江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年9月12日説教(ローマ13:1-10、愛は隣人に悪を行わない)

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1.ローマ13章を巡る議論

 

・紀元57年ごろ、パウロはローマ教会に当てて手紙を書きました。この手紙はやがて聖書正典に組み込まれ、権威を持つようになります。パウロは手紙の中で語りました「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(13:1)。初代教会はイエスの「剣を取る者はみな剣で滅びる」(マタイ26:52)という教えを基礎に、キリスト者が兵士になるのを禁じますが、やがてキリスト教がローマ帝国の国教になると、教会はローマ13章を基に、キリスト者も国家の命じる戦争には従うべきだとの「聖戦論」を展開するようになります。その後、1930年代のドイツにおいて、ナチス政権の正当性を認めるルター派教会とそれに反対する告白教会の論争においてもローマ13章が中心的な基準となります。ローマ13章はキリスト者と国家の在り方を定める基本テキストになってきました。

・パウロはローマ帝国の首都にいるキリスト者たちに手紙を書き、その中で「上に立つ権威に従う」ように勧めます。「あなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(12:18)。平和に暮らすとは、具体的には「良き市民として暮らす」ことです。「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(13:7)。これはイエスの教えを継承すると同時に、終末時にある神の民としての生き方を教えたものです。ところが、パウロがローマ13章を書いてから、数年もしないうちに、ローマの信徒たちは、最初の迫害に遭います。皇帝ネロによるキリスト教徒迫害です。U.ヴィルケンスは、ローマ13章の注解(EKK聖書注解)の中で語ります「パウロは『神の奉公人である』である国家権力に服従することを彼等の良心の義務にしていたが、まさにその『国家権力』が、キリスト者たちを『生ける松明』として、町外れで火あぶりの刑に処することを命じた」。

・パウロ自身も迫害の中で殉教し、以降200間、教会は迫害の下に置かれました。それにもかかわらず、「進んで服従せよとのローマ書の勧めが、殉教者に満ちた教会の中で、中心的な意義を持ち続けた」とヴルケンスは分析します。しかし、度重なる迫害の中で、異論が出てきます「ただ殺されることだけを神は求めておられるのか、違うのではないか」。教会はローマ13章の服従要求はペテロの留保条項(使徒5:29「人に従うよりは神に従うべきである」)により制限されていると考え始めます。つまり、権力が信仰からの離反を強制する場合には、キリスト者は抵抗しなければならないとの考え方です。ところが、コンスタンティヌス帝によるキリスト教公認(313年)は、ローマ13章の解釈を根本的に変えていきます。教会は、「全てのキリスト者は自分たちの政府に従うべきであり、国家の秩序を守るためであれば死刑も戦争も許される」と肯定するようになります。少数派の時には守ることができたイエスやパウロの教えが、教会が多数派になることによって、次第に意味を変えていきます。

・宗教改革者ルターも国家による秩序維持について、従来の考え方を継承しました。そのため近代に至っても、ローマ13章は国家に対するキリスト者のあり方の基本テキストとして用いられていきます。ローマ13章の解釈が大きく揺らいだのは、1933年にナチスがドイツの政権を握り、人々に服従を要求した時です。多くの教会はルターの立場を継承し、ヒトラー政権を神の権威の基に成立した合法政権として受け入れて行きますが、カール・バルトを中心とした告白教会は「政府が神の委託に正しく応えていない場合、キリスト者は良心を持って抵抗すべきである」ことを主張し、ナチスとの戦いを始めます。中心人物の一人、ボンヘッファーが「ヒトラー暗殺計画」に参加して、処刑されたことはよく知られています。

・私たちキリスト者は社会の中で生きます。ある時代には、「国家が戦争に参加するように求め」、キリスト者はどうすべきかが問われます。戦前の日本では信仰者も徴兵され、イエスが「殺すな」と語られている中で、殺すことを義務付けられ、兵役拒否者は非国民として投獄されて行きました。現代のアメリカでは多くのキリスト者がベトナムやアフガニスタン、イラクで兵士として徴兵され、死んでいく現実があります。国家に対してどのように向き合うのかは、キリスト者にとっても大事な問題です。

 

2.ローマ書は何故従うことを求めているのか

 

・このローマ13章を私たちはどう読むのか。聖書の言葉は、ある言葉だけを取り出した場合、恣意的に読まれる危険性があります。つまり、自分の思想や価値観の裏付けのために聖書が引用されるのです。その過ちを防ぐためには、聖書は文脈の中で読むべきです。ローマ書においては12-13章が一つの文章群になっており、パウロは「キリスト者のあるべき生き方」をいろいろな角度から教えています。直前12章では、パウロは、キリストに召された者として、世の人々と平和に暮らすことを勧めています。「あなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われると書いてあります・・・悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:18-21)。

・しかし人は、自分の思いが先行し、聖書の言葉に従うことができません。2001年9月11日にイスラム教徒からのテロ攻撃を受け、3千人のアメリカ国民が殺されました。その時、アメリカのブッシュ大統領は演説しました「テロとの戦いは、悪を取り除く神の戦いである」。アメリカはイラクやアフガニスタンを空爆し、地上軍を派遣しました。20年後の今年、アメリカはアフガンからの撤退を決定しましたが、米ブラウン大ワトソン研究所によると、同時テロ後のイラク戦争なども含めた米軍の戦死者は7千人で、自殺者は4倍以上の3万人にのぼるそうです。戦争による精神的負担、PTSDが多くの帰還兵を自殺に追いやりました。不完全な人間が自分の手で報復する、悪を自分の手で抜き去ることは、大きな悲劇をもたらすことを歴史は示しています。「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」という聖書の言葉を聞けなかったために、このような悲劇が生まれました。聖書の言葉は私たちが従うべき基準を示します。

・ローマ13章のこのような文脈の中で、「この世の秩序維持のためであれば戦争も含めた悪にも従いなさい」という伝統的な教会の教えは間違っていたことが明らかになります。パウロは、イエスが言われた従属の教えをここで考えています「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マルコ12:17)。キリスト者は良心の故に世の秩序に服従し、そのために貢や税や労役も世に支払います「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(13:7)。同時に神のものは神に納めます。だから、パウロは言います「世に倣ってはいけない・・・何が神の御心であり、何が良いことで、神に喜ばれ、また完全であるかをわきまえなさい」(12:2)。神に従うことは世に従うこととは異なることを認識すべきです。

 

3.あなたがその人の隣人になりなさい

 

・しかし、ローマ13章の中核は「上に立つ権威に従いなさい」という教えではなく、「隣人を自分のように愛しなさい」という教えです。パウロは語ります「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(13:10)。今日の招詞にルカ10:36-37を選びました。「良きサマリア人の譬え」の一節です。「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか』。律法の専門家は言った『その人を助けた人です』。そこで、イエスは言われた『行って、あなたも同じようにしなさい』」。律法学者は「永遠の命」を求めてイエスの下に来ました。イエスは彼に「隣人を自分のように愛しなさい」と教えられます。律法学者は更に問います「私の隣人とは誰ですか」。それに対してイエスは「良きサマリア人の譬え」を話され、強盗に襲われ、瀕死の旅人を助けたのは、同胞の祭司やレビ人ではなく、敵として嫌われていたサマリア人であったことを述べ、言われます「あなたもこのサマリア人のように敵を愛しなさい」と。

・マルティン・ルーサー・キングはこの個所の説教の中で語ります「祭司やレビ人が強盗に襲われた旅人を助けなかったのは、私の想像では彼らは恐れたからだ。彼らの最初の問いは『もし私がこの人を助けるために立ち止まったら、私に何が起きるのだろうか、強盗はまだ近くにいるのではないか』。けれどサマリア人は別の問いをした『もし私がこの人を助けるために立ち止まらなかったら、この人に何が起きるのだろうか』」。愛とは、「誰が私の隣人か」と問うことではなく、「誰が私を必要としているのか」を聞くことです。私が行為すればその人は私の隣人となり、行為しなければ私の隣人にならない。私たちは、隣人とは自分を愛してくれる人、自分の兄弟姉妹だと思っています。しかし、聖書が教えるのは、隣人とはあなたを必要とする人であり、その中にはあなたを憎む人、あなたに危害を加える人を含むということです。私たちの周りには、私たちの悪口を言う人、言われなき攻撃をする人が必ずいます。私たちはその人たちが嫌いです。しかし、その嫌いな人にためにキリストは死なれた。その嫌いな人を人格として愛することが神を愛することだと告げられます。

・再びキングの説教から聞いていきます。彼は語ります「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、どのようにして私たちは敵を愛することが出来るようになるのか。イエスは敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅かし、我々の家に爆弾を投げてくるような人をどうして好きになることが出来よう。しかし好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。憎しみは憎しみを生むだけだ。また、憎しみは相手を傷つけると同時に、憎む自分をも傷つけてしまう悪だ。自分たちのためにも憎しみを捨てよう。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」(キング説教集「汝の敵を愛せ」から)。「愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」というキングの言葉は、パウロがローマ13章で語った「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(13:10)から来ています。このような生き方に私たちは招かれています。私たちが私たちの助力を必要とする人のために何ができるかを祈り始めた時、私たちは神の国に近づいていきます。

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