えられます。「全ての民を私の弟子にせよ」、これが弟子たちに与えられた使命でした。その使命の具体的な内容が次に語られます「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28:19b-20a)。「バプテスマを授ける」、原語はバプテゾ-、「水に沈める」との意味です。「父と子と聖霊の名によって」、「父と子と聖霊の交わりの中に」、彼らを水に沈めなさいと命令されています。ここにバプテスマの原型があります。私たちは何のためにバプテスマを受けるのか、それは「父と子と聖霊の交わりの中に」生きるようになるためです。不信仰な、弱い私たちは、一人では信仰を維持していくことは出来ない、だから信仰者の交わりの中で、教会の中で私たちは育てられていく。そして教会では、毎週の説教を通して「イエスの戒め」、「愛し合いなさい」という戒めが語られ、教えられていきます。

 

2.私たちはどのようにして復活者と出会うのか

 

・今日の招詞に第二ペテロ1:16-18を選びました。次のような言葉です「私たちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これは私の愛する子。私の心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。私たちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです」。マタイは17章でイエスが3人の弟子たちを連れて山に登り、その山頂でイエスの姿が変貌したとの記事を書きます。「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(17:1-2)。何が起きたのでしょうか。多くの聖書学者は、弟子たちが復活のイエスに会った体験が、生前の体験としてマタイ17章に記されているのではないかと推測します。そして、それをペテロが証言しているのがペテロ第二の手紙であろうと。ペテロは語ります「私たちは、キリストの威光を目撃したのです」、神秘的な体験がここに描かれています。

・復活者との出会いはそれぞれに神秘的な体験です。ドイツの神学者ユルゲン・モルトマンも復活者との出会い体験を語ります。彼は1926年にドイツで生まれ、19歳の時、第二次大戦に出征し、1945年に祖国の敗戦を捕虜収容所で迎えます。彼は語ります「私は1945年にベルギーの捕虜収容所にいた。ドイツ帝国は崩壊し、ドイツ文化はアウシュヴィッツによって破壊され,私の故郷ハンブルクは廃墟となっていた・・・私は神と人間に見捨てられように感じ、私の青春の希望は消え失せてしまった。私の前には将来が見えてこなかった。その時、私は収容所でアメリカ人従軍牧師から聖書を一冊もらい、読み始めた・・・受難の物語が私の心を捕らえた。イエスの死の叫びの所にきた時(「わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか」)、私はすべての人がイエスを見捨てる時にも、イエスを理解し、イエスの元に一人の方がいますことを知った。「わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのか」は、私の神への叫びでもあった」。モルトマンは続けます「私はイエスによって理解してもらっているように感じ、苦しみ試みられ神に見捨てられたイエスを理解し始めた・・・私は生きる勇気を奮い起こした。かつての苦しみを共にした兄弟であり、罪責からの救済者であるイエスとの交わりは、それ以来もはや私を見捨てることはなかった。十字架にかけられたイエスこそ、私にとってのキリストである」(「今日キリストは私たちにとって何者か」前書きより)。

・モルトマンが体験したように、ある時、聖書の言葉がその人間を捕え、一生を変えてしまう出来事が起こります。私にとってエレミヤ29章がそうでした。遠い異国バビロンの地に捕囚になっている失意の人々へ書かれた手紙です。「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。 妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない」(エレミヤ29:5-6)。早くエルサレムに帰りたいと焦る人々へ、エレミヤはその地で生きよと語りました。私がこの言葉を自分への言葉として受取ったのは、1998年のことです。私は大学を卒業して生命保険会社に入社し、大半を東京本社で過ごしてきましたが、48歳の時に本社の課長から福岡支社への転勤を言い渡されました。左遷であり、仕事には身が入らず、東京本社への早期帰還だけを考えていたました。その時、教会学校の学びを通して、エレミヤ29章に出会いました。東京に帰ることに焦り、仕事や学びに上の空だった私に対して、「その地に根を下ろせ、訓練し育てるためにあなたを福岡に送った」と主は言われたと感じました。やがて会社がリストラ策として希望退職者を募ったのを機会に会社を辞め、東京神学大学に入りました。災いとしか思えなかった福岡への転任と会社の業績悪化が牧師になる道を開き、エレミヤ29章がその道を導きました。人はある時、御言葉との出会いを通して人生が変えられていきます。

 

3.イエスの宣教命令を受けて

 

・人はいろいろな形で復活者イエスと出会います。トルストイの描いた民話「靴屋のマルチン」も復活者との出会い体験を描いています。物語の主人公、靴屋のマルチンは妻や子供に先立たれ、辛い出来事の中で生きる希望も失いかけています。ある日、教会の神父が傷んだ革の聖書を修理してほしいと聖書を置いていきます。マルチンは今までの辛い経験から神へ不満をもっていましたが、それでも、神父が置いていった聖書を読みはじめます。そんなある日の夜、夢の中に現れたキリストがマルチンに言います「マルチン、明日、おまえのところに行くから、窓の外をよく見てご覧」。次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外の様子に気をとめます。外には寒そうに雪かきをしているおじいさんがいます。マルチンはおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。赤ちゃんを抱えた貧しいお母さんに目がとまります。マルチンは出て行って、親子を家に迎え、ショールをあげました。今度はおばあさんの籠から一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。マルチンは少年のためにとりなしをして、一緒に謝りました。一日が終りましたが、期待していたキリストは現れませんでした。

・がっかりするマルチンに、キリストが現れます「マルチン、今日私がお前のところに行ったのがわかったか」。そう言い終わると、キリストの姿は雪かきの老人や貧しい親子やリンゴを盗んだ少年の姿に次々と変わりました。そして最後に言葉が響きます「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」。モルトマンは聖書の言葉を通して「インマヌエル」なる方と出会いましたが、マルチンは隣人との出会いを通して、「インマヌエル」なる方と出会います。

・ゲルト・タイセンという聖書学者が「イエス運動の社会学」という本を書きました。彼は、イエスが来られて何が変わったのかを分析した人です。彼は書きます「イエスは、愛と和解のヴィジョンを説かれた。少数の人がこのヴィジョンを受け入れ、イエスのために死んでいった。その後も、このヴィジョンは、繰り返し、繰り返し、燃え上がった。いく人かの『キリストにある愚者』が、このヴィジョンに従って生きた」。キリストが来られることによって「キリストにある愚者」が起こされた、それが、イエスが来られたことの最大の変化だとタイセンは言います。キリストにある愚者とは、「世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分には何が出来るのか、どうすれば、キリストが来られた恵みに応えることが出来るのか」を考える人たちのことです。聖書の言葉はこの「キリストにある愚者」を生み出していく。そして私たちも「キリストにある愚者」になれと、招かれているのです。

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